【056】エインの葛藤と潜む者
昼に行われた回復魔法祭りからしばらくして、時は皆が寝静まった深夜。
辺境伯本邸に備え付けられた庭の片隅で、月を見上げて物思いに耽る青年が居た。
月を見上げていた青年はふとした瞬間、震える手で腰に差した剣に手を伸ばそうとし……、そして、躊躇からかその手を離す。
彼の怯えるかのような姿はまるで、自らが剣を握ること自体を咎めているようだった。
「くっ……、剣が遠く、そして重く感じる……。いや、違うな。これは俺の恐れそのものか……」
剣の道を極め続けながらも、今は道そのものを見失いつつある青年、エイン・クルーガーは呟く。
彼は数日前、自らの油断から守るべき主君である聖女を危険に晒してからというもの、こうしてまともに武器を持つことすらできなくなっていたのだった。
勘違いしやすいが、油断したという事実が彼を苦しめているのではない。
彼が真に苦しんでいるのは、何よりも大切な聖女が死にかけている時、気持ちが出遅れたあまり一歩も動けなかったことが、これ以上ないトラウマになっているのである。
実際はそんなことはないのだが、おそらく自分自身を魔族を前にして怯えた臆病者、または大事な時に一歩を踏み出す決断から逃げた卑怯者だと、そう思っているのだ。
そして、そんな自問自答を続けながらも、月明りが照らす深夜の辺境伯本邸で悔やんでいた彼をみかねたのだろうか。
彼のもとへ、一人の少女が姿を現した。
「あら。ずいぶんと辛気臭い顔を見せるのね、私を守る近衛騎士様は」
「お嬢様……」
現れたのは、美しい月明かりをその艶のある青髪に煌めかせた聖女、イーシャー・グレース・ド・カラミエラであった。
彼女はまるで、エインが悩んでいたのを見透かしていたかのように皮肉を言うと、剣に触れられずに震えている彼の手にそっと自らの手を重ねる。
「無様ね……」
「…………はい、お嬢様の言う通りです。俺はあなたを守る騎士でありながら、その役目を果たせずアルスに救われたばかりか、こうして剣士としての心まで折れた負け犬なんですよ。まさか、お嬢様に見抜かれているとは思いませんでしたけどね」
守るべき人から言われた鋭く辛辣な言葉に、今にも壊れそうな笑顔で肯定を返す。
だが、彼からしてみればそんなことは言われるまでもなく事実であり、自分の状態は誰よりも自分が分かっていた。
誤算があるとすれば、周囲にはできるだけ隠し通してきたと思っていたのに、この聖女には完全に見透かされていたという部分くらいだろうか。
しかしそんなエインの返答を聞いた聖女イーシャはなぜか首を振ると、自嘲気に笑った。
「違うわよ。勘違いしているようだけど、無様なのは、私よ」
「お嬢様?」
「ねぇ、エイン。あまり馬鹿にしないで。あの時魔族に抵抗できなかったのは、あんたの責任じゃないわ。これは、魔族に対抗でき得る存在として期待されて育ち、教国の皇女として、聖女として扱われてきた私が犯した失態なのよ」
少し怒りを込めた瞳でエインを睨み宣言する彼女の表情には、とてもではないが、十歳の女の子には似つかわしくない強烈な決意が込められていた。
その激情にも似た決意を見たエインはたじろぎ、一歩だけ後ずさる。
「いい。よく聞きなさい私の騎士。もし私のことを想うのならば、そんな私を守るために、今まで積み重ねてきたあんたの努力を、剣を、決して裏切らないで。たとえ私がこの先力及ばず、どこか道半ばで魔族の凶手に倒れようとも、あんたとアルス様さえいればきっと、この世界はなんとかなる。私、なんとなくだけど分かるのよ。まあ、これも敬虔な信徒である聖女に下された、神のお告げというやつかしらね?」
最後にちょっとだけ冗談めかして舌を出すと、先ほどまでの激情はどこへやら。
聖女は朗らかな表情で、いつものように少しだけエインを食ったような笑いを零した。
だがどんなに軽く流そうとも、自らの命すら軽んじるかのように言うその言葉を聞いたエインは、気が気ではない。
頭に血が昇った影響なのか、怒りによって一時的に恐怖をねじ伏せた彼は強い口調で詰め寄った。
「お嬢様が命を投げ出すなど、そんなことはさせない!! もう二度と、俺の目の前でお嬢様を見殺しにすることなどない!! そんな未来は、もう二度と訪れない!!」
そう言いきった彼の目には既に、恐れも怯えも、後悔すらも感じられなかった。
そこにあるのはただ、この守るべき人を二度と危険には晒さないという、一つの決意のみ。
そしてそんな彼の手にはいつの間にか、剣士の魂そのものである、腰に差した剣が握られていたのだった。
「ふふ。そうそう、その顔が見たかったのよ。なによあんた、やればできるんじゃない。心配して損したわ。……もしかして、私に心配して欲しくて、わざと情けない風体を装ってたの? でも、やっぱりあんたはそうやって剣を持っている姿が、一番お似合いよ」
「なっ!?」
我を忘れるかのような一瞬の怒りから覚め、いつの間にか己の手に握られていた剣に驚き目を剝くエイン。
彼は、この数日間の悩みはいったいなんだったのか、というくらいに簡単に問題が解決したことで少々恥ずかしい気持ちが芽生えつつも、こうして発破をかけてくれた聖女には感謝してもしきれない思いを抱いていた。
「くっ、図りましたねお嬢様! ……ですが、おかげで目が覚めました。全く、自らの命を投げ出すような台詞をダシに護衛を鼓舞するとは、さすがはじゃじゃ馬お嬢様といっておきましょうか。しかし、確かに今日のところは完敗ですよ。ええ、俺の負けです」
「あら? なんのことかしら? 私はただ、ありうるかもしれない未来の一つを語っただけよ。深読みしないで欲しいものねぇ~」
小言の応酬を続ける二人の表情には、既にいつものような人を煽る軽い調子が戻っていた。
もう誰が見てもいつものエイン、いつもの聖女、いつもの二人の関係そのものであり、通りすがりの何者かがもし仮に覗いていたとしても、そんな通りすがりは安心して胸を撫でおろしていることだろう。
きっと、そうに違いない。
◇
「……へぇ。イーシャちゃんのひっかけがあったとはいえ、結局は自力で持ち直したんだ。やるね、エイン。これならもう、僕の出る幕はなさそうだ。君が折れてしまうのではないかと思って、ちょっとだけ心配してたんだよ。まあ、友達だしね。……見捨てられないさ」
青年と少女が笑い合う庭の死角で、柱の陰に隠れて見守っていた金髪碧眼の少年は呟く。
その碧眼には純粋な安堵が含まれているものの、しかし決してこの先の問題に対して油断はしていない聡明さが見え隠れしていた。
「まあ、心配しなくても大丈夫だよエイン。君やイーシャちゃん、そしてハーデスを失うような未来なんて、僕が絶対に訪れさせないから。それがたとえ、どんな強敵が相手だろうと、ね……」
そういって金髪碧眼の少年アルスは、用のなくなったこの場から闇夜に溶け込むようにして消えていく。
果たして彼の心には今、一体なにが映っていたのか。
それを知る者は、この場にはいない。




