【006】眠っていた力
湖から浮上してきた何か。
それは白く巨大で、二枚の平べったい岩が重なったような厳かな魔物だった。
見ただけで委縮するような存在感と、明らかに格上の敵に二人は息をのむ。
この子供達を隠れて見守っているカキューは一言で、「え、なんでホタテ……」と呟いているが、子供達にとっては未知の生命体だ。
街から出たことのない子供が地球のホタテを見たことがあるわけもないし、そもそもあの横幅十メートルほどもある岩の塊が、貝だとすら認識していないだろう。
「ちょっとやべーかも。おい、アベル分かってるな?」
「ああ! か、かっこいいなあれ!」
「……は?」
しかし息をのむといっても、二人には別の意味での温度差があった。
明らかな格上の出現に、とりあえず逃げることを打診しようとしているエキナに対し、アベルは巨大ホタテのどこをどうとったのか目を輝かせて興奮する。
さながら怪獣映画に出てくるドラゴンを見たかのような興奮ぶりに、やんちゃでありつつも女の子としての感性が色濃く出ているエキナは、何言ってるんだこいつと思って全く理解できないでいるらしい。
いまも目を半眼にして、幼馴染の頭をひっぱたいて目を覚まさせてやりたい衝動に駆られているが、ここで気絶したアベルを背負ってあの怪物から逃げるのは無理だと判断してぐっと堪えているようだ。
ただ一つ疑問に思うことは、アベルはあの巨大魔物を本能的に敵対生物ではないと思っているらしく、少しの警戒も必要ないと感じているらしいことだ。
その理由が何なのかさえ分かれば安心もできるのだが、他人が警戒を解いているからといって油断などするわけがないのが、捻くれまくった性格を持つ小悪魔ちゃんの良いところ。
そうこうして興奮している男心込みでどうやって逃げるかを考えていると、いままで空中に浮いたまま静観していた魔物が動きを見せた。
恐らくは魔法なのだろう。
魔力によって湖の水分を触手状に加工したホタテは、興奮した様子で警戒を解いているアベルに向けて鋭い触手パンチを放ったのである。
「アベル!」
「え……?」
水の触手が何を意味するのかは不明だが、警戒するかしないかという絶妙なタイミングを狙いすましたかのように攻撃が迫る瞬間。
ドン、という勢いと共に横から突き飛ばしたエキナが、アベルの代わりに水の触手に囚われる。
触手はそのまま必死に足掻くエキナの抵抗をあざ笑うかのように身体を絡み取り、隠し持っていた魔石すらも体内に吸収して封殺した。
まだ能力が心もとない五歳児が切り札の錬金術を行使するためには、魔石は必須の媒体であり大事な魔力タンク。
これらを封じられてしまえばエキナはただの非力な幼児でしかなく、そこらへんの同年代より強い腕力だって大人の農民の域を出ない。
完全に万事休すであった。
「あ、あ……。エ、エキナァ!」
「なにやってんだ、早く逃げろバカ! 逃げていますぐにとーちゃんたちを、ガボッ……!」
突然の事態に動揺するアベルを見て、そんなことに構っている場合ではないと叱咤するが、時すでに遅し。
最後まで抵抗しようとするのが目障りだったのだろう、魔物は触手で口を塞いで今度こそ全ての動きを封じた。
獲物を生きたまま捉える習性でもあるのか、塞がれたのは口だけで最低限息はできるようだが、それは気休めにしか過ぎないだろう。
既に足掻く体力も尽きかけたエキナはぐったりとした様子で動きを止め、触手を通じて魔力が吸われているのか意識も徐々に朦朧としてきているようだ。
いつその気まぐれで無抵抗なまま殺されてもおかしくはない状況に、さすがのアベルも目を覚まし、ゆっくりと俯き絶望するしかない。
いや、これは絶望というよりは────。
「…………なんだ、また、俺のせいか」
────禍々しくドス黒い、地の底から這い出てくる悪意。
────静かで熱い、怒りの感情だった。
その粘つくような怒りがどこから来るものなのか、心がぐちゃぐちゃでよく分からない。
単純に敵への怒りなのか、失敗ばかりな自分への怒りなのか、こんな無能のために犠牲になってしまう幼馴染への怒りなのか。
何も分からない。
分からないが、いままで無意識のうちに抑えていた胸の内から、人間のものではない何かが這い出てこようとしているのだけは分かる。
ドクン、ドクン、ドクン、と心臓の鼓動が脈打つたびに、いつの間にか勇者アルスから引き継いだはずの鮮やかな金髪は赤黒く染まり、透き通るような碧眼は緑と青に分かれ魔眼となっていたのだ。
本人に自覚はないが、これはまさしく全魔族の頂点、激しい感情の揺さぶりで覚醒する魔王の系譜が影響しているだろうことだけは間違いない。
これを背後から見ていたカキューは孫が持つ魂の変化に瞠目し、一瞬止めに入ろうかと迷うものの、もう少し様子を見て信じてみることにしたらしい。
ただしメルメルに関しては魔王の系譜が持つ魔力に驚いてしまったのか、魔王との決戦のような緊張感を思い出してちょっとだけチビってしまい、内股になって漏らしたのを隠しているらしい。
まあ、チビったのもほんの僅かなので染みにはなっていないのだが、そこは気分である。
最高位天使となり出世したわりには、ショッキングな状況に弱い憐れなちびっこ天使のようだ。
するとようやく覚醒を終えたのか、ただ魔眼で睨むだけで巨大魔物の動きを完全に封じていたアベルが、ついに剣を抜く。
かつて魔王へと覚醒したハーデスのような朱いオーラを身に纏い、一歩一歩と距離を詰め、敵へ告げる死の宣告のように歩を進めた。
「俺は無能なんだよ……」
怒りに呑まれ、本来の意識が残っているかも怪しいアベルの口から自然に言葉が紡がれる。
────父さんの息子でありながら、それに見合うだけのセンスが無い。
────母さんの血を引きながらも、魔法を扱うほどの適性も無いし、頭も良くない。
言葉を紡ぐたび、悔しさと絶望、そして怒りを乗せた魔力が空気を震わせる。
膨大な魔力は周囲の空間を朱く染め上げ、ただそこにいるだけで標的となった巨大魔物は魔法を維持できなくなる。
既に魔物は魔眼の力と攻撃的な朱い魔力にあてられ、戦意喪失どころか体内に残っていた魔力すらも朱い魔力に食いつぶされてしまって身動きも取れないらしい。
それに水が象った触手はとっくに崩壊し、解放されたエキナはアベルの変貌ぶりに目を見開き驚いているようだった。
「アベル、お前……」
この状況に理解が及ばず掠れた声で目を見張るが、それでもある意味こうなることはエキナの中で不思議なことではなかった。
彼女は知っていたのだ。
内心では才能が無いことに嘆きながらも努力を続け、それでも成果が得られない日々を送る口惜しさを。
それでも、そんな心の内を覗かせないため何でもないように笑い、家族や友達の期待に応えようとしてきた強さを。
本当は戦うことにそこまでの興味なんてなくて、尊敬する両親が救ったこの平和な世界を愛しているだけの、優しい男の子だということを。
だから、そんな努力を続ける強くて優しい幼馴染が、本当は一番最強でカッコいいヤツなんだってことを、エキナだけはずっと知っていた。
だから。
だから。
「お前がこの湖を浄化している精霊なんだってことは知っている。何が原因で俺の幼馴染を襲ったのかも分からない。だけど……」
────俺の大事な人を傷つけるというのなら、たとえ誰でも容赦はしない。
だから。
こんなことで。
いままで守ってきたその優しい心を、簡単に投げ捨ててほしく無かった。
「もういい、やめろ! アベル! お前の勝ちだ! 勝ちだから……! いつものアベルに戻ってよぉ……!」
「…………ッ」
エキナが涙を流しながら叫んだ瞬間、ドス黒い赤に染まっていた髪色は何事も無かったかのように元に戻り、空は雲一つない青色に戻る。
しかも暴走している本人に意識がないのが影響したのか、元に戻ったアベルはしきりに周りをキョロキョロと見渡し、急に解放されている幼馴染と、大人しくなった巨大魔物を見て首を傾げているようだった。
「あれ? 俺……? え? なにがあったんだ? うぇ、なんかエキナが泣いてる!?」
「こんの、ばかっ! 心配したってーの! この、このぉ!」
「イタタタタタッ! ちょ、やめ、やめてぇ!」
正気に戻ったのを見たエキナが駆け寄り、押し倒すような形でその顔をぽかぽかと殴る。
アベルには何が何だかよくわからず混乱するばかりだが、隠れて一連の流れを見ていたカキューはほっと胸を撫でおろし、なんとか自分を見失わないで済んだようだなと一安心するのであった。
そうしてそろそろ今回の冒険も潮時だなと感じたカキューは、わざと足音を立てながら二人の前に姿を現す。
「よう二人とも、ずいぶん遅いから探しに来たぞ。……って、なんだか妙なことになってるな」
「あっ、じいちゃん! エキナがなんか知らないけど暴れて大変なんだ、助けて!」
「暴れてないし! おめーが全部悪いんだし!」
湖に力なく浮かぶホタテと、痴話げんかをする子供達。
一部始終全てを見ていたはずのくせして、まるで何も知らないように装う下級悪魔は、けっこう空気の読めるやつであった。
「ま、それはそれとしてだ。おい、チビスケ居るんだろ。降りてこい」
「ぴゃぁっ!」
「ぴゃぁ、じゃねえよ。お前が過去にやらかしたせいで龍脈が僅かにこんがらがり、自然を調整しきれなかった精霊が暴走したんだろが。責任とってあの精霊を癒してこい」
「うぃ……!!」
カキューによると、あのホタテはこの地の精霊だったらしい。
そう考えるとメルメルが全ての元凶のようにも思えるが、実はちょっとだけ情状酌量の余地がある。
精霊が暴走したのは確かに地脈龍脈といった自然のバランスが崩れかけたことによるものだが、あの頃のちびっことて天使の一端であるため、わざとそこまでの無茶はしない。
では何が本質的な原因かと言えば、メルメルの打ち上げ花火に邪竜の膨大な魔力と怨念が混ざり、負の魔力として龍脈に混ざってしまったことが原因なのだ。
つまり、間接的にはキャンプファイヤーのコントロールをミスったメルメルも悪いが、本当に悪いのは自らの死を利用して大地を呪った邪竜の悪意だったということである。
といっても、冒険に出かけた二人がここに現れて精霊を刺激しなければ、あと半年くらいで自然はバランスを取り戻していたくらいの出来事なので、そんなに深刻な話ではない。
精霊が暴走したといっても、あとちょっとで自然のバランスが保てるというときに、なんか厄介なのが来たから生け捕りにして邪魔できないようにしておこう、という感じでしかなかった。
勇者の息子だからなのだろうか、それとも魂や魔力と繋がりの深い魔界姫の息子だからだろうか、アベルも直感でそれが分かっていて安心していたのだ。
まあ、結果的にはキレかけていたわけではあるが。
なにはともあれ、そうこうして上空からメルメルを手招きしたカキューは残った龍脈の調整を任せ、この場を治めたのであった。
最高位天使に出世したメルメルとしても、既に過去の自分とは違うことを証明するいい機会だと思っているのか、「ふんふんふ~ん」という具合にささっと調整を終えてしまう。
精霊が残り半年をかけなければ終わらない作業を、たった数十秒で終えてしまうとは、本当に能力だけはエリートなんだなと認めざるを得ない。
ちょっと頭が足りないところもあるが、そこを補ってあまりあるコントロールとパワーが確かにあるようだ。
「あっ、何か見つけたのよね~」
「ん? ああ、それか」
そうして湖のバランスを調整し終えたあと見つけたのは、黒色に光る竜の鱗。
浄化された邪竜の残した最後のひと欠片であった。
「これ、記念としてあたちの宝箱に、あっ……」
「へへっ! なんだよこれキレーじゃん! そこの良く分かんないヤツにゃわりーけど、慰謝料としてもらっておくぜ~」
メルメルがニンマリ笑顔で空に翳した瞬間、暗殺者としての技術で隙を突いたエキナが奪いコレクションにしてしまう。
いつの間にか消えていた手の中の鱗に対し、無言でサングラスをくいっとするが、特に何をすることもないようだ。
ただ、一言。
「こ、子供にかまってあげるのも、エリートな天使の器だったりして」
などと宣い、またどこかへ「FHOOOOO」と叫びながら飛んで行ってしまうのであった。
悔しくないったら、悔しくない。
ちょっといつもの「FHOOOOO」に元気がなかったけど、エリートな天使は子供の味方なのだ。
こういうことだって、時にはある。
そんな感じで二人の冒険は終わり、あとは迎えにきた下級悪魔と魔法城へと戻るだけかと思いきや……。
「で、なんか知らないけどついてきちゃったんだよ、こいつ」
魔法城へ戻った二人の子供達の後ろには、空中をふよふよとスローな感じで飛行して後をつけてきたホタテ精霊が一匹。
ちょっと意味が分からなくて、次の瞬間に待機していた全員で、「なんでだよ!?」と叫んでしまったのはご愛敬だろう。
ということで、第一回の冒険はこれにて終わりとなります(`・ω・´)
次回から、また別の展開が待っているので、お楽しみに!
フラダリアちゃ~ん、出番ですよ~!