My Sweet Orange
「えー、みんなも知ってると思うが、うちのクラスの柏木が昨日からオレンジの樹になってる。だけど、思春期にはよくあることなので、それについて色々と騒ぎ立てたりしないこと。みんな、わかったな。はい! 以上で、ホームルーム終わり!」
担任教師が名簿を教壇にピシャリと叩きつけ、朝のホームルームが終わった。周りのクラスメイトが席を立ち始め、次の授業の準備で教室の中が少しだけ騒がしくなる。窓際に座る僕は窓の外へと目を向け、中庭の端っこに生えているオレンジの樹を見つめた。正確に言うならば、昨日から人間であることを辞めて、オレンジの樹になった柏木さんの姿を。樹の葉っぱは力強い緑色をしていて、幹の色は濃い。生い茂った葉と葉の間からは枝分かれした幹が覗いていて、なだらかな曲線を描いて空へ向かって伸びているのがわかる。僕はじっとその樹を見つめた。そのオレンジの樹は僕が片想いしている女の子の面影を少しだけ残していて、そしてどこか、寂しげな感じがした。
「ねえ、何で柏木さんがオレンジの樹になったか知ってる?」
「何で何で?」
「なんかね、付き合ってる一年上の先輩から振られたショックでああなっちゃんだって」
「えー意外。柏木さんの彼氏ってバスケ部の近藤先輩だよね。バスケ部のエースと生徒会副会長の美男美女カップルだったのに」
休み時間になると教室の隅からそんな噂話が聞こえてくる。僕はできるだけ平静を装って、そんな噂話なんて関心がないって振りをする。それでもクラスメイトはそんな僕の気持ちなんて素知らぬふりで、「新島くんって生徒会役員だよね? そこらへんの話って本人から聞いてたりしてないの?」と目を輝かせながら聞いてくる。実は僕も知らないんだよね。生徒会で毎日顔合わせてるんだから知ってるでしょ。本当に知らないんだって。そんな不毛なやりとりを交わした後で、相手はまた別の人の元へと話を聞きにいく。尋問から解放されたことにほっとしながらも、僕の心の痛みは止んでくれない。なぜ柏木さんがオレンジの樹になってしまったのかは僕にもわからない。でも、みんなが話している噂話が、あながち外れじゃないことに僕は薄々気がついていた。
「生徒会の仕事は大丈夫なの?」
「ああ、それは大丈夫。別に今忙しいってわけでもないし、いつも僕が柏木さんの仕事を手伝ったりしてるしさ」
「吉弘くんっていつもそういう尻拭いばっかりしてるよね」
「ははは、言われてみたらそうかも」
みんなが噂の真相を聞きにくる中で、昔馴染みの里帆だけがそんなことを聞いてくる。噂話の真相を聞きにきたんじゃないのと僕が尋ねると、聞いて欲しかったの? 里帆が茶化す。それから里帆が笑って、思い出したように自分のそばかすをそっとなぞった。
僕はもう一度中庭に生えたオレンジの樹へ視線を向けた。オレンジの樹になった柏木さんは誰もいないあの中庭で一体何を考えているんだろう。近藤先輩のことを恨んでいるのだろうか。それとも振られたショックで悲しみに暮れているのだろうか。どうしてもオレンジの樹になった柏木さんのことが気になって、どうしても放っておくことができなくて、授業中も休み時間も、気がつけば中庭にいる柏木さんの姿を見つめていた。オレンジの樹をそうやって見つめていると、僕の頭の中で、人間の姿の柏木さんが思い浮かんでくる。いつも笑顔で、誰にだって優しくて、自分でも引くくらいに恋焦がれている想い人は、僕の思い出の中ではいつも、僕がいる方向とは別の方向へと顔を向けていた。
学校の授業が終わって、いつものように生徒会室へと向かう前に、僕は柏木さんのいる中庭へと立ち寄ることにした。昇降口で上履きから外靴に履き替え、中庭へと続く苔の生えた石畳の歩道を渡り、オレンジの樹の元へと歩いて行く。柏木さん、大丈夫? オレンジの樹の前に立った僕は、そんな風に彼女に話しかける。
「えっとさ、色々辛いとは思うけど、元気出してね。とりあえず、生徒会の仕事は他のみんなでなんとかするから、安心して」
いつもは緊張して上手く話せないくせ、僕はいつになく饒舌にそう話しかける。もちろん相手はオレンジの樹だから、僕がいくら語りかけたところで返事が返ってくることはない。こんなことやって何になるのかなんてわからないし、そもそも耳を持たないオレンジの樹に僕の声が本当に聞こえているのかもわからなかった。中庭に風が吹いて、オレンジの樹の枝が小さく揺れる。夕陽の一部が雲に遮られて、少しだけ周囲が暗くなる。また顔を見せにくるね。僕はそれだけ言い残すと、オレンジの樹になった柏木さんに背を向け、一人生徒会室へと歩いていった。
それからというもの、放課後になると僕は必ず、中庭にいる柏木さんのもとへ顔を出すようになった。本当に悲しんでいるのであれば少しでも慰めてあげたかったし、生徒会役員の一人として、生徒会副会長をそのまま放っておくわけにもいかなかった。だけど、そんな純粋な気持ちだけでやってるわけじゃないってことは自分でもわかっっていた。彼女のことが好きだから、一日でも早く彼女の笑顔をもう一度見たいから、そして自分の気持ちに少しでも気がついて欲しいから。だから僕は、毎日毎日返事も返ってこないオレンジの樹に向かって、話しかける。
「ねえ、もう柏木さんのところに行くのやめたら? 確かに心配する気持ちはわかるけどさ、吉弘くんがそこまでする必要はないんじゃない?」
里帆が心配そうな表情でそう忠告してくれても、僕はそれをやめるつもりはなかった。一週間が経ち、二週間が経ち、他の人たちの関心が別の話題に移り変わっても、僕だけはずっと中庭のオレンジの樹のもとへと通い続けた。それは執着でもあったし、意地でもあった。自分の柏木さんに対する気持ちを、自分自身で試していたのかもしれない。僕は通い続けて、そしてオレンジの樹に話しかけ続ける。そして月日は無情にも流れていく。いつまで立っても柏木さんは元の姿には戻らなかったし、僕の語りかけに対して返事を返してくれることも、なかった。
そして、ある日。いつものように中庭へ顔を出し、生徒会室へと戻ろうとしていた時だった。偶然開いていた体育館の扉から、ボールの弾む音が聞こえてくる。僕は少しだけ迷った後で、体育館の中を覗いてみる。今はちょうどテスト前期間で、運動部の姿はない。広い体育館には一人、バスケ部の練習着を着た男子生徒がいるだけ。その人物が綺麗なフォームで、フリースローを行う。弧を描いて飛んでいったバスケットボールはゴールリングに弾かれ、僕の元へと転がってくる。ボールを追いかけてきたその人物を見て、僕は息を飲んだ。相手もまた僕を見た後で、何かを思い出したように力強くまばたきをする。
「えっと、近藤先輩ですよね」
「君は確か、生徒会の……」
「新島です」
「そうそう、ごめんね。新島くんか。見たことある顔だと思ったんだよね」
僕がボールを拾い上げ、近藤先輩の顔を見つめた。僕たちの間に気まずい沈黙が流れる。柏木さんがオレンジの樹になったのって知ってます? 挨拶をするでもなく、世間話から入るでもなく、なぜか僕はそんな問いを何の脈絡もなく先輩にぶつける。先輩の表情がその言葉に反応して陰った。うん、知ってるよ。先輩の声が広い体育館の中で小さく反響する。それはまるで自分を責めるような、自嘲混じりの声だった。
「柏木がオレンジの樹になったのも、それが多分、俺から別れ話を切り出したことが原因だってことも知ってる。でも、知ってるけど、今更どうしようもなくてさ」
「先輩。一度でも中庭に行って、柏木さんに顔を見せたことありますか?」
いきなり噛み付いてきた僕に怒るでもなく、不機嫌になるでもなく、近藤先輩はただ黙って首を横に振った。先輩の端正な顔立ちも、言葉の端から滲む優しさも、全てがむかついて仕方がなかった。近藤先輩と柏木さんの間で、きっと他の人にはわからない複雑な事情があるんだろうってこともわかる。でも、どうして自分じゃなくて近藤先輩が、という気持ちが、胸の奥で燻る。それと同時に、先輩が中庭にまだ一度も行っていないことに対して、僕は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただただ安心した。自分の気持ちのほうが強いことがわかったから、きっと柏木さんもそんな先輩なんて愛想をつかすだろうって決めつけたから。そして、自分のそんなみっともなさに、自分で自分に反吐が出る。
行ってあげてください。柏木さんは今はオレンジの樹になっるから返事を返してくれるわけじゃないですけど……それでも、ごめんとか一言謝らなきゃ駄目だと思います。僕は生意気にも近藤先輩にそうけしかけた。当てつけとか、嫌がらせとか、そんなみっともない動機が自分にあることから目を逸らして。
「わかった」
少しだけ間が空いたあとで、近藤先輩がそう頷いた。絶対に行かないだろうと高をくくっていた僕は一瞬だけ言葉を失う。行くよ、こんな優しい後輩にそこまで言われたらさ、行くしかないじゃんか。近藤先輩が顔を上げて、力なく微笑んだ。僕は手に持っていたボールを近藤先輩にパスして、約束ですよと念を押す。僕は体育館から立ち去ろうと、そのまま近藤先輩に背を向けた。このまま彼と向き合っていたら、何か変なことを言ってしまいそうな気がして。そして、逃げるように立ち去ろうとした僕に向かって、近藤先輩が力強い声で呼びかけてくる。
「新島くん!」
「はい?」
「……ありがとう」
嫌われてしまえ。その言葉をぐっと飲み込んで、どういたしましてと返事を返す。僕はそのまま体育館を出た。後ろの方から、近藤先輩が体育館から出ていく足音が聞こえてくる。嫌われてしまえ。そうすればきっと。思い浮かんだ考えをぐっと押さえ込み、目の前に伸びる影を見ながら生徒会室へと向かった。
そして、次の日。中庭からオレンジの樹の姿が消えた。代わりに教室には、人間の姿に戻った柏木さんがいた。
教室の隅で、柏木さんは久しぶりだねと他の友達と仲睦まじげに話していた。透き通った声も、綺麗に通った鼻筋も、オレンジの樹になる前と同じ姿だった。担任教師が教室に入ってくる。ホームルームの冒頭で先生が冗談混じりに「お帰り」と柏木さんに伝えて、そのままいつものようにホームルームが終わる。教室を移動するためみんなが席を立つ。授業の教科書を持って廊下へ出たタイミングで、僕は後ろから呼び止められる。振り返ると、柏木さんが僕の方へと駆け寄ってくるのが見えた。彼女が僕の前に立ち止まり、肩まで伸びた髪が揺れる。柏木さんの髪は、ほんのりと柑橘系の匂いがした。
「本当にありがとう」
その言葉に僕の呼吸が止まる。何が? 何も心当たりがないような振りをして、でも、期待を胸にそう尋ねる。柏木さんは一瞬だけ目を伏せて、それから照れ臭そうに頬を掻いた。それから、柏木さんは僕の目をじっと見つめて、はにかむ。
「聞いたよ。中庭に行くようにって新島くんが近藤先輩の背中を押してくれたこと。新島くんのおかげで、私、近藤先輩とやり直せることになったの」
そして柏木さんが説明を続ける。近藤先輩が中庭に来てくれて、今までずっと来れなくてごめんと謝ってくれたこと、先輩がずっと隠していた別れ話の事情を話してくれたこと、そして、寄りを戻そうと言ってくれたこと。柏木さんの頬はほんのりと桜色で、目は潤んでいた。柏木さんの言葉一つ一つが心を抉る。それでも僕はできるだけ笑顔で柏木さんの話を聞き続けた。今度、学食でもおごらせてね。いつものようにおどけた言葉を残して、柏木さんは仲の良いクラスメイトの元へと駆けていった。
「何ヘラヘラしてんの? バカみたい」
その場に立ちすくんでいた僕の横を、里帆がそう吐き捨てながら通り過ぎていく。本当にありがとう。柏木さんの言葉が頭の中で残響のように繰り返し繰り返し再生される。
あわよくば。なんてことを思っていた自分がどうしようもなく惨めで、心のどこかで見返りを求めていた自分がどうしようもなく意地汚くて、底のない自己嫌悪の沼にただただ沈んでいくことしかできなかった。何も考えることができなくて、胸が締めつられるように痛い。僕は仮病を使って家に帰って、そのまま逃げるように自分の部屋へと引きこもった。愛憎入り混じった感情が心の中で暴れ回る。結局何が正解だったのか、どれだけ考えても答えが出てこない。だけど、ズタズタに引き裂かれた気持ちの中で、それでもやっぱり柏木さんのことが諦められない気持ちが残っていることに気がついて、そのことがさらに自分の胸をかきむしる。一言で良かった。もし、あの廊下で柏木さんに、毎日会いにきてくれてありがとうって言ってもらえたら、きっとこの気持ちは報われたんだと思う。そんなどうしようもない考えが頭の中をぐるぐると回り続ける。
僕はそのまま布団に包まって、沈んだ気持ちのまま眠りに落ちた。そして、眠りから覚めて意識が戻った時、僕は学校の中庭にいて、そしてそれから自分が葡萄の樹になっていることに気がつく。
周囲の風景に意識を研ぎ澄ます。見慣れた石畳。壁に這うように伸びているスズシロ。時折風が吹き抜けて揺れる樹々の葉。窓から見える廊下を行き交う生徒の上半身。うっすらと感じ取ることのできる周りの景色から、ここは柏木さんが一昨日までいた場所と同じだということに気がつく。
葡萄の樹になったことを受け入れ、僕はただひたすら想い人を待ち続けた。最初の数日は友達がやってきたけれど、それもいつの間にかなくなる。里帆だけは毎日決まった時間にやってきて、今日の出来事なんかをちょっとだけ話し、そのまま部活動へと戻っていく。そして、また静寂が訪れる。そしてまだ、僕の想い人は来てくれない。
移ろい続ける中庭で、人気のない中庭で、僕はただひたすら想い人を待ち続けた。時間はゆっくりと流れ、雑音のない世界は透き通るような色をしていた。そして、こうして時間の流れに身を任せていると、オレンジの樹になった柏木さんの気持ちがちょっとだけわかるような気がした。柏木さんが僕ではなく、近藤先輩を待ち続けた理由も。いつかきっと近藤先輩がここに来てくれると信じることができた理由も。すべて。だから、僕も待ち続ける。静かな中庭で、愛しい想い人を。
そんなことを考えながら一日が過ぎていく。
そして今日も、柏木さんは中庭に来てくれなかった。




