第8話 お仕置き
「モスコミュールです。お待たせしました」
バーテンダーは二人のそんな会話に割って入るかのように、慣れた手付きでカクテルを差し出した。
「有り難う。美味しそうね」
女性は微笑みを浮かべながら片手で軽くグラスを摘まんだ。真冬のこの季節、店内は上衣無しでも十分寒さを感じない程度に室温は保たれている。そんな中、氷で十分に冷やされたグラスの表面には結露が生じて実に滑り易い。
「あらっ!」
女性が軽く摘まんだグラスは不運にも指には挟まりきらず、見事にカウンターの上に落下してしまった。
ガシャン! その拍子にグラスの中のカクテルは、そのほとんどか絵に書いたように女性の胸元へと飛んでいく。
「あら失敗。びちょびちょだわ...... あなたちょっと拭いてくれる?」
見れば女性の白いブラウスは見事に酒を含み黒い下着がくっきりと浮かび上がっているではないか。
「いや、ちょっと急にそんな事言われても......おっ、おしぼりはどこだ?!」
慌てふためく青年を煽るかのように、女性は更に言葉を重ねた。
「早くしてよ......あら......あなたがモタモタしてるから下着までびちょびちょになっちゃったじゃない。一体どうしてくれるのよ」
「すっ、すみません。今拭きます」
青年の狼狽ぶりはマックスに達していた。青年は尚も慌てふためき必死になっておしぼりを探す。
「もういいわよ......今更拭いても遅いわ。あなたにはちょっと......お仕置きが必要みたいね」
「おっ、お仕置き?!」
東京では、夜の育みの事をお仕置きとでも言うのだろうか?......そんな話は聞いたことがない......でも誘って来ている事は明らかだ......やっぱこれはチャンスに違いない!
青年の顔は、いつの間にかにやけている。健康な男子とあらばそれは正常な反応と言えよう。
「そうよ。あなたもお仕置きして欲しいんじゃないの? 正直に言ったらどう?」
フェロモンを撒き散らしながら、誘惑の手を緩めない女の目は、正に獲物をつけ狙う悪女の目と化していた。自ら張り巡らせた蜘蛛の巣に掛かる獲物を、虎視眈々と待ち受ける毒蛇と言っても過言ではない。
「お仕置き......してくれ......」
「よく聞こえないわ」
「お仕置きしてくれ!」
バーテンダーの耳には、明らかに二人の会話が入ってきているはず。にも関わらずバーテンダーはそっぽを向いてグラス洗いに集中している。
「あら、あなた素直じゃない? 気に入ったわ」
「へっ、へっ、へっ......素直だけが取り柄なもんで」
「そうよ。人間は素直じゃなきゃだめ......じゃあそろそろ行こうかしら。あなた名前は?」
「名前? ああ......健介......工藤健介」
「いい名前じゃない。私は美緒。覚えておいて」
そう言いながら、美緒は素早くコートを纏うとバッグを手に取った。
「あなた払っといて。金持ちなんでしょう」
青年も美緒に遅れてはならじと、着慣れた薄汚いドカジャンを素早く羽織る。




