第2話 バリケード
女は扉が開くと同時に、一直線の通路を非常階段に向かって全速力で駆け抜けた。一流ホテルの最上階ともなると、そこに連なる部屋は所謂貴賓室、特別室などの類いなのだろう。通路を彩る装飾も、他階とは明らかに差別化された品位が保たれていた。
あの走るスピードから想定すると、1フロア掛け上がるのに要する時間は凡そ5秒。この10階まで到達するには単純計算で40秒。途中ペースが落ちる事を考えると45秒が妥当な線だ。
それに対し、こっちはエレベーターに乗り込むまでに、9・5秒。ここのエレベーターはあのGからすると分速約45m。という事は10階に到達するまでの時間は34・13秒。合わせて43・63秒! あと1・37秒で彼はこの10階を通過する計算になる。
間に合わない! 頼む。間に合ってくれ......
女は倒れ込むような体勢で『非常階段入口』と書かれた重い鉄扉を開けた。ガシャン! ギー......耳障りな鉄扉の開放音が階段室に響き渡る。
ところが......
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静寂に包まれたその空間に人の気配は微塵にも感じられなかった。そこは予想に反して音の無い世界だった。
判断を誤ったのか?
下へ下りたのか?
女の表情は俄に曇り、自身の犯した判断ミスを自覚仕掛けたその時だった。突如下方より、乱暴に扉が開けられる鈍い音が響き渡る。
バーン! バタバタバタ......
すると......
「どこに逃げたんだ! まだこのホテルにいるはずだ。探せ!」
突如静寂を打ち破ったその声は、年若き青年の声とは程遠く、中高年のしゃがれた太い怒鳴り声だった。全てを壁と扉に囲まれたこの密閉空間を、その怒鳴り声は、昇り龍のごとく、最上階まで響き渡っていく。それは自分以外にも青年を追い掛ける人間が存在し、またその者達の彼を追い掛ける理由が、自分とは真逆である事を、叫んだ語調と内容が証明していた。
拉致! それとも殺す気か?
女は思わず、拳を握りしめる。すると今度は、男の叫び声に呼応するかのように、突如別の足音が響き渡る。
ダッ、ダッ、ダッ......
ダッ、ダッ、ダッ......
その足音は、男の叫び声の発信場所より、遥か上方である事は間違いない。
ガッ、ガッ、ガッ......段板を激しく蹴り上げる踵の音。それは出走を直前に控えたパドックにおける競走馬の蹄の音に似ていた。
ゼェ、ゼェ......肺が悲鳴を上げる呼吸音。それは青年の体がオーバーヒート寸前であることを意味していた。
下から近付いてくるこの二種類の音......それは女の判断が間違っていなかった事を証明していた。
我が予測に誤りなし!
あの青年がすぐ下から掛け上がって来る!
更にその遥か下方からは、血に飢えた狩人逹が獲物たる青年を追い掛け、群れをなしてやって来る事は明白だ。女は、両の手を鷲の翼のごとく大きく広げ、階段の中央に陣取った。普段は青白いその顔も、いつしかリンゴのように赤みを帯びている。
死んでもここは通さない!
一時的でも突進を止めれさえすれば、落ち着きを取り戻させる自信はある。女は相撲の四股を踏むかのように足を大きく広げ、重心を低く構えた。細いふくらはぎがプルプルと震え始める。
果たして自分のような細い体で、弾丸のように掛け上がってくる若き青年の突進を止める事が出来るのか?
物理的にはかなり厳しい状況と言わざるを得ない。
性格的にあまりこういうのは好きではないが、『気合いで止めてやる!』そんな根拠とも言えないような根拠が、時として状況を好転させる事もよくある話だ。
女は一旦目を閉じ、息を大きく吸って吐いた。心臓は大量の血液を全身に送り始め、奥に秘めた女の潜在能力を最大限に引き出す準備を始める。
よう~し。体か熱くなってきたぞ!
どんと来い!
やがて、バタ、バタ、バタ!......足音が間近に迫ってくる。そして次の瞬間、目の前に現れたのは気狂いピエロも驚く程の表情を浮かべたその者だった。その狂喜たる姿は、女の想定を遥かに超えていた。
口からは泡を吹き出し、火花が散ったような2つの瞳はあさっての方角を見つめ、全身から湯気を立ち上げながら火の玉となって突っ込んでくる。そして赤い布を目掛けて突進する猛牛のごとく、一気呵成に人間バリケードを突き飛ばしに掛かった。
うりゃあ! とうりゃあ!
一本キレてしまった青年の猟奇的とも言えるその迫力は、一時は不動の壁と化した女の精神に僅かながらのすきを生じさせた。
うわぁぁぁ......