第8話 千両役者
頭上を覆う深い枝葉が無ければ、百万ドルの夜景を拝めたに違いない。空気は澄み、雲一つ無い夜空には、無数の星が散りばめられていた。それらが発する天然の明かりは、深い森の僅かな隙間を潜り抜け、吊り下がる男の足元を舞台のように照していた。
黒の古びた鞄......男の遺品と思われる。
一本のタバコが飲み口に突き刺さったコーヒーの空き缶......自殺する前に最期の一服を楽しんだのであろう。
そしてタバコの箱......箱の上には、一本のタバコとライターが並べて置かれていた。箱の中は空のようだ。
「......」
ポールは無言で星明かりに照らされたその『舞台』の正面に立ち、神妙な表情を浮かべている。
何なんだ? この違和感は......ポールが違和感を感じ、瞬きもせずに見詰めているもの......
それは、『タバコ』だった。
ここに到達した時点でのタバコの残りは2本。1本はすでに吸殻となって、空き缶の飲み口に突き刺さっている。そしてもう一本は、箱から出され、ライターと共に箱の上に置かれている。
自分は喫煙者だから思うのかも知れないけど......果たして喫煙者が最後の1本だけ残して死ぬか? 箱からわざわざ出してる訳だから、吸うつもりでいた事はほぼ間違いない。でも結果として吸わなかった。
............
いやっ......
もしかしたら......
吸わなかったのではなくて......
吸えなかったのではないか?!
一本目を吸い終えた時点で何かが起こり、結果として吸う前に死んだ。そんな仮説は成り立たないだろうか?
この男......
もしかして!
いやいや......ちょっと考え過ぎじゃないか?
ただ単に吸いたく無くなったのかも知れないではないか? 確かに妄想が妄想を呼んでしまっている感も否めない。
ポールが『舞台』の前でそんな自問自答を繰り返していた正にその時だった。
ザッ、ザッ、ザッ......
ザッ、ザッ、ザッ......
なっ、なんだ?!
ザッ、ザッ、ザッ......
ザッ、ザッ、ザッ......
背後から忍び寄る不敵な足音。それは正にポールが待ち望んでいたものだった。
よ~し、来たな!
ポールの血圧は急上昇し、いつしか顔は赤みを帯びていた。目は爛々と輝き、みなぎる闘志は、身体中に武者震いを巻き起こしていた。
おっと......いかん、いかん。自分は人生に絶望した自殺志願者だ。闘志をむき出してどうする!
相手もそれなりに経験を積んでいるであろう。心の底から廃人に成りきらなければ、見破られてしまう。
ザッ、ザッ、ザッ......
ザッ、ザッ、ザッ......
足音はもう目と鼻の先だ。ポールは大きく深呼吸し、沸き上がる闘志を体の心底に封じ込めた。
よしっ、ここからは名役者ポールの登場だ!
「ウワァ、誰だ? 誰ナンダ!」
ポールは足音が響いてくる後方へと向き直ると、見苦しい程に腰を抜かして倒れ込んだ。
ちょっと白々しかったか?......
まぁ、少し大げさ位でちょうどいいだろう......
ポールは体をブルブル震わせながら木にしがみつき、慟哭の表情を浮かべた。
「アワワワワ......」
唇は感電しているかのようにブルブルと震え、恐怖と驚きに満ちたその表情は、正にムンクの叫びと見紛う程。役者が見ても役者には見えないであろう。正に渾身の演技と言えた。




