第9話 拳
大雪の中、『帝徳ホテル』の資材搬入車用の駐車場で対峙する2人......息を飲むような攻防がなおも繰り広げられていた。
このまま、奴の攻撃を待っていたら、次こそ餌食になる......攻撃こそが、最大の防御!
エマにとって、もはや奇襲攻撃しか活路を見出だす方法は無かった。息を殺してその時を待ったのである。そんなエマの心内を知ってか知らずか、男は余裕の表情で語り始める。
「さぁ、そろそろお遊びも終わりにしよう。そっちから掛かってこないなら、こっちか......」
今だっ!
エマは大門が御託を並べている間に、一筋の勝機を見出だした。電光石火のごとく右足を前に出し、大門の右足に絡める。そして間髪入れず、右手を大門の喉元目掛けて突き出した。
この右手が大門の喉元を捕らえれば、そのまま後ろに突き倒せる! 頼む! 届いてくれ!......
基本、自分よりも力の強い相手と戦う場合、ヒット&アウェイが攻撃の中心となる。自分よりも力の強い男に押さえ込まれたら、成す術がない。
今エマが仕掛けた攻撃......それは正に相手の懐に飛び込む捨て身の戦術と言って良かった。この攻撃で大門を後ろに倒せなければ、エマの細い身体は2本の太い腕に包み込まれ、後はされるがままとなる。
「うわぁ、女が飛び込んだぞ!」
膨れ上がったギャラリーから歓声が沸き起こった。もはやこの場所は闘技場と化している。皆固唾を飲んで見守っていた。
そして、バシッ!......肌と肌がぶつかり合う鈍い音が雪夜に響き渡る。
ううう......やがて悶え苦しむ呻き声が漏れる。
呻き声を発したのはどちらなのか......
その答えは......
残念ながら......
エマだった。
「お嬢ちゃんアマアマだな。隙を見せてやれば、すぐに飛び込んで来る事くらい誰でも分かるわ」
エマの突き出した右手は難なくかわされ、逆に大門の大きな右手がエマの喉をとらえていたのである。そしてそのまま力ずくで地面に押し倒され、全く身動きが取れない状態となっていた。
地面に仰向けとなり、完全に両手で押さえつけられてしまったエマ......
そしてその上で余裕の表情を浮かべている大男......勝負は一瞬にして、ついてしまったと言わざるを得ない。
エマは身動きの取れないまま、静かに目を開けた。そこに飛び込んできた景色は、銀色に輝く東京の雪夜と、拳を大きく振り上げた大門の巨体だった。この後、きっと大門の固い拳がエマの眉間に直角に落ちてくるのであろう。
後頭部は固いコンクリートの上に固定され、その力を他に逃がす事が出来ない。良くて顔面陥没。悪くすれば、頭蓋骨骨折、脳挫傷......被害の可能性は果てしなく広がる。
やがて大門の全体重を乗せた渾身の鉛玉は、いよいよエマの顔面に落ちて来ようとしていた。
終わった......エマは覚悟を決め、大きく目を見開いた。
「おりゃあ!」
そして大門の大きな掛け声と共に、拳はエマの顔面目掛けて降り下ろされたのである!
............
............
............
大きく見開かれたエマの目は、未だ微動だにせず開かれたまま。目蓋の0・1ミリ上には大門の拳が停止し、長いまつ毛が風に揺られて、大門の指をくすぐる。
「フッ......」
大門は軽く鼻を鳴らすと、降り下ろした拳を収めて立ち上がった。
「こんな大勢見てるとこで、人殺しが出来る訳ねえだろう。まぁ、俺の拳に目を閉じなかったあんたの勇気に免じて、今日のところはあのガキをあんた達に預けておくとする。でもすぐに取り返しにいくぞ。次会った時は今日のようにはいかんからな」
いつしか、辺りはパトカーのサイレンの音が鳴り響き、その音はみるみるうちに近付いてくる。間もなく大勢の警官が押し寄せて来るのであろう。大門はそう告げるとエマに背を向け、即座に立ち去ろうとした。長居は無用.....そんな意思表示だ。
「あれっ! 男が寸止めしたぞ!」
「当たり前じゃん。いくらなんでも男が女の子の顔殴ったら酷いっしょ」
無責任なギャラリー衆は、各々勝手な寸評を始めていた。呑気なもんだ。
一方エマは、身体を起こし必死の声を上げる。
「待てっ! お前は誰なんだ? それから......何で.......何で私を......」
大門はエマに背を向けたまま答える。
「だから言っただろう。大勢が見てるからだって。それと...... 次会う時もその綺麗な顔で居て欲しいからな。ハッ、ハッ、ハッ。目蓋の傷は触れてないから大丈夫。風圧で切れただけだ。あんたの顔に傷をつけるつもりは無かったけど、さすがの俺も風圧までは想定に無かった。傷は浅いから跡が残ることも無かろう。俺の名は大門剛助。覚えといてくれ」
そう言い残し、大門は鮮やかに走り去っていった。
「......」
自分の力で避けたと思ってたのに......
最初から当てるつもりはなかったってことか......
完敗じゃん......
ここまで完璧に負けると、逆に気持ちが清々しい......
エマはポカンと口を開けたまま、すでに消え去った大門剛助の残像を見詰めていた。エマは切れた目蓋に指を触れてみる。ピリッとした痛みは感じるが、すでに出血は止まっていた。
かすり傷か......あいつの言った通りだ......
降り続く雪は暴風に乗り、一向に衰えを見せない。それはこれから始まる大波乱を予言しているかのようだった。




