第九十七話 ヤビコ
洋菓子店で働いている灰田さんは少し変わった趣味を持っている。それは、蜘蛛の採集と研究だ。小さい頃から蜘蛛の魅力に取りつかれてしまった彼女は、休みの日になるとフィールドワークと称して山や野原に出かけ、蜘蛛を観察したり、写真を撮ったり、時には小さな瓶に入れて持ち帰って飼育していたりしていた。
そんな彼女が高校二年の頃、GWを利用して父親の実家のある岩手の田舎へ一人で遊びに行った時の話だ。
そこは山深い土地で、交通の便も悪く、近所にレジャー施設どころかコンビニすらないようなところだったが、灰田さんにとっては絶好の蜘蛛スポットだったそうで、クマよけの鈴をつけて朝、晩に近所の山や耕作放棄地を散策して回っていた。
その夜も二十一時からフィールドワークに出かけ、夜行性の蜘蛛を探して、珍しい種類の蜘蛛を発見し、夢中で写真を撮ったり観察したりしたため、祖父母の暮らす家に帰り着いた時には日付が変わりそうな時間になっていた。
時間も遅かったのでシャワーを浴びるのは朝でいいかと、そのまま二階にある寝室に敷かれた布団に潜り込んだ。
どのくらい時間が経ったのだろう。
灰田さんは、窓の外からの物音で目を覚ました。
フッ、フッ、と荒い息遣いと微かな足音。それから、窓の下の方でドンドンと何かがぶつかるような音が響いてくる。
差し込む月の光に、黒いずんぐりした影がゆらゆらと揺れていた。
窓を閉め切っているのに、強烈な獣臭が鼻腔を衝いた。
イノシシか何かだろうか? この辺りには昔から猿や猪が多く、畑や人家は山のすぐ傍なので、道を歩いている時に見かけることはざらだった。
灰田さんが寝ている部屋のすぐ傍には祖父母の所有する畑がある。そこまで入ってきたのだろう。
その時は深く考えずに眠りについたそうだ。
しかし、翌朝、早朝の散策を済ませ、祖父母と一緒にご飯を食べていた時に、ふと、昨晩のことを口にすると、祖父がそんなはずはないと言う。
と言うのも、今年はなぜか猪も猿も数が少なく、ほとんど目にしていない。それに、そもそも家の傍の畑はトタン塀と電気網で厳重に守っているため、獣が入ってくることはまずないというのである。
灰田さんもその話を聞いて、確かにそうだと納得しかけたが、昨晩のことが夢であるようには思えない。
そこで、朝食の後、祖父と一緒に確かめてみることにしたのだそうだ。
電気網の電源はちゃんとオンになっており、塀の方も壊したり穴を掘って侵入した形跡はなかった。しかし、灰田さんの寝室のある窓の下だけ、土が踏み荒らされた跡があった。
そして、窓の下の壁には大きな手形がいくつもついていた。それは猿の手よりもずっと大きかったそうだ。
祖父はそれを見た瞬間、
「ヤビコやろか……」
と、ぽつりと漏らしたそうだ。
家に帰った祖父は祖母と何やら相談をはじめた。
灰田さんは隣の部屋で待たされている間に二人の会話に聞き耳を立てていた。方言がきつくてすべては聞き取れなかったが、
「もういなくなったと思っていた」
「臭いをたどる」
「年頃だから」
「また連れにくる」
「生かしておけない」
というようなことを口にしていたそうだ。
その後、灰田さんはGWの途中だというのに、祖父母から家に帰るように説得された。いつもは、いつまでも居てくれていい、なんて孫を引き留めようとしてくるのに。
結局灰田さんは二人の真剣な態度が怖くなって、祖父の車で盛岡まで送ってもらい、新幹線で自宅へ戻ったそうだ。
「ヤビコ」というのが何なのか、車中で祖父に訊ねてみたが、 山にいる悪さをするモノ、という以上のことは教えてくれなかった。
このこととの関係は確かではないが、それから二年ほど、あれこれと理由をつけて、祖父母は灰田さんが来るのを拒み続けたそうだ。
「フィールドワークでうろついてたから、変なものがついてきちゃったんですかねえ」
灰田さんはそう言いながらも、今でも野山で蜘蛛の採集を続けている。




