第六十二話 おぼろ
葛西さんが子供の頃、愛媛の田舎に住んでいる大正生まれの祖母から聞いた話だ。
ある夏の夕方、葛西さんが川遊びから帰る途中、買い物帰りの祖母とばったり出くわして、一緒に坂道を山の手にある家に向かって歩いていた時だ。
ふいに、風が吹いて透明で大きいビニールの袋が、ふわっと舞って祖母の頭にかぶさるような格好になった。
「わっ、は、はよとって!」
普段はあまり動じない祖母が、突然パニックになった。葛西さんはそのことに驚いて、慌ててビニールを掴んだ。
「なんや、ビニル袋か。おぼろがでたかと思た」
おぼろ、というのが何かわからない。おばけ、の言い間違いか方言なのかとおもって葛西さんが訊ねると、祖母はこんな話をしてくれた。
おぼろは形がなく手で触れられない霧状のもので、夜に道を歩いていると突然顔の周りに纏わりついて来て、口から入り込みその人の息を吸いとってくる。
息を吸い取られた人間は、息ができなくなって死んでしまう。
このおぼろ、が出るときには、肉の腐ったような臭いがするため、そんな臭いがしたらすぐにその場から逃げるように大人から注意されたそうだ。
葛西さんの祖母が小さい頃には時々このおぼろに襲われたと訴える人がいたのだという。
妖怪の類なのだろうか。
字を当てるならば「朧」だろう。
月にかかる靄のことをそう称することもある。
いきなりとびかかってきて顔に纏わりつくところは「野伏間」を思わせるし、息を吸うところは「山乳地」のようである。一説によると、これらは同一の妖怪であるという。
葛西さんはその「おぼろ」という言葉の響きがよかったのか、このことは祖母との思い出の中で一番はっきりと覚えているそうだ。




