第五十五話 飛び込む男
鈴木さんが仕事で大阪に来た時、ある駅でのことだ。
朝の通勤客で混雑しているホームで、乗車列に並んで電車を待っていると、不自然な若いサラリーマンが目についた。
背格好や姿は普通なのだが、列に並んでいない。
乗車口が来ると書かれた印から一メートルほど離れたところ、白線のギリギリに立って、
ゆら、ゆら。
と前後に揺れている。
酔っぱらっているのかと思った。
鈴木さんはその男が線路に転げ落ちないかと危ぶんだそうだ。
だが、鈴木さんの他には誰も男のことを気にしていない様子だ。
薄情だなと思っていると、電車がホームにやってくるアナウンスがあった。
唸りを上げて、電車がホームにやってくる。
その瞬間、揺れていた男が、ぱっ、と線路に躍り出た。
「えっ」
驚いて、鈴木さんが叫ぶと同時に、
バン。水の詰まった袋が弾けるような生々しい音が聞こえた。
飛び込み自殺の文字が頭をよぎる。
だが、何かが変だ。
男は電車に轢かれたはずなのに、何のアナウンスも入らない。
周りの人は声を上げた鈴木さんのことを不審な目で視ている。
通常通り、駅に入ってきた電車から人がおり、待っていた人が乗り込んでいく。
駅員を呼ぶべきかと思ってまごまごしていると、五十歳くらいのスーツの男性に肩を叩かれた。
「兄ちゃん、乗らんと遅れるで」
その男の言葉に、鈴木さんは慌てて電車に乗り込んだという。
「まあ、たまに変なもん見える人もおるみたいやけど、気にせん方がいいわ」
初老の男は小声でそう言い、通勤に向かう電車に揺られ始めた。
その駅では、年間数件の飛び込み自殺があるらしい。




