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幽怪百物語  作者: 背戸山葵
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第二十九話 雨宮さん

「看護師になる人って優しい人が結構いるんだけど、誰にでも優しくできるいい人は精神科で働くのおすすめしないな」

 樋口さんがそう言って自分が勤めている病院で起きた事件を教えてくれた。

 心を病んでいる人の中には誰かに自分のことを認識してほしい、自分という存在を誰かの生活の一部にしたいという欲求が厄介なほど強すぎる人がいるのだそうだ。

 樋口さんの後輩の南さんが担当していた雨宮さんという三十代の女性もそういったタイプの患者さんだった。誰にでも優しい南さんが雨宮さんに気に入られてしまうまでさして時間はかからなかった。

 雨宮さんはリストカット癖の持ち主で、自宅で療養していると何度も手首を切ってしまうために、困り果てた家族の強い希望で入院することとなった患者だった。

 若くて人懐っこい顔立ちの南さんのことを気に入った雨宮さんは、一度彼の目の前で隠して持ち込んだナイフで手首を切って見せたことがあった。

 幸いすぐに出血も止まり、大事にはならなかったものの、流石に気味が悪くなった南さんは彼女の担当を外して欲しいと願い出た。

 しかし、人手不足なこともあり、また雨宮さんをうまくなだめられるのが彼だけだったこともあり、事件の後もお世話を続けなければならなかった。

 とはいえ、人のいい南さんはそんなことがあっても他の患者さん相手と同様、雨宮さんの前でも嫌な顔も、怒った素振りも見せなかった。そのためか、雨宮さんはより南さんへ執着するようになってしまった。

 そして、二つ目の事件が起こった。

 南さんが夜勤をしていた夜、雨宮さんの部屋からナースコールが鳴った。

 何か問題が発生したのかと慌てて駆け付けた南さんが目にしたのは、ベッドの上に座って、大きなガラスの破片を首に押し当ててニタニタと笑みを浮かべる雨宮さんの姿だった。

「南さん、来てくれてうれしい。私のこと、ずっと忘れないでね」

 唖然としている南さんにそう言うと、雨宮さんは頸動脈をガラス片で切り裂いた。

 偶然非常に深く鋭く切れてしまったのだろう、ピーッと笛の音のような音と共に首から大量の鮮血が噴き出した。

 南さんは応援が駆け付けるまでの間、止血しようと奮闘していたが、雨宮さんはそのまま冷たくなっていった。

 凶器のガラスは、昼間トイレの窓を割り、それをこっそり隠し持っていたようだった。

「私のこと、ずっと覚えておいてね南さん」

 雨宮さんは自分の最後の瞬間を、南さんの記憶に焼き付けたかったのだろう。懸命に自分を助けようとする南さんの顔を見つめる彼女は嬉しそうに笑っていたという。

 そんな事件があったために、南さんは二週間ほど休暇を取った。

 樋口さんも同僚も、そのまま仕事を辞めてしまうだろうと思っていた。

 しかし、以外にも職場復帰した南さんは、事件のことなどケロッと忘れたように、明るい笑顔を見せ、休んでいた分を取り返すように懸命に働いたという。

 だが、事件はそれで終わったわけではなかった。その話は次に書き記すことにする。


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