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【1】 天使の涙

 牛丼屋とバーにひとりで行く女の気が知れない、と、二年前の私は本気で思っていた。

 たまたま彩奈に連れられていったホストクラブがきっかけとなり、私のランチは、千円のイタリアンから五百円でおつりが来る牛丼に代わった。

 きっかけを作った張本人は、会社から遠いことを理由に選んだガラス張りの吉野家の外で、手を叩きながら私を見て笑っていた。

 おい彩奈、てめえの浮気バラすぞ。

 ……そんな言葉も、つゆが染みた米粒とともに飲み下す。

 正直、六歳も年下の彩奈に勝てるのは、年齢と学歴と、悪い意味での純粋さだけだ。彼女は去年成人式を迎えたばかりなのに、男と付き合った数は年齢よりも多い。ひとりの男と半年持ったとしても十年以上はかかるじゃないか、おまえの初カレいくつのときだよ、との質問に、彼女は「二人にすれば五年ちょっとで済むじゃないですか」と言ってのけた。なにトンチみたいなこと言ってんだ、一休かおまえは。

 そんなわけで、私に男耐性がないのは必然だった。なのに、彩奈の「ボーナス出たし、たまには目の保養しちゃいましょうよー」について行ってしまった。美術館やプラネタリウムはこんな夜遅くまで開いてないぞ、と思った私は、やはり純粋だ。悪い意味で。

 初めてのホストクラブは、衝撃、の一言に尽きた。

 初対面同士でここまで親しげに接してきた男を、私は知らない。そりゃそうだ仕事なんだから、と普通は思い至っても良さそうだが、ここでも私の純粋さが爆発する。

 もしかして、本当に私のこと気に入ってくれたんじゃないか。

 目の前の、ともすれば女の私よりも男にモテそうな美しい顔立ちの茶髪ホストに、恐れ多くもそんなことを思ってしまう。どう考えても彼は私よりも彩奈側の人間だ。美しくて華があって、嫌というほど異性に慣れている人種。

 男がピアスなんて女々しいし軽薄そうでしかない、という私の主張はその日のうちに撤回された。


 そして始まる、私のホストクラブ通い。

 二回目で気になるホストが二人ほど出来たのだが、三回目以降は初日に出会った翔平だけを指名した。決め手は二つ。『顔がいいから』と、『彩奈さんは今日は来てないんですか、と私に訊かなかったこと』だ。金を払って会ってるときくらい、他の女の話はやめにしないか。

 回を重ねるたび、私は翔平に惹かれていった。整いすぎた顔立ちはある種の冷たささえ感じさせるのに、口を開くと、途端に人懐っこい少年のような印象に変わる。私がこぼした悩みや愚痴に熱くなるところなどは、軽薄なホストのイメージとは大違いだ。

 それを彩奈に言うと、またしても手を叩いて爆笑した。

「それ、由佳先輩の好みっぽいから演じてるだけっしょ? ホストって、女ダマしてナンボじゃないですかぁ」

 前後にぐらぐら揺れる彩奈の膝を折りたくなった。

 しかし、そんな彼女も、私が翔平と付き合うことになったと打ち明けたときは笑わなかった。代わりに訊いた。

「色恋営業じゃないですよね?」

 もちろん、と私は答えた。貰った合鍵で掃除や洗濯、炊事までを彼が留守の間にやっているのだ、とは言わないでおいた。

「良かったー。めちゃくちゃイケメンだし先輩超ラッキーじゃないですか。浮気されないように気を付けないとですよー」

 自分が浮気をしていると、人までそういうもんだと思えてしまうらしい。

 とはいえ、我がことのように喜ぶ後輩がとても可愛く思えた。牛丼くらいならおごってもいい。

 この思いは、私が「浮気されてるかも」と相談したときに霧散した。「ですよねー」の一言でこれほど人をイラつかせることが出来るのは、ある種の才能かも知れない。



 結局、気付けば私は、牛丼屋と同じくらいひとりで行くことはないと思っていたバーに足を運んだ。

 実際は二回目の浮気現場を目撃したあとの深夜徘徊中にたまたま通りかかっただけなので、足を運んだ、というほど計画的なものではない。

 L字のカウンター席は全部で五つ、テーブル席は二つ。黒に近いこげ茶のオーク材で統一された店内は、ウィスキーの樽を思わせる。シンプルながらシックな雰囲気で、私のほかにひとりしか客がいないというのは意外だった。

「あ、いらっしゃいませ」

 バーテンダーが驚いたような声で迎える。

「あの、お客様」

「適当なのひとつ」

 涙も拭かないままカウンター席に座ると、あからさまに彼は動揺していた。

「コーラとか?」

 ぶっ、と私は吹き出した。ファンデーションの流れ落ちた顔で、まじまじとバーテンダーを見つめる。

 三十代後半から四十代といったところか。しなやかかつ筋肉質な身体に、彫りの深い精悍な顔。バーテンダーよりも軍人の方がぴったりだ。左目に黒の眼帯をしているが、チープなコスプレ臭さを感じさせないのは、その佇まいに一種の貫録があるからだろう。愁いを帯びたような眼差しが、どこか苦労人のような雰囲気を醸している。

「んもう、なんで笑うのよぉ」

 第一印象は、拗ねたようなオカマ声の前に瞬殺された。

「バーに来たのって初めてなんだけど、コーラってカクテルの名前じゃないよね?」

「ですよねぇ~」

 最近じゃ『ですよね』で人を苛立たせることがブームなのだろうか。

「あなた、バーテンダーなんでしょ?」

「でも新人で、ぜーんぜん分からなくって」

 バーテンダーが、アスリートじみた体躯をくねらせる。

「だけど、カクテルくらいは作れるよね。バーテンダーなんだし」

 すると彼は、カウンターのどこかから本を取り出した。

「んじゃ、この中から好きなの選んでくださるぅ?」

『誰でも作れるカクテル、ザ・ベスト』。それが本のタイトルだった。

「笑わせようとしてしてくれてるなら、あなたにはセンスがないと言っておくよ。気持ちはありがたいけど」

「だってあたし初心者なのよぉ? この器械の使い方もよく分からないし」

 それはシェーカーであって器械ではない、とは言わないでおいた。

「……そもそも、なんであなたバーテンやってるの?」

「やりたくてやってるわけじゃないですぅー」

「強制されたの? 屈強なマッチョメンに? 光る筋肉見せ付けられながら?」

「強制されましたー。気の強そうなお姉さんに、光る涙を見せ付けられながら、ね~?」

 バーテンダーが私を指さしながら唇を尖らせる。いったい何の話をしてるんだ。

「気付きませんでした? この店、今日は休みなんですよ~。なのにあなたが突然入り込んできて、何かよこせって無理やりにぃ~」

 がばっと後ろを振り返る。もちろん店内なので、クローズと書かれた看板が見えるはずもないのだが。

「で、でも端っこにお客さんいるじゃない」

 ペンを握りながら本に向かっている客を見やる。しかし、ちゃんと見て初めて気が付いた。彼女はどう見ても未成年、というか小学生だ。どうやって上ったのか、スツールから伸びた脚は宙ぶらりんになっている。

「あー、あの子? うちのマスターよ」

 バーテンの言葉に、耳を疑った。こんな夜に十もいかない小学生を店に出しておいて、そんな雑な言い訳で済ませるなんて。

「ねえ君、こんな夜に出歩いてて大丈夫?」

 思わず声をかけるも、少女は横目でこちらを一瞥したのみで返事すらしない。

 子供特有の茶色がかった柔らかそうな髪をツインテールにしており、天然パーマなのか、ゆるく巻いたようにうねっている。ピンクのリボンとフリルが付いたワンピースを着た姿は、陶磁器のような白い肌と相まって、等身大のビスクドールのようだ。しかし唯一、そでを通さずに羽織っているコートが不釣り合いだった。明らかに大人サイズの、くたびれた黒いチェスターコート。店内は寒くないのに、なぜあんなものを掛けているのだろう。

「マスターって人見知りだから~」

 相変わらず外見に似合わない声でバーテンダーがフォローをする。

「招かれざる客、ってことなのかな」

 なんにせよ、閉店時間に入ってきてしまったのは確かだ。もしかしたら少女はバーテンの子供で、今は家族団らんのひと時だったのかもしれない。父親なのか母親なのかは難しいところだが。

「お邪魔したね」

 背の高いスツールから降りた。胸元のペンダントトップが揺れ、名残惜しげにチカリと光る。クローバー型のそれは、結局幸運なんて運んできてはくれなかった。

「あ、ちょっと待ってよ」

「何? チャージ料なら払わないけど」

「んもぉ、そうじゃなくて」

 バーテンが、カウンターから上半身を乗り出している。この人、口さえ開かなければモテるだろうに。

「良かったらあたしに話してみない? もしかしたら力になれるかも? なーんて」

「勧誘とかされちゃう系?」

「あんた疑り深いわねぇ」

 彫りの深い顔をしかめ、腰に手を当てる。新宿二丁目に来たような気分だ。妙なバーテンではあるけれど、ホストの『お仕事』とは違う素直な馴れ馴れしさが嬉しい。

「ありきたりな失恋話だけど、良い?」

「もっちろん。あ、何か作るわね~」

 バーテンダーは『誰でも作れるカクテル、ザ・ベスト』を取り出した。私は再びスツールに腰掛け、カウンターを覗き込む。

「なに作ってくれるの?」

「これなんかどう? 『家康』って」

 なぜこんなイロモノを勧めるんだ。

「あらダメ? じゃ、こっちにしようかしら。あ、適当に作るからお話始めちゃってて~」

 その促し方どうよ、と思ったが、私は今までの経緯を軽く話すことにした。

 彩奈に連れられて行ったホストクラブにハマったこと。

 生活費を切り詰めて、翔平を指名し続けたこと。

 その後ダメもとで告白したら、軽いノリで『じゃ、付き合うか?』と言われたこと。

 そして、二度も浮気現場を目撃してしまったこと。

 順を追って話すうち、我ながらバカだなあ、としみじみ思った。恋は盲目。あのときの私は、盲目どころか敢えて翔平以外の全てを見るまいとしていたのかもしれない。

「プラス思考で頑張ったよ。掃除洗濯、朝と昼のお食事作り。掃除と洗濯は、夜に翔平が出かけてるときに合鍵で入ってやるんだよね。ほら、家に帰って寝てるときにやるとうるさいだろうからさ。食事も私の家で作ったやつをタッパーに入れて、そのときに部屋に置いていくの」

 献身的と言えば聞こえは良い。だけど、今考えればただの家政婦だ。

「由佳ちゃんて、顔に似合わずマメなのねぇ」

「……ひと月経ったくらいからかな、まぁ、見ちゃったんだよね。翔平が、派手めの女の子とベッドインしてるとこ」

 正確にはベッドインし終えたとこ、だ。チャイムを鳴らして出てきたのは、上半身が裸の翔平だった。そして、部屋の奥を覗くと、髪の乱れた裸の女がこちらを見ていた。

「あら。めちゃめちゃ修羅場じゃないのよ」

 そうでもないんだよねえ、と呟く。私だって、ホストが普通の人種とは違っていることくらい分かっていた。どこかで、やっぱこういうことになるんだな、と感心にも似た気持ちになっていた。

「とっさにコンニチワって言ったら、向こうの女の子もキョドりながらこんにちはって返してくれたんだよね。で、この子は悪い子じゃないなって思って」

「え~?」

「挨拶と謝罪がきちんと出来るひとに悪い子はいない。これ、私のモットー」

「ずいぶん特異なモットーなのね……」

 怒りは全くなかったが、一応確認はしておいた方が良いよなあと思い、彼に訊いた。

「もう来ない方がいい? って。私はまだ好きだけど、翔平があっちの子を本気で好きになっちゃったなら涙を飲むし鍵も返すから、って、女の子に聞こえないように言ったんだ」

「んで、翔平さんはなんて?」

「しばらく黙り込んでた。あれだね、カッコいい人が黙り込むと、ちょっと怒ってるみたいで怖いよね。で、いきなりドアを閉められて、失礼なやつだとか思って帰ろうとしたら、女の子が部屋から飛び出てきて」

「浮気相手の女性、翔平さんになに言われたのかしら?」

「帰りたくなるような何かだろうね」

 私よりも遥かにおしゃれで可愛いその女性は、頬を真っ赤にして泣いていた。

「翔平は浮気を認めたし、もうしないって言った。それが八ヶ月くらい前の話」

「でも、翔平ちゃんはまた浮気したと」

「そう」

 バーテンは外国人のように目をぐるりと回す。

「一回目の浮気でシメちゃえば良かったのに。浮気なんて不治の病みたいなもんなんだから、そうそう治るもんじゃないわよ?」

「うーん、翔平にも言ったんだけどさ、最初、私は彼に偏見を持ってたんだよね。ホストは平気で浮気するし、カッコいい男はブスとは対等に付き合わないって。だから、翔平を色眼鏡で見てた自分にも非があると思ったわけ」

「偏見じゃないでしょ、事実浮気したんだもの」

「偏見だよ。それなりのカッコしてバーカウンターの中にいる男がカクテルを作れて当たり前って思っちゃうのも、まぁ偏見」

 それはただの先入観よ、とバーテンダーが訂正する。

「とにかく、私は初っ端から翔平がそういう行動を取るような人種って心のどこかで決め付けてたんだよ。だから、一回目の浮気はイーブン、引き分けってことにした。そして、彼に宣言した」

「宣言?」

「私は今から、翔平を翔平としてしか見ないって。ホストだとか顔が良いとか、そういうあらゆる要素を全無視して、単なる一個人としてしか見ないから。だから、次浮気したらボッコボコにしてやるよって」

「ボッコボコ……ホントにしたわけ?」

「したかったよ。でも出来なかった」

 苦笑いをした。

 なんで出来なかったんだろうなぁ、と思う。実際のところ、拳を固めるよりも先に泣いていた。

 一回目の浮気以降は、傷つくことを考えず、自分の心のカラみたいなものを取っ払って、一番柔らかいところをさらけ出して彼と向き合った。彼はホストだから、カッコいいから。そんな言い訳たちは、実は有事にけっこう役に立つ。彼はモテるから、彼はホストだから、浮気しても仕方がないんだ。仕方がない、仕方がないで道理を通した気になって、真実を見ようとしない自分を気付かないままに守っている。

 だからかも知れない。ノーガードの心が受けた予想外のダメージは、私から攻撃する気持ちを全て失わせた。

「……最初のうちはさ、一回目の浮気の前よりも良い関係になったと思ってたんだよね。それが、忙しい、忙しいって言われて段々と会えなくなって行って。でもホストの仕事は夜だし、日中なんか忙しいはずないんだ」

 何すればそんなに忙しいの、と訊いた私に、翔平は切れ長の目をわずかに細めて視線を逸らした。普段はしないくせにいきなり肩を抱いて、ああ腹減ったからあそこ入ろうよ、と分かり易い話題変えをした。

「んで、気がつくと私の仕事が減ってるんだよね。洗濯機を見ても洗濯物がない。掃除をしようと思っても、部屋が綺麗。おかずを詰めたタッパーだけはカラになってたけど、こっそり捨てることだって出来るし」

 バーテンダーは真剣な表情で聞いていた。ように見せかけて、実はチラチラとカクテルの本を見ていた。

「で、だ。ある日、女と街を歩いてるところを見ちゃったわけ。買い物袋提げて。悪いと思いつつ後を付けたら、彼のマンションに一直線」

「妹ってオチじゃあないのよね?」

 かちゃかちゃとシェーカーを揺らしながらバーテンダーは言った。酒がダダ漏れになって両手が濡れている。

「そこは訊いたよ、ちゃんと。今日の夕方の話だけどさ、部屋からその綺麗な女の子が出てきたから、とっさに手を引いて立ち止まらせたんだ。ヘアもメイクもお嬢様って感じに整ってて、どこか理知的で……とにかく魅力的な子だったよ。で、恐る恐る訊いたんだ。翔平さんとはどういう関係でしょうか、って」

 バーテンダーはシェーカーの液体をグラスに注いだ。煮物の汁みたいな茶色の液体が、ぽとぽととグラスに溜まっていく。

「彼女ですけどアンタなんなの? ってつっけんどんに言われてさ。結局、泣きながら翔平の部屋に乗り込んで、出勤前のあいつに鍵を返してきた。掃除も洗濯も一切しなかったから明日からは大変だろうね、ざまーみろ」

 語尾は、情けないことに少し震えていた。話し終わると同時に、グラスがすっと差し出される。

「……ワインベースのカクテル、『天使の涙』です」

 真面目くさった顔のバーテンダーとは裏腹に、大量にこぼしまくったせいで、飲み残しのように量が少ない。

「発想だけはキザだね。ありがとう」

 口に含むと、甘味がアルコール特有の熱っぽさを伴って広がった。ただし、熱が冷めれば苦味のある後口が残る。

「……どお?」

「グラスがべたべたしてる」

「あたし、お客さんにカクテルを作ったの初めてなの」

 静かに興奮しながら彼は言った。その手はやはりべたついているに違いない。

「図らずもあたしのお客一号なわけだし、これも何かの縁ってことで、ちょっと提案があるんだけど」

 彼がまたカウンターから何かを取り出す。一枚の紙のようだが、それをすぐに見せようとはせず、もったいぶったように前置いた。

「ここに書いてあること、あたしが今から話すこと、ぜーんぶ秘密だからね。絶対よ?」

 何をいきなり、と言おうと思ったが、ひとつ頷いておくだけにした。彼の表情があまりに真剣だったせいだろうか。

「変身願望、ってあったりする?」

「何をいきなり」

 今度は思わず言ってしまった。

 エステか整形の勧誘かとも思ったが、それにしては妙に秘密主義だ。

「もし、よ? あなたが翔平さんのこと恨んでたり、見返してやりたいと思ってたりするなら、ひとつ方法があるの。自分とは全く違う、望みどおりの別人になれる方法がね」

「別人になる方法……?」

 神妙な面持ちで、バーテンダーは頷いた。からかっているわけではないことは分かったが、だとしたら、これは一体なんの話なのだろう。

「最近、人の記憶を媒体にダウンロード出来るようになったのは知ってる? お手軽にってわけには行かないけど、それなりの設備さえあれば、誰のどんな記憶でも、他の記憶媒体にダウンロード出来ちゃうわけ」

 そういえば、ニュースでそんなことを言っていた気がする。しかし、記憶喪失になる予定もない私は、たいして興味がなかった。

「それとは別に、記憶メディアにあるデータを人間の脳にアップロードする技術も確立されたの。ザックリ言っちゃえば、パソコンでデータをやり取りするみたいに、人の記憶もやり取りできるってことね」

「本当に? 初めて聞いたけど」

「アップロードの方は、公にはされてないわよ。当然だけど、人道的な問題が山積みなわけだし」

 難しいことはよく分からないが、これが本当ならば、とてつもなく画期的な技術であるということは分かる。

 しかし、だとしたらなぜ見ず知らずの私にこんな大切そうな話をするのだろう? 答えは分かっている。失恋女の酒のさかなとして出した、即興のヨタ話だ。

「それで? 私の失恋の記憶を消し去ってあげようってこと?」

「まあ、単純にそうすることも出来るけど。このシステムさえ使えば、ゾクゾクするような復讐だって出来ちゃうのよ」

 復讐。

 それを考えていなかったわけではない。ただ、私のような平凡女に何が出来るだろうか。綺麗になって見返してやる、なんて、相応の素材を持っていなきゃ無理な話だ。

「例えばさ、私が絶世の美女になって、翔平を惚れさせちゃうってのも可能なわけ?」

「もっちろん」

 バーテンダーが怪しく微笑んだ。このしゃべり方でなければ、今頃この店は女性客で溢れ返っていたかもしれない。

「ただし、あなたが美人に生まれ変われるってわけじゃないからね。なりたい人間の器を――あたしたちはこれをボトルって呼んでるんだけど――ボトルを一定期間キープするって形になるの。キープするボトルが決まればそこに由佳ちゃんの人格や記憶を必要な分だけダウンロードして、必要な日数だけ自由に過ごしてもらうわ」

「期間限定の入れ替わりってこと?」

「んー、入れ替わりとは違うわね。例えるなら、一時的に自分が二人に分裂するって感じ~? 由佳ちゃん自身は契約後も何も変わらず日常を過ごすことが出来るわ。それとは別に、由佳ちゃんのキープしたボトルも、由佳ちゃんの思ったとおりに行動するの」

 随分細かい設定の冗談だなぁ、と思いながらも真剣に聞いてしまうのは、復讐という言葉の魅力に惹きつけられたからかもしれない。

「ただし、覚えておいてね。あくまでもボトルは由佳ちゃんの人格と記憶をダウンロードしただけの『一時的な姿』だってこと。契約期間中リアルタイムで起こった出来事はテレパシーみたいにボトルには伝わらないから、どちらかに心境の変化とかがあった場合は、同じ由佳ちゃんの人格を持ちながら、本体とボトルとの考え方は違うってことになっちゃうわ」

「結構ややこしいんだねー」

 カクテルを飲み終え、空のグラスをトン、と置いた。

 軽く冗談に付き合うつもりで言ったのに、バーテンダーは気付かない。

「契約書に書かれた決まりを守れば、それほど大変なことにもならないわよ。これ、読んでみるー?」

 彼が手に持っていた紙をひらりと差し出す。

 A4サイズほどある厚めの紙には、横書きでこう書かれていた。


==================================================

ボトルキープ中の犯罪行為の禁止

ボトルキープ中の自殺、自傷行為、借金の禁止

契約成立後の契約変更の禁止

契約終了後のボトルへの接触禁止

本契約にかかわるすべての事柄に対して、第三者への口外の禁止

以上

==================================================


「これだけ?」

「これだけよ」

 小道具までそろえるとは、本当に手の込んだ作り話だ。これは、ひょっとすると天井の端なんかにカメラが設置されているのかもしれない。

「さあ、お客様」

 バーテンダーが、テーブルに両手をついて身を乗り出す。見た目だけは色男の彼が、妖艶ともいうべき笑みを浮かべながら私を見据えた。

「ボトルキーパーになる覚悟はおあり?」




【一日目:ボトル】


 なんだなんだ、どうなってんだ。 

 ベッドから起き上がり、愕然とした。明らかに自分のアパートではない、シティホテルの一室だ。あわてて身なりを確認するが、覚えのないシフォンブラウスとスカートを着ている以外、特に変わった様子はない。

 ヤケになって知らない男と泊まったわけじゃないみたいだな。

 そう思い至りはしたものの、だとしたらなぜ知らない部屋で知らない服を着て目覚めたんだろう。

 たしか昨日の夜、ひとりでバーに行って、できそこないのカクテルを一杯飲んだ。それ以降の記憶は、濡れた新聞紙のようにふにゃふにゃと定まらない。

 なんとなく身体に違和感を覚えたので、とりあえずバスルームに向かった。洗面台に据えつけられた鏡を見つけて覗き込む。

「うぉっ!」

 思わず叫んだと同時に、鏡の中の『とにかく美女としか言い表せそうにない美女』も間抜けな顔で驚いた。美人ってのはどんな顔したって美人なんだよなあ、と悠長な考えが脳裏に浮かぶ。

「待てよ……なんか覚えてるぞ」

 つんつんと鏡の美女をつつきながら呟いた。そういえば、オカマの隻眼バーテンダーがした即興妄想話と似ている。一定期間だけ好きな人間の身体になれる、という他愛のない夢物語。

「でも、夢っぽくないんだよなぁ」

 鏡の中で、美女は整えられた眉をひそめた。気品を漂わせる上品な顔立ちのせいか、たったそれだけの仕草なのに驚くほど優美だ。長く濃密なまつげはくるりとカールしており、それに縁取られた二重の大きな目と相まって、外国人の少女のような愛らしさを感じさせる。明るい肌はつねりたくなるほどハリがあり、きめが細かい。ファンデーションとチークを塗ってあるのかと思うほど曇りがなかったが、その手触りからすっぴんだということが分かった。

 鏡から少し離れ、くるりと一回転してみる。絹糸のようにつやつやとした長いストレートヘアが、ふわりと広がった。ともすれば重く野暮ったい印象になりがちな黒髪だが、抜群のルックスのおかげで身震いするほど様になっている。

 寝室に戻ると、ベッドの枕の横にスマートフォンが転がっていたのに気付いた。私のものではない、見覚えのない機種だ。着信履歴は新品同様にまっさらで、メールも開封していないものが一通あるのみだった。送信者は『ボトルマスター』。本文にはたった一行、『3月18日夜0:00 まで、あなたは彼女のボトルキーパーです』と書かれていた。3月18日、つまり明後日だ。

 アドレス帳は、見覚えがある人たちがずらりと並んでいる。あのバーテン君が気を利かせて私の携帯のデータを移したのだろうか。プロフィールを見てみると、『あなたの名前』の欄には『東堂クレア』と入力されていた。

 そのスマートフォンを、部屋のすみにあった見覚えのないハンドバッグに突っ込んで部屋を出る。とにかくあのバーに戻って、どういうことなのか確認しなくては。

 ホテルの外に出ると、かろうじて見覚えはあるものの、どこをどう行ったらいいのかさっぱり分からない場所だった。

 目の前には華やかなショップが入った大型ビルが立ち並び、多くの人が行き交っている。昨日行ったバーはもう少し人通りが少ない場所にあった。道を聞こうにも交番がどこかすら分からないし、何も考えず出てきたせいでおなかも減った。

「どうしようかなあ……適当な店に入ろうかな」

 せわしなく動き続ける人々の中、呆けたように立ちすくみながら腹を鳴らす私は相当奇異だっただろう。気のせいか、視線が痛い。

 いや、気のせいじゃなかった。左右を見回してみると、幾人もの通行人と目が合う。逃げるように近くのコーヒーショップに飛び込むと、適当なコーヒーとパンを選んで注文した。

 が、ここでも若い男性店員が、レジを打ちながらチラチラと見てくる。いったい私がなにをしたって言うんだ。本当になんかするぞ。

 クリームチーズマフィンと豆乳ラテをトレイに乗せ、どこに座ろうかと店内を見渡す。まだ午前中だというのに、そこそこ人がいることに驚いた。そういえば今日は土曜日だったっけ。

 なんか前にもこういうことがあったよなあ、と記憶の糸を手繰る。そうだ、小学校の給食で、サバの味噌煮が出たときのことだ。魚嫌いにとってサバは、そして煮魚は、満員電車と下痢ほどに凶悪な掛け合わせなのだ。結局私は掃除の時間になっても食べきれず、ほうきやぞうきんを手にしたクラスメイトから好奇の視線を浴びせられた。

 学校がコーヒーショップになり、サバの味噌煮はクリームチーズマフィンになったが、状況はあのときと一緒だった。顔も上げられず、結果的に私の視界はこの二人掛け用テーブルの上だけに限られた。こんな状況でもそもそと食べるマフィンとラテは、サバの味噌煮と同じくらいまずい。

「あの」

 視界の外からの声に、始めは自分に言っているものだとは気づかなかった。

「あの、すいません」

 二度目でようやく顔を上げると、そこには大学生くらいの女の子が二人、そわそわした様子で立っていた。

「なっ、なんですか」

 思わずどもってしまったが、二人組はそんなこと気にする様子もない。

「あの、かなり前ですけど×××って雑誌に出てましたよね?」

 雑誌? この体の本当の持ち主は、モデルか何かだったのだろうか。当然のことだが、さっぱり思い当たらない。

「あのコーナーで見たときから、すっごい綺麗で気になってたんです。あれから他の本も買いあさったけど出てないし……会えるなんて思わなくて」

 ミディアムの茶髪を揺らしながら、彼女が涙声になる。

「だ、大丈夫?」

 思わず立ち上がると、その隙を突いたように右手をとられた。

「握手しちゃったぁ、嬉しいです~!」

「ほらエミ、写真撮らせてもらいなよ」

 付き添いの女の子が優しくそそのかす。いまやショップ内の客は、突発的なショーに釘付けだ。

「ありがとうございます、写真も一緒にお願いします~」

 ありがたがるわりには私の意志完全無視だな、と思いながらも、言われるがままにカメラに目線を向けた。中身は地味な非モテ女のままなのだ。


 店を出ると、ようやく少し冷静になってきた。

 どうやらこの体の持ち主は、わずかばかり雑誌に出たことがあるらしい。その程度の露出にもかかわらず人の記憶に残れているのは、ひとえにこの容姿のなせる業だろう。とはいえほとんどの人は雑誌そのものを見ていなかったりもするのだろうから、すれ違う人々が振り向いたり、ぶしつけな視線があちこちから向けられたりするのは、単にこの体が――バーテンダーの言葉を借りれば『ボトル』が――それくらい美しいからというだけだ。私だって鏡を見たときにCGではないかと思ったほどだから、その気持ちは分かる。

 ……もしかして、これなら翔平でも一目ぼれしちゃうかも。

 そんなことを想像するだけで、ニヤニヤ笑いが止まらない。良く言えば、私は飼い主に捨てられた犬ほどに健気だ。悪く言えばどうなるかは考えない。

 一人の世界に入り込んでいると、突然全身に衝撃が走った。体が弾かれ、横倒しになる。顔を上げると、バイクの男がバッグを片手に歩道を走っていくのが見えた。

「あ、ちょっと……」

「ドロボーっ!」

 咄嗟のことに言葉が出ないでいると、後ろからひときわ大きな叫び声が聞こえた。

 泥棒だ!

 やっと動き出した脳みそが、瞬時に足へと命令を下す。走りづらいパンプスを脱いで両手に持ち、素足のままでアスファルトの歩道を翔けた。

 犯人は、通行人を避けながらなんとか車道へと降りようとしている。それを許せば、私とヤツの距離は永遠に縮まらないだろう。

「そいつ止めてっ!」

 怒鳴りながら右手のパンプスを投げつけた。犯人のフルフェイスにクリーンヒットして車体がぐらついたが、そんなものでは止まらない。

 行き交う通行人たちもちらほらと協力し始め、退路を阻んだり飛びつこうとしたりし始めた。

 靴を片手に、さらに加速する。足が長いと走りも軽いや、と妙なところで感動した。つなぎを着たおっちゃんがバイクにひと蹴り入れたところで、私も後ろから飛び掛かる。

「返せー!」

 斜め後ろから車体を蹴り、バイクが大きく傾いた。泥棒は、シャンパンのコルクのようにとは行かないが、小さな放物線を描いて歩道の端にダイブする。

 それでも起き上がって逃げようとする男の上に圧し掛かり、パンプスのヒールを思い切り打ち下ろした。

 青空のもと、その陽気にふさわしい爽快な音が響く。

「これ、返してもらうからね」

 無抵抗になった男からトートバッグをもぎ取った。肩にかけると、なにやら違和感がある。

「ん?」

 なぜか、肩にバッグが二個もぶら下がっている。

「ど、ドロボー……」

 後ろから走り寄ってきたお姉さんが、切れ切れの声で私に言った。


 警察に行き、ひとしきり笑われたあと、私は解放された。空を見ると、すでにうっすらと金色がにじみ始めている。歩行者の皆さんの口ぞえがあり、私は『泥棒から戦利品を横取りする女』ではなく『自分のバッグの柄を覚えられない女』であることが分かってもらえた。

 足の裏が、懐かしい痛みとともに熱をもっている。前にも裸足で走ったことがあった。あのときよりも痛みが強いのは、隣に翔平がいないからだろうか。こっそり送ってあげようか、と中年警官に耳打ちされたのを丁重に断ると、回収されたパンプスで署を後にした。

 ふと顔を上げると、本当のバッグの持ち主が警察署の門のわきに立っていた。ウェーブがかかった栗色のロングヘアに、ガーリーな花柄ワンピース。ガッツリめの付けまつげをつけた垂れ目はどこかで見たことがある気がするが、誰かは思い出せない。

 可愛い子だなぁとオッサンじみたことを思いながら見ていると、彼女は私の視線に気付いた。軽く会釈をしてきたので、私も「どうも」と言いながら会釈を返す。

「災難でしたね」

 声をかけると、硬かった彼女の表情が少し和らいだ。

「ホントだよね。あなたも大丈夫?」

「ああ、はい。身体だけは丈夫なんで」

 言ってから、これは私の身体じゃないんだっけ、と思い出した。

「まさか、こんなことになるなんて……予定狂っちゃった」

 彼女がぼやきながら道の向こうを見やる。多くの車が流れていくなか、一台、こちら側にウィンカーを出すスポーツカーがあった。

 ……私、この車を知ってる。

「あ、来たっ」

 パァッという効果音が聞こえそうなくらい、彼女は一瞬で上機嫌になった。流れるようなフォルムの青いロードスターには、昨日見たばかりの男が乗っている。

 間違いなく、翔平だ。

「ありがとーっ、嬉しい」

 彼女がとろけそうな声を出すと、門に横付けされた車から彼が降りてきた。

「引ったくりされたって?」

「そうだよ、ホント怖かったんだからぁ」

 今すぐ何らかの罪で逮捕されろ、という思いが顔から出ないうちに、その場を立ち去ることにした。笑顔の翔平を見てると胸が痛んだりときめいたりで、自分の横っ面をブン殴りたくなる。

「あ、ちょっと」

 背中を向けた私を、馴染み深い声が呼び止めた。憎いはずなのに、呼ばれて嬉しくなってしまう私が嫌いだ。

「何ですか」

「こいつ助けてくれたんでしょ? オレからも礼言っとかないと」

「別に良いですよ」

 今夜ホストクラブに会いに行ってホレさせてやろう、なんて気持ちは消えうせた。そんなゲームみたいな駆け引きが出来るほど、私の傷は浅くない。

「だって、わざわざ追っかけて捕まえてくれたんでしょ。聞きましたよ、こいつから」

「ああ、それは――」

 言いかけたとき、女性の方が口を挟んだ。

「このひと、自分のバッグが盗まれたと思って追いかけてくれたの。スカートなのにはだしで全速力のとことか、すごかったんだから」

 言いながら私の足元に目をやる女を見て、ああやっぱりなあ、と思った。彼女も、彼が浮気するんじゃないかと不安なんだ。東堂クレアほど美しければなおさらだろう。だから無邪気を装って、ちくりとトゲを刺す。それは一般的な男性なら気付かないはずの、女特有のステルス攻撃だ。しかし女心に精通しているホストならば、そういうことにも気付いてしまう。案の定、翔平の顔から一瞬だけ笑みが消えた。

「……その足じゃ、帰れないでしょ。オレ送って行きますよ」

 再び笑顔に戻った翔平が言った。スマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。

「結構です。ってか、その車二人乗りじゃないですか」

 スポーツカーってのは本当に不便だよなあ、と思う。なのに人気が高いのは永遠の謎だ。

「大丈夫、今タクシー呼ぶから」

 ちくしょう、この優しささえ憎らしい。第一、私はタクシーでどこに向かえばいいんだろう? 昨日のバーに行きたいけど、名前がさっぱり思い出せない。

「翔平ってば優しいなぁ」

 電話を終えた翔平に、甘えるような声で彼女が言った。そんなやりとり私の見えないところでやってくれ、後生だから。

「ってことで、あとはタクシーに乗って帰ってくれ。じゃ」

 翔平はそう言い残すと、助手席のドアを開いて「乗って」と促した。

 ……なぜか私を。

「ちょっと、そんな冗談やめてよぉ」

 困惑した顔で女が彼のシャツを引っ張る。いつも愛想の良い翔平が、このときは本当にうんざりとした顔で言い放った。

「もう用はないから。二度とうち来るな」

 彼女が固まり、すうっと顔色がなくなっていく。口を半開きにしたまま、何を言っていいか分からない様子で固まっていた。

「早く乗って」

 再び笑顔のスイッチを入れた翔平は、強引に私を助手席に押し込む。何がなんだかわからない。

「あの、私はタクシーで良いから――」

「いいから乗って、取りあえず」

 無理やりドアを閉められ、彼自身も運転席に滑り込む。

 待って、待ってと繰り返す女に排気ガスをぶち当てる勢いで、車が勢いよく発車した。


「ちょっと……」

 私が言いかけると、翔平は突然「あっ」と声を上げた。幽霊でも見たかのように、運転しながら歩道を振り返る。

「前見てよ!」

「わ、悪い悪い」

 それでも、まだ横目でちらちらとわき見をしている。

「そんなに彼女が気になるなら、今からでも戻ればいいのに。謝れば許してもらえるんじゃない?」

 ようやく思い出した。あの人、二度目の彼の浮気相手だ。こうなった今では、どっちが浮気だったんだか分からないけれど。

「謝る? 別にアイツのことなんか気にしてねーよ」

 ようやく落ち着いて運転に集中し始めたようだ。表情を見る限り、その言葉は本心に思える。

「第一、あんなん彼女じゃねーし」

 彼は言いながら、軽い笑い声を上げた。相手を見下すような、冷たさを含んだ嘲笑。

 彼女じゃねーし。

 泣きながらすがった恋人に対する最後の言葉がこれか。泣いていたあの女が私に取って代わった瞬間も、彼は同じことを言ったのだろうか。

 彼女じゃねーし。

 翔平は、昨日も彼女にそう言って私を切り捨てたのか。私が彼を思い出して泣いていたとき、翔平はもう新しい恋人に、こんな風に笑いかけていたのだろうか?

「それより、名前なんていうの?」

 ふざけるな。

 人の情ってのはそんなものじゃない。私や彼女が翔平に捧げた愛は、そんな簡単に切り捨てていいものじゃない。

「君、すっごい可愛いよな。もしかして芸能人とか?」

 翔平にとっての愛がそんなものなら――

「……ふふ、ありがと。あなたこそ超カッコいいよ」

 ――そんなものだというのなら、私が教えてやる。

 おまえが女にくれてやった愛情が、一体どんなものだったのかを。


 そのあとは何も言わなくてもドラッグストアに到着し、彼は「ちょっと待ってて」とだけ言い残して車を出た。タバコだろうか、と思っているうちに小さな袋を提げて帰ってくると、いきなり助手席のドアを開けた。

「え? 降りるの?」

 車がまばらに停まっているだけの駐車場に、降りる理由は見当たらない。

「違うって。靴脱げよ」

 翔平はいきなりひざまづくと、有無を言わせず左足のパンプスを脱がせた。まるでシンデレラだ、と不覚にもドキドキする。美しい王子様が、姫の足を取ってガラスの靴を履かせている光景。

「血ィにじんでるじゃん。なんで放っておいたんだよ」

「だ、だって、大丈夫かなと思って。歩くことは出来たし」

 消毒液を塗る、すうっとした冷たさが心地良い。だけどそれはすぐに痛みを伴って、ちくちくと傷をうずかせる。

「いいよ、後は自分でやるから……」

「ケガ人は黙って任せてればいいんだよ。ほら、もう片方も出して」

 足に薬を塗る彼の目が、はっとするほど真剣だ。どこか考え事をするようなその顔は、男のくせに色気がある。

「よし、応急処置だけは済ませた。靴下買ってきたけど、いる? そのまんまじゃ歩きづらいかもしれないし」

「い、いる……ありがと」

 どこまでも気の利く男だ。見当違いなのは分かってるけど、なんかむかつく。

「素直だな。よしよし」

 くしゃくしゃと頭をなでたその手を払えなかった自分には、もっとむかつくけど。


 その後は、フレンチのお店でディナーを取ることになった。

 彼は店に着く前、スマートフォンを取り出して「同伴で遅くなるから」と店に連絡をした。普段は夜七時の開店にあわせて出勤しなければいけないが、客と同伴出勤する場合は多めに見てくれる。もちろんそれも仕事の一環であって、客側はしっかりとその代金を払わせられるわけだが、さすがに今回はその必要はないようだ。

「実はオレ、ホストやってんだ」

 オードブルの三種盛りを食べながら、彼がさらりと打ち明ける。知ってる、と言うわけにもいかないので、へぇそうなんだ、とだけ返事した。

「反応うすっ! もうちょっとなんかないわけ?」

「いや、だってホストくらいいるでしょ、資格が必要ってわけでもないしさ。ホストにハマってんだ、とかなら俄然気になるけど」

「へー、そんなもんなのかなぁ」

 エンドウ豆とカニのジュレ寄せをフォークですくい上げて、翔平がぼやく。

「資格が必要なら、わぁスゴぉい♪ とか言ってくれたわけ?」

「わぁスゴぉい♪ とか言ってもらいたかった? なら言うけど」

「なんか涙出そうになるから遠慮しとく」

 唇を尖らせながら、拗ねた子供のように言った。こんなところも、以前なら可愛いなとか思っちゃったんだろうけれど。

「ところでさ、クレアさんって前なんかの雑誌に載ってたよね。オレ見たことあるよ」

「んー……そうだっけ?」

「うん、ありえないくらい綺麗だったから未だに覚えてるんだ。まぁ、話したくないなら良いけどさ」

 話したくないわけではないが、話すことがない。自分のことなのに他人の方がよく知っているというのは、なんだか奇妙で居心地が悪いもんだな。

 そんなことを考えていたら、妙な沈黙が出来てしまった。何か喋らなければ、と思った矢先、あくまで自然に翔平が切り出す。

「クレアさんでも、恋とかすんの?」

「はぁ?」

 『でも』ってなんだ、『でも』って。美人は恋をしないとか言いたいのか? それとも、『オレが本当の恋を教えてやるぜ』的な口説き文句の一環なんだろうか。

「んな反応するなよ、恥ずかしくなってきた」

「ごめんごめん、恋の悩みなら聞くよ。さあどうぞ」

「もういいよ」

 ばつが悪そうに目を逸らす翔平を見て、これはそんな下心があって言ったことではない、と思った。だとしたら何が言いたかったんだろう?

 脳内に彩奈が降りてきて、手を叩きながら笑い始める。それ、由佳先輩の好みっぽいから演じてるだけっしょ。ぐらぐら揺れる彼女が、あっけらかんと言い切った。ホストって、女ダマしてナンボじゃないですかぁ。

 騙されても騙されても、私は忠犬みたいに恋をする。でも、ヒトは犬に恋をしない。信じて愛して遊ばれて、飼い主が疲れたら背を向けられる。

「翔平が言う恋って、結局なんなの?」

 愛を乞い続けるのが恋ならば、彼は恋なんかしたことがないに違いない。

 運ばれてきた鴨肉を切り分けつつ、ぼんやりと思う。

 たくさんの愛を受け止め続けている翔平ならば、それ以上何を乞う必要があるのだろう。



 結局私は、最初にいたシティホテルの前に戻ってきた。時刻は夜の八時半。男女がデートを終えるには、健全すぎる時間帯だ。

「ホントはもっと一緒にいたかったところだけど」

 ホテルに横付けされた車を降りながら、翔平は言った。

「今から仕事なんだよね。クレアさんが来てくれるならサービスしちゃうけど」

「遠慮しとくよ。一度ホストにハマって痛い目見たことがあるし」

 助手席のドアを開ける手が、ぴたりと止まった。二重で切れ長の目を丸くして、彼が驚いたように言う。

「そうだったんだ?」

「うん、後輩にも散々笑われちゃった。でも過去の話だから」

 車から降りて、にっこりと微笑みかける。身に覚えがあるのか、彼はまたしても神妙な顔つきで「そうなんだ」とだけ言った。

「じゃ、今夜はありがと。美味しかったよ」

 彼に背を向け、ホテルのドアへと続く大理石風の段を上がる。

 その直後、私の右手は大きな手に引き戻された。

「待てよ。連絡先、まだ聞いてない」

 予想通りだ。もったいぶったように、私は答える。

「バッグのお礼は充分してもらったよ」

「そうじゃない。今度はお礼としてじゃなく会いたいんだ」

 ホストに懲りた女と分かったからだろうか。その態度は真摯で、誠実ささえ感じさせる。

「……ほんと?」

 嬉しさと不安をにじませた表情は、うまく作れただろうか。ここで連絡先を交換し、デートを重ねて夢中にさせる。あと二日で、私はそれをやり遂げなければいけない。

 私の携帯に、翔平のアドレスが登録される。本当はもう入っているから、私の中の翔平は二人になった。由佳としての目で見ていた彼と、クレアの目で見る彼。同じ翔平のはずなのに、抱いてる気持ちは全然違う。

 アドレスの交換を終えると、にこっと笑って彼が言った。

「じゃ、送ってくわ」

「え? もう送ってもらったよ」

 ここホテル前だし、と言う前に、突然体が浮いた。

「きゃっ……!」

 彼の腕に、私の体がすっぽりと収まっている。お姫様だっこをされ、どんなに抵抗しても足がバタバタと空を切るだけだ。

「お、下ろしてよっ」

「だって、足ケガしてるじゃん。責任持って送り届けるよ」

 にこにこ笑いながら言うもんだから、つられて笑ってしまった。それを見てさらににこにこする翔平は、ママに褒めて欲しくてお手伝いをする小学生みたいだ。

「よーし、しっかりつかまってろ」

「フロントの人ビックリしてるし! ってか、鍵!」

「ああそっか。すみません、この人の鍵ください」

「せめて下ろしてから話しかけてよ!」

 ぎゃーぎゃー言ってるのに、全然下ろしてくれない。わざと叩いたり髪をひっぱったりしたけれど、逆に大きく揺らされて反撃された。

「とーちゃく~」

 三階にある部屋の前で、すとんと彼から解放される。ほかの宿泊客に見られたらと思うとドキドキして、これじゃ自分の足で歩いた方がマシだと思った。

「あ……ありがと」

「いえいえ、お姫様」

 おどけて一礼すると、彼はあっさり帰っていった。なんだか台風に襲われたみたいだ。お茶でも飲ませてよ、とかなんとか言って部屋に入ろうとするかと思ったのに。

 ため息をひとつついて、バスタブにお湯を張る。フロントに電話して訊いたところ、3月19日の朝まで私はここに泊まることになっているらしい。つまり、私が東堂クレアである間は、このシティホテルの一室が我が家ってことだ。

 倒れこむようにしてベッドに身を投げる。人形のようにバランスの取れた身体が、それこそ作り物のようにぽんと跳ねた。このもやもやもいっしょに跳んでいけば良いのに。

 お湯の具合を確認し、服を脱ぎ始める。それにしても、同性とはいえこんな美女を丸裸にするのは照れるな。胸とか触っちゃってもいいんだろうか。身体を綺麗にするためであって下心なんてないから、と、話したこともない東堂クレアに言い訳をした。

 に、しても。

 熱めの湯にゆっくりと身を浸しつつ、今日のことを振り返る。お礼という名目の、完全なるデート。思い出せばそれは悔しいほどに楽しくて、ひどく切ない。復讐を誓ったのはほんのさっきのはずなのに。彼の笑顔は暴力にも似て、固めたはずの復讐心を粉々に破壊する。傷口から染む甘い毒に決意を鈍らされる、そんな自分が不甲斐ない。

 両手で頬を軽く叩いた。ぱしゃんと音を立てて、お湯が細かく散っていく。

 由佳、しっかりしろ。

 気合を入れなおすように、勢いをつけて風呂から上がる。湯が、引き締まった肌をつるつると流れ落ちていく。身体をバスタオルで拭いながら、湿っぽい感情もこうして拭き取れたら良いのに、と思った。



【一日目:本体】


 昨日はそんなに飲んでないのに。

 昼過ぎのベッドから身を起こして、首をひねる。確かひとりでバーに行って、できそこないのカクテルを一杯飲んだ。たったそれだけのはずなのに、記憶はすっぱりと消え失せている。

 ふと、枕の横に転がった携帯電話を確認した。メールが一件入っている。それが翔平からのものと分かった瞬間、記憶より先に涙がよみがえった。傷はまだまだ癒えそうもない。

 そういえば、昨日のお店のバーテンダーは良い人だったなあ。急に押し掛けた酔っ払いのために、即興のお話を作って聞かせてくれた。最後まで「ドッキリでーす」なんて言い出さなかったのも嬉しい。オネエだし、バーテンダーとしてはどうかと思うけど。

 外を見ると、部屋にいるのが勿体なくなるほどの青空だ。本当は誰かと一緒が良かったけど、仕方がないので一人でウィンドウショッピングをすることにした。

 電車に揺られて目的地に着くと、水草のようにゆらゆらと街をたゆたった。いろんな服やアクセサリーが、全部同じに見えてくる。考えていることはずっとひとつ。それを認めたくなくて、場所を変えてはまた想う。

 ふいに視線を感じ、振り返った。誰だ? 探すけれど、それらしき人はいない。気のせいかと思って顔を上げると、目の前に見覚えのある男の後ろ姿があった。

「……翔平?」

声に気付き、男が振り返る。翔平とは似ても似つかない顔立ちの、全く知らない人だった。慌てて謝罪すると、笑いながら許してくれた。優しい人で良かったと思いながら、真っ赤な顔のまま逃げるようにその場を去る。

「やばいぞ、私」

幻覚症状一歩手前だ。そのうちマネキンと腕を組んだり、空っぽのベビーカーを押したりするかも知れない。

 鬱々としながら、学生のころから仲の良かったミサに電話をした。少し間延びした、ほっとするような声が応答する。

「由佳? うーん、おうちでまったりしてるとこ。どしたのー?」

「突然だけど、今から会えない? ケーキとポテチ付きで行くからさぁ」

「いいね~、一緒にランボー観ようよ。昨日DVD借りて来たんだ」

何そのチョイス、とは思ったが、ありがたく誘いに乗った。ミサも一人暮らしだから、気軽に遊びに行けるのが嬉しい。

「どうせ明日日曜だし、そのまんま泊っちゃったら~?」

私が落ち込んでいることに気づいているのか、それとも素敵な偶然か。どちらにしたって渡りに船だ。今からお泊まりセットを取りに帰るから、と伝え、足取り軽く駅へと向かう。

 捨てる男あれば拾う女友達あり。語呂の悪いパロディを呟きながら、私はさっそくアパートに引き返した。



【二日目:ボトル】


 朝起きたと思ったら、昼だった。

 スマートフォンの『12:07』という表示に、すごく勿体なさを感じる。せっかくの日曜日くらい、朝から遊んで充実したかった。今からでも友達を誘おうかと思ったが、すぐにダメだと気付く。私が由佳だなんて、誰が信じてくれるだろう。

 そう考えて、ふと思った。もう一人の私は今頃どうしてるんだろう。私同士ならこの姿で会っても問題ないし、事情も良く知っている。何より自分同士で遊ぶなんて体験は、今を逃せば二度と出来ない。

 すぐに見知った番号をプッシュし、わくわくしながらコール音を聞く。しばらくして、懐かしいような声が「はい、もしもし」と答えた。

「こんにちは。あなた由佳だよね?」

「えっ……そうですけど。どちら様ですか」

 不審そうな声だ。いたずらっ子の気分で、ニヤニヤと笑う。

「誰でしょう? 一番あなたのことを知ってる人だよ」

「意味がわかりません」

 なんだこの素っ気なさ。がっかりだぞ自分。

「正解は、私でした。野島由佳。ねえ、今から遊びに行っていい? 今日ヒマで――」

 プツッ。

 いきなり電話が切れた。予想外だ。

 再度かけ直すも、着信拒否をされたのか取ってもらえない。アパートに突撃しようにも、私の性格からすると、休日に出かけている可能性は大だろう。こうして私は、貴重な体験を無駄にした。

 窓の外は、引きこもっているのが勿体なくなるほどの晴天だ。本当は誘われるまで待ちたかったところだが、仕方がないので翔平にメールを打ってみる。

『昨日はごちそうさま。また遊べたら良いね』

 わざと素っ気なくして、ただの社交辞令ですよアピールをした。向こうから改めて誘ってくれることを期待して。

 そんな願いは、驚くほど速やかに叶った。スマホが、五分と経たないうちに着信音を奏でる。

「自分を振った男の方が自分より自分に優しいってどうよ……」

 なんか、自分のことを嫌いになりそうだ。自分自分言いすぎて自分がゲシュタルト崩壊しそうだけど。


 そんなわけで、私は二日連続で翔平とデートすることになった。

 ドライブしたり、買い物をしたり。翔平は由佳のときと同じで、無邪気に楽しんでいる感じだった。

「あ、これ可愛い」

 通りかかった店先にあった、革製のチャーム。クローバー型で、細かなステッチが施されている。ゴールドチェーンに大きさと色の異なる三枚が連なって繋がれていた。

「革って良いよな。使用感出てくるとまた雰囲気変わるし」

「そうなんだよね。私クローバーのモチーフも好きなんだ」

「マジで? じゃ、これ欲しい?」

 翔平が手にとって、私の目の前に差し出す。良く見ると、葉の一枚にスワロフスキーのラインストーンがあしらわれていた。

「うん、でもどうしようかな……」

 彼の手の中で、チャームといっしょに値札も揺れる。値段は全然可愛くない。

「気に入ったんなら、買ってやるよ」

「えっ?」

 レジに向かおうとする翔平の服を慌てて掴む。しかも、なぜか色違いまで持ってるし。

「良いよ、自分で買うから」

「ざんねーん。もうオレが取っちゃったから、オレのものだよ」

 いたずらっぽく笑いながら店員さんにお札を渡す。可愛くラッピングされた箱は、小さな紙の手提げ袋に入れられた。翔平は袋の中からそのうちの一個を取り出して、私の目の前に差し出す。

「はい、プレゼント」

「ありがとう。さすがプロは違うね」

 プレゼントの仕方までスマートだ。これで落ちないのはレズか男くらいだろう。

「どゆこと?」

 きょとんとした目が、ころころとした仔犬みたいで可愛い。

「女の人を喜ばせるのがうまいな、って」

「あー……」

 褒めたつもりなのに、とたんに彼の表情が苦々しくなる。自分を『そういう人間』だと気付かれたくなかったんだろうか。

「ホストなんだから、気配り上手は良いことだよ。別に悪い意味で言ったんじゃないし」

「いや、違う……うん」

 途端に歯切れが悪くなる。店員さんの『ありがとうございました』の声にも答えず、難しい表情のまま店を出た。

 外は相変わらず人が多くて、店が立ち並ぶ大通りはお祭り状態だった。ときおり吹く春の風が、熱気あふれる人の群れをひんやりと冷ましていく。

「ね、怒らないでよ」

 言いながら、彼の腕を取る。思い切って胸を押し当て、上目づかいに微笑んだ。普段なら絶対しないけど、美人の容姿を手に入れた今なら大胆なこともできる。

「怒ってないけど」

 大サービスににこりともしない。どころか、目まで合わせてくれないのはなぜなんだ。

「通販番組のおばちゃんくらいにウソ臭いよ、それ。理由言ってくれればちゃんと謝るけど、今のまんまじゃ何に謝って良いかわかんないよ」

 逆切れのごとく文句を言うと、ようやく翔平が私を見た。けれど、やっと戻ってきた笑顔は苦笑いに近い。

「オレ……ホストだからうまいとか、そんなんじゃないんだ」

「え?」

 そこ怒るところだったのか、というか、怒ってるわけじゃなかったのか。

「むしろナチュラルにホストっぽいんだよな。人が喜ぶこととか、なんでもしたいし言いたくなる。けど、ホストよかタチ悪いんだよな、そういうのって。だからホストになった」

「なんで? 人を喜ばせたいなんて、すごく良いことじゃん」

「だろ?」

 にやり、と笑った綺麗な顔が、いきなり近づけられた。心臓が、赤く光りだすんじゃないかと思うくらいドキドキする。

「オレも昔はそう思ってた。何が悪いんだ、何も悪くない。君は可愛い、あなたは綺麗だって言えば女は喜ぶし、おまえはすごいよ、羨ましい、って言えば友達が増える。相手もオレも喜ぶ。だから良いことなんだって」

 大通りを曲がり、少し静かな道へとそれる。楽しげな喧騒は遠くなり、どこか寂しい空気がただよった。

「でも、人間ってそんなにバカじゃねーよ。中身のないお世辞で喜ぶのは、オレの中身を見ようとしないやつらばっかりだ。ま、カラッポなのはお互い様だな」

 自嘲気味に笑う頬に、細くしわが寄る。完璧な顔に刻まれたそれは、かえって彼に色気を与えた。

「どうせ騙して喜ばせるなら、騙されるのを分かってて来るやつらの方がマシだ。日常にオレみたいなやつが紛れ込んでちゃ、人間不信にさせそうだし」

「だから、性分を仕事に生かすことにした……ってこと?」

「ああ。あそこの連中、みんなオレみたいだろ。騙したい男と騙されたい女。楽だよ、すっげーラク」

 せいせいしたように言う翔平の顔は、どう見ても楽そうには見えない。諦めたような表情が、中性的な美貌に老人のような影を落とす。

「素直に心をさらけ出すのが怖い?」

「……素直ってなんだろな。オレにとっては、お世辞だって無理やり言ってるわけじゃないんだよ。相手を持ち上げたり、 思ってもないのに同調してみたり、自然にしちゃってるわけ。そういう行動って、オレにとってかなり素直なんだ」

由佳として彼と会っていたときもそうだっただろうか。考えるが、全然思い当たらない。彼はいつだって無邪気な子供のようで、言いたいことを私に言っていた。

 ってか、綺麗や可愛いなんて言葉、お世辞でも言ってもらってなかったぞ? おい、むしろそこは正直すぎるんじゃないか。

「イケメンでも悩みがあるもんなんだね」

 言いながら、ふと思う。もしかして、この悩みすらも『東堂クレアの好み』を予測して作った架空の人物像に合わせたものなんだろうか。女に合わせて自分の見せ方を変えるのは、ホストの十八番だ。

「じゃ、クレアには悩みなんかないわけ?」

 口をとがらせて翔平が訊く。何気に呼び捨てなところにドキッとして、私の思考はストップする。

「なんでそこで私にふるのよ」

「だって、どんな女より一番キレイじゃん」

 さらりと言われ、思わず目を逸らす。そんなこと、由佳のときには言われなかった。もちろん私だって自分の容姿がどの程度のものかくらいは分かっている。でも、お世辞すら言う価値がなかったのかと思うと、やっぱり傷ついた。

「ほら見ろ」

 黙り込んだ私を見て、翔平は肯定したと取ったらしい。美しい男のそばには、美しい女。彼を理解できるのは由佳ではなく、私がキープする前の東堂クレアだ。彼女の身体に入り込んでいる私はどう考えても場違いで、ただの邪魔ものでしかない。

 道を進み続ける彼の横顔が、とても遠くに感じた。『翔平を翔平としてしか見ない』という私の宣言は、もしかしたらひどく滑稽で身の程知らずだったのかもしれない。彼が私と付き合ったのは、尻尾を振り続ける野良犬に与えた、一時しのぎの餌に過ぎなかったのだろうか。

「ん? どした?」

 遅い私を気遣って、翔平が歩を緩める。果たして今、復讐されているのは誰なのだろうか。



【二日目:本体】


 昼過ぎまで寝ていた私を起こしたのは、知らない番号からの電話だった。ミサは先に起きてダイハードに見入っている。朝四時まで呑んで騒いで愚痴り合っていたというのに、ジョン・マクレーンが宿ったんだろうか。着信音がいつまでたっても鳴りやまないので、間違い電話だろうと思いつつも一応出てみる。

「はい、もしもし」

「こんにちは。あなた由佳だよね?」

 馴れ馴れしい声が、いきなり呼びかけてきた。私は番号すら知らないのに、どうして相手は名前まで知っているんだろう。

「えっ……そうですけど。どちら様ですか」

「誰でしょう? 一番あなたのことを知ってる人だよ」

 ニヤニヤと笑っているのが、声から伝わってくる。不穏な空気を察知してか、ミサがDVDを止めてこちらの様子をうかがってきた。携帯をハンズフリーにし、ミサにも会話が聞こえるように設定する。

「意味がわかりません」

女でも変質者はいるんだろうか? 動揺を悟られないよう、出来るだけ素っ気なく答えた。しかし相手は全く意に介してはいないらしく、得意気に続ける。

「正解は、私でした。野島由佳。ねえ、今から遊びに行っていい? 今日ヒマで――」

 プツッ。

 とっさに電話を切った。思わずミサを見ると、私と同じくらい顔をゆがませている。

「なに今の……知らない人なんだよね?」

「うん、全然聞き覚えない声してた。知り合いだったら番号登録してるし、登録してない人なら私の番号知ってるわけないし。大体、『私、一番あなたのことを良く知ってる人なの』ってなによ?」

「キモッ! ストーカーきもッ!」

「これストーカーなの? 女だったけど」

「女だからって舐めないほうが良いよー。自分のこと由佳だと思い込んでるみたいだし、おかしい人って何するか分からないから」

「どうしよう……アパートまで突き止められてるみたいだったし」

 思わず電話を切る直前、『遊びに行っていい?』と彼女は言っていた。そのうち、『ウフフ来ちゃった』とか言って現れるんだろうか。わたし由佳ちゃん。今あなたの部屋の前にいるの。

「とにかく、今日もうち泊まりなよぉ。下着はコンビニで売ってるし、パジャマとかは私の使えば良いからー」

「ありがとう。迷惑かけます……」

「良いよ良いよー、これくらい。そう言えば昨日も誰かの視線を感じたって言ってたけど、そいつじゃない?」

「え? 確かにそうだけど、でも気のせいかもしれないし」

「その口ぶりだと、気のせいじゃないかもしれないってことでしょお」

 ミサに言われ、ゾクリとした。男に振られたうえ、なぜ女のストーカーまで出現したのだろうか。

「もしかして、昨日言ってた元カレがらみってことはない?」

「翔平? だって彼、男だよ」

 知ってるよ、とミサが呆れたように言う。考えようにもパニック状態で、なかなか思考がまとまらない。それを察してか、ミサはゆっくりと、言い含めるように話し始めた。

「予想に過ぎないけどさー、翔平さんと付き合ってるとき、妙な視線やストーカーの気配は感じなかったんでしょ。なのに、別れてから二日くらいしか経ってないのに、いきなりストーカーが現れて電話までかけてきた。無関係って考えるには、ちょっとタイミング良すぎじゃなーい?」

「うん……だけど、だったらどういうことだろ? 今までは翔平がストーカーから守ってくれてたとか?」

「そうも考えられるねー。まさか、翔平さんがストーカーを雇って仕向ける必要はなさそうだし。だけど、こうも考えられる」

 真剣な顔で、ミサが飲み残しの焼酎をあおった。

「翔平さんの、二度目の浮気相手。もし、彼女が嘘をついてたとしたら?」

「嘘?」

 私と彼女が交わした会話はたった一言だ。翔平の彼女ですか、という私の問いと、彼女です、という答え。

「その"翔平の彼女"っていうのが嘘だとしたら……ってこと?」

「そーそー。由佳はさぁ、その女の人の言葉を信じてるわけだよね」

「だって一緒に買い物してるの見ちゃったし、そのままマンションに入ってくのも見てたし」

「ホストなら色恋なんて良くあることなんじゃない?」

 色恋営業。客と疑似恋愛をすることで、自分を指名してもらうように仕向ける営業方法のことだ。

「……私も翔平と付き合うようになったとき、訊いたんだ。これ色恋営業じゃないよねって。『オレは絶対色恋はしない』って言われたし、実際にそれからは私が一切お店に行かなくなっても、翔平は変わらず恋人として接してくれた」

「由佳だけ特別にー、とかじゃないの?」

「違うと思う。翔平って、お店じゃナンバーワンの人気なんだよね。だから、いつもものすごい指名数なの。一日で回れるテーブル数は限られてるし、ナンバーワンだと新規さんのお相手も相応にこなさなきゃいけないから、どうしても一人一人に割く時間は短くなってくる」

「へー。確かに顔だけは良かったもんなぁ、あの男」

 頷きながらミサが言った。

「だから、そんな人数のお客さんに色恋営業するなんて、到底無理だと思うんだよね。第一、疑似恋愛する労力への対価が低すぎる。友達なら何人いたってモメないし会う時間が少なくても続けられるけど、恋人としてだとそうはいかないでしょ。人気のないホストが食いつなぐためにやるならまだしも、翔平がやる必要はないし、やれるような営業方法じゃないと思う。ましてや、お金にならない私までいる状況で」

 聞き終わると同時に、ミサがふっと笑った。一生懸命説明したのに、失礼なやつだ。

「なんで笑うのよ」

「だってぇ、すごく一生懸命なんだもん。翔平さんのことを話してるときの由佳~」

「違っ……」

 言葉が出る前に、頬が熱くなっていくのを感じた。

「変な言い方しないで。私はただ、翔平は色恋営業なんてやってないってことを――」

「分かった分かった。まだ二日しか経ってないもんねー」

「もうフッ切ったってば!」

 ウソだ、と即座に自分でツッコんだ。浮気されたくせに、まだ彼を憎み切れていない。

「とにかく、由佳が言うとおり、翔平さんが色恋営業をしていないってことにしよう。だとしたらさぁ、彼と歩いてたその女は誰か、よ。さっき由佳が言ったように、友達なら何人いたってモメないし、自然だよね。その女が友達ってポジションを認めてるかどうかは疑問だけどさー」

「友達と二人きりで部屋にいるかな? 異性同士なのに」

「その点については、翔平さんはなにも言ってないの?」

 訊かれて、ようやく気が付いた。そう言えば昨日、翔平からメールが入っていたんだった。思い出すのも嫌で中身を確認しないままミサと呑んだくれているうちに、すっかり忘れていた。

「メール、昨日の朝に来てたんだった」

 携帯を開き、受信ボックスを確認する。翔平からのメールには、こう書かれていた。


『昨日ごめん。でもオレのこと信じて欲しい。あの女はただの知り合いだす、浮気じゃない。いっかいもキスすらしたことない。あいつだって彼氏がいるし、あり得ない。まだ詳しくは話せないけど、あと三カ月待ってくれ。オレは絶対にウソはついてない。お願いします』


 なにこれ。

 読み終わった瞬間、鼻で笑いながらそう呟いてしまった。

「ただの知り合いと買い物して部屋に入れたの? 信じて欲しいけど詳しく言えないの? なんで? ねえなんで?」

「落ち着いて、由佳。それよりさー、この三カ月って何かわかる?」

「知らないよそんなの。三カ月待ったからってなに? 浮気相手が召されんの? おまえが土に帰れ!」

「落ち着けってばぁ」

 時間さえ流れれば私が許すとでも思ったんだろうか。その間にちゃっちゃと火遊びを済ませて、また元通りにもどる算段だったんだろうか。

「三カ月がなんなのかは分からないけど、詳しく言えない理由があるのかもしれないじゃーん」

「どんな理由よ? 脅されてるの? 屈強なマッチョメンとかに? 光る筋肉見せ付けられながら?」

「部屋から出てきたその女、話からすると、由佳と話したときには身だしなみ整ってたんでしょー。エッチのあとならリップくらい剥げてそうなのにさぁ」

「そんなの後から整えれば良い話じゃん」

「まーそうだけど……じゃあさー、さっきの会話思い出して。由佳のストーカーの話」

「思い出した。つくづくロクな状況じゃないなって思い知ったよ」

「アホ~」

 食べ残しのポッキーでほっぺたを刺された。チョコの先っぽが濡れてるあたり、どうやら私は泣いていたらしい。

「このタイミングでのストーカーだよー。で、翔平さんの全否定だ。浮気相手の『付き合ってます』って発言が、もし由佳と翔平さんの仲を裂きたいがためのウソだったとしたら?」

 涙付きポッキーをぽりぽりとかじりながら、ミサが続ける。

「女ストーカーが由佳を狙ってるなら、翔平さんの浮気相手イコール女ストーカーって線もあり得るよね~。あとは傷心の由佳に優しく近づいてモノにしちゃおー、ってことよ」

「男ならまだしも、いくら傷心だからって女には行かないでしょ。だいたい、あの怪奇電話のどこが"優しく近づいて"なわけ?」

「まー、感じ方に個人差はあるよねぇ」

 そんなレベルの問題じゃない。

「でも、なんかさぁ、あのメールがウソついてるように見えないんだよねー。文とかぎこちないし、知り合いダスとか言っちゃってるし。いつもはあんな不自由な日本語じゃないんでしょ?」

「そうだけど……でも、それは」

「焦りまくって夢中で打っちゃった感じがしてさぁ、なぁんかウソって言いきれないんだよねー。普通ならさ、むしろいつもより丁寧に書くところじゃん。それに三カ月って期間を区切ってるのも謎だし」

 ストーカーが現れたことで、すっかりミサは翔平を信じたようだった。彼女はとっても良いやつだ。友情に厚いし、男遊びだってしない。もちろんホストクラブなんて行ったことがないから、真顔でウソをつける人種に接したことがないのだろう。彼女もまた、純粋な人間なのだ。

 携帯電話をクッションに向かって放り投げる。最後の一本となったポッキーをつまみながら思った。ホストは女ダマしてナンボだ、なんて言いきる彩奈の方が、こんな日には向いていたのかもしれない。


【三日目:ボトル】


 朝日が、白いレースカーテンを通して狭い室内に降り注いでいる。私は一人掛けの小さなテーブルにつきながら、ルームサービスのトーストをほおばっていた。ハムエッグとサラダが乗ったプレートの横には、受信したメッセージを表示した状態のスマートフォンが置かれている。

 今日の夜、零時きっかり。それで、東堂クレア――この綺麗なボトルともお別れだ。名残惜しい気もするし、久しぶりの我が家が待ち遠しい気もする。貴重な体験のおかげで濃密な三日間だったけれど、そのほとんどは翔平に費やした。復讐のために。復讐のため、と自分に言い聞かせながら。

 芳しい湯気を立てるコーヒーに、砂糖を少し入れて掻き混ぜる。結局、今の私はどうしたいんだろう。翔平が憎い、復讐したいと思っていた二日前の私は、すっかり大人しくなってしまった。あのバーテン君には悪いけど、最初から私には無理だったんだろう。子猫が人間に牙をむいて威嚇するのと同じだ。人間はそれすらも可愛いと笑うだけで、最初から勝負なんて始まってもいない。あげくに撫でられ餌を与えられ、すっかり牙をしまいこむのだ。

「これ……どうしよう」

 ラッピングされた小箱のリボンを、ためらいがちに外す。箱のふたを開けると、昨日見たあの可愛らしいチャームがそこに収まっていた。手に取ると、心地よい重みと質感を肌で感じ、思わず笑みがこぼれる。クレアの飾り気のないベージュのハンドバッグに付けてみると、途端に華やかなバッグへと生まれ変わった。

 私が由佳の身体のままだったら、彼はこれをくれていただろうか。空しい問いに、自ら首を振る。私が東堂クレアだから、彼はプレゼントをくれた。私が美人だから……。

 美人、という言葉で、初日に会った女の子を思い出した。私と翔平が別れる切っ掛けになった、ひったくりに遭った若い女性。あの子も可愛かった。白くて華奢で、目が大きくて知的で。けれど、きっと彼女は私に良い感情を抱いていない。自分の彼氏を横取りした女として憎んでいるだろう。

「……同じ、だ」

 彼女は三日前の私だ。私が傷ついたように、彼女もまた今頃どこかで泣いている。新しい美女が現れれば、次に泣くのは東堂クレアの私だろうか。そして、その次は……。

 本当にあの子を好きになってしまったのなら仕方がない。そう思って、三日前の私は翔平から手を引いた。翔平が好きだったから、彼の幸せを望んだのだ。だけど、しょせん浮気は浮気だった。このままだと彼の周りは、私のような女でいっぱいになる。

 苦めのブラックコーヒーを一気に飲み込んだ。程よい熱さが私の気を引き締める。

「見失うところだった」

 霧が晴れたように目標が見えてきた。やらなければいけないことが、そこにはまだある。これは私だけの復讐ではない。泣かされた女たちからの制裁なのだ。

 私は、もう迷わない。



「おっはよー。なに、オレの声が聞きたくなった?」

 たっぷり十コールほどしたのち、翔平は私からの電話を取った。おはよう、とは言えない時間帯だが、彼の声からして今まで寝ていたわけではないらしい。

「そうかもね。とにかく、昨日のプレゼントのお礼が言いたくって」

 本当は彼からの電話を待った方が良いんだろうが、すでに時刻は十一時半を回っていた。私にはこれ以上待てるだけの余裕がない。

 あと十二時間で、彼はクレアのトリコになってくれるんだろうか。

「なんだ、残念。てっきりお誘いの電話だと思ったのに」

「その反対。お別れの電話ってとこかな」

 あくまで軽くそう言うと、初めて彼が意表を突かれたような声を出した。

「え? なに、どうしたの」

「色々あって、遠くに行くことになったんだ。今日の夜、零時にね。もう会えなくなっちゃうから、ひとことお別れを言っておきたくて」

「そうか……いきなりだな……」

 ダダ下がりのテンションに、内心でガッツポーズをした。デートの約束は、意地でもその口から言わせてやる。

「ごめんね。でも翔平さんと遊ぶの、すごく楽しかったよ。今まで出会った男の人の中でも一番なくらい」

 そう、おまえは一番だ。平気で女を泣かせ続ける、一番最低な男。

「今日の零時って、夜中だよな? 飛行機で外国かどこかへ行くってことか?」

「ま、そんなものかな。くわしくは言えないんだけど」

「そうか……」

 いつも自信に充ち溢れていた声が、明らかに落胆する。そして、ついにその言葉が出た。

「なら、今日会えないか? 旅立つ前に、一度会っておきたい」

「えっ、お仕事とか大丈夫なの?」

「ちょっと理由があって、最近は休みを多めにとるようにしてるんだ。今日も前々から休みの連絡を入れてあったから」

 これは初めて知ることだった。なぜかは知らないが、これで彼の気を引くための時間がたくさんできたのだから良しとしよう。

「そうなんだ、でもせっかくの休みなのに……」

「だって今日で最後なんだろ?」

「うん。翔平さん、ありがとう」

 朗らかで控えめな女性を演じ切り、私は電話を終えた。このままでも充分美しいクレアだが、今から気合を入れてメイクをしなければいけない。バッグに付けられたクローバーは、今度こそ幸運を運んでくれるだろうか。



 待ち合わせ場所は、初日に訪れたあのコーヒーショップだった。店内にはすでに翔平がいて、ホットのエスプレッソらしきコーヒーを前に、何かの本を読んでいる。今日も人が多く、数人の女性客がしきりに彼を盗み見ては顔を輝かせていた。これだけの客の中にいてもすぐに見つけられるほど、彼は目立つ。容姿の良さだけではない、生来の華やかさがあるのだろう。

 私はカウンターでキャラメルフラペチーノを注文し、奥のマシンでプラスチックのカップに液体が注がれるのを待った。前も会った男性店員がにこやかに話しかけてきて、私の席の心配をしてくれた。あの人の連れなので、と言って翔平を指すと、驚いたように引き下がる。悲しげな表情でフラペチーノを差し出す彼に、少し罪悪感を感じた。

「おまたせ」

 言いながら、翔平の対面に座った。先ほどから聞こえていた囁き声は大きくなり、はっきりと聞き取れるまでになっている。

 ――あの二人カップルなんだ、完璧じゃん。

 ――芸能人? 俳優さんかも。

 ――女の方、なんかで見たことあるよ。一般人じゃないってあれは。

 ――ドラマの撮影してるのかな。

 ボトル・キーパーなんて全く知らなかった頃の私なら、この状況を羨ましくさえ思っていただろう。だけど、今は違う。どこを見ても視線を向けられ、自分について囁き合われるのは、泣きそうなほど居心地が悪い。

「それ、テイクアウトしなよ」

 座ったまま固まっていた私に、翔平は優しく提案した。

「ここじゃ落ち着かないだろ。ドライブしながらでも飲めるし」

 読んでいた本を左手に抱え、すっと立ち上がる。彼の顔を見るたび復讐の決心が揺らぐのは、この抜群の気遣いのせいでもあった。ちょっとした私の心の変化に敏感に気づき、すぐに手を差し伸べる。あくまで自然に、恩着せがましくならないようなさり気なさで。

 青いロードスターの助手席に乗ると、車は軽やかに出発した。交通量の多い繁華街から離れて高速に乗る。喧騒を忘れ、何も考えず走り続けるには良い場所だ。

「行きたいところ、ある?」

「うーん、別に……」

 本当はお腹がすいていたが、ランチには遅い時間だった。彼はもう先に食べているかもしれない。

「じゃあ、最後のデートをしよう。実はオレ昼食まだなんだけど、付き合ってくれないかな」

 そう言うと、翔平は白い歯をのぞかせて笑いかけてきた。綺麗に並んだ形の良い歯が目を引く。心を見透かされた気がして、恥ずかしさに目を逸らした。飛び去るように流れていく風景を見ながらも、その笑顔を思い出している自分が情けない。


 高速を下り、車は小奇麗なイタリアンのお店の前で停まった。白い土壁が特徴の、可愛い一軒家タイプのお店だ。

「あ、ランポーネだ」

 私が前まで良くランチを食べに通っていた店だ。翔平に会うため、泣く泣くここのパスタランチを牛丼に変えた。翔平と来たことはなかったが、最近口コミで有名になってきつつある。

「知ってるんだ? オレ、実は初めてなんだけど」

 白木のテーブルに着き、メニューを繰りながら私は言った。

「美味しいよ、特にトマトソースのパスタ。ニンニクとオリーブオイルが効いててこってりしてるんだけど、全然しつこく感じないんだよね」

 私の言葉に、翔平が目を丸くした。しまった、デート中にニンニクを食べると宣言してしまうとは。

「じゃ、オレもそれ頼もうかな」

 そう言いながら、彼は嬉しそう目を細める。何人もの女を泣かせているとは思えないほどに、その笑顔は無邪気で澄んでいた。大好きな人とデートが出来て、楽しすぎて仕方ない顔。演技で作っているのだとすれば、もはやプロの領域だ。

 前菜のサラダを食べ終え、お待ちかねのパスタが運ばれてくる。銀のフォークでそれを巻き取ったところで、翔平が変な声を上げた。

「……っあ」

 呆然とした表情で私の後ろを見つめたまま固まっている。心なしか、顔色が悪い。

「ど、どうしたの?」

 振り返ると、ちょうど入店した二人組のうちの一人もこちらを見た。つるんとしたストレートのミディアムヘアに、シャーベットカラーのシンプルなファッション。どう考えても知っているその顔は、野島由佳――私自身だ。

「おー!」

 あまりの新鮮さと懐かしさに、思わず歓声を上げる。しかも連れているのはミサじゃないか。そのまま二人に混ざって語り合いたいくらいだ。

 なのに野島由佳は、私が声を上げたとたん顔をこわばらせて後ずさった。ミサが、まるで彼氏のように野島由佳の肩を抱いて睨みつけてくる。東堂クレアになってから睨まれたのは初めてだが、初対面で咆哮を上げられたら誰でもそうなるだろう。

「ごめんごめ……あ、ちょっと」

 謝る隙もなく、二人は入ってきたばかりのドアから出て行った。翔平を略奪したあげく、奇声で威嚇してきたと思ったのかもしれない。

 彼を見ると、唇を噛みながらうつむいていた。前に置かれた熱々のパスタが、いつぞやのサバの味噌煮とダブる。この場から逃げ出したいと言いたげな、絶望的な表情。

「知り合い?」

「……ああ、うん」

「もしかして、好きな人だったりして」

 茶化しながら言うと、彼は力なく笑った。

「ま、そんなところかな」

「ウソつき」

 好きな人がいるのに浮気出来たのなら、それは相手を人間として見ていない証拠だ。単に気まずかっただけのくせに、どうしてこんな思わせぶりなことを言うのだろう。

「クレアの前でこんなことを言うのは反則だな。ごめん」

「私より……あの子の方がいい?」

 落ち込んだ風を装って、上目づかいに訊いてみる。そんなことないよ、クレアの方がずっと綺麗だよ。そう答えて、もっと私を好きになればいい。

 それなのに。

「いや、二人ともじゅうぶん魅力的だよ」

 いくら頑張っても、翔平はちっとも有利に立たせてくれない。外側ばかり美しくても、中身が私だとダメなのだろうか。


 昼食後のデートは、なんだかぎこちないものになった。一緒に見た映画は前から見たくて仕方なかったはずなのに、いろんなことが気になって集中できない。ナンバーワンホストとのデートが、どうしてこうも息苦しいのだろう。

 翔平はクレアに恋をしてはくれないだろうか。それとも、こうして悩むことさえも彼の仕掛けた罠なのか。

 音楽だけが沈黙を埋める車内で、彼から目をそらすように遠景を眺める。外の世界は暮れなずんでいたが、オレンジと紺色がせめぎ合う空さえ、この車内よりは明るく思えた。

「あ、海……」

 浸食されつつあるだいだいの光の底で、水面がかすかに瞬いている。ちらちらと水平線を輝かせる、季節外れの海。でも、夏じゃなくたって海は良い。磯の香りと波の音が、不思議と心を癒してくれる。

「海、行きたい?」

 私の独り言に彼が反応した。咄嗟に言葉を返せずにいると、すぐに続ける。

「行こう」

 言うなりすぐにハンドルを切り、海への道に進路を変えた。有無を言わせないその語調に、決意めいた何かを感じる。

 行きたくない、わけじゃない。だけど好きな海で過ごすには、私たちの関係は辛すぎる。

「確か、あの近くに公園があったはずなんだ。その脇から浜に降りられる」

「海浜自然公園、だよね」

「そう。行ったことある?」

「うん、あんまり良い思い出はないけど」

「もしかして、痛い目を見たって言ってたホストがらみ?」

 言い当てられて、反射的に翔平を見た。春の海に似た穏やかな顔で、弁解するように続ける。

「いや、だってクレアを振ったりダマしたり出来るような男、そうそういるもんじゃないだろ」

 皮肉にも、彼は二つの真実を言い当てていた。確かに、クレアは男に愛されることはあっても振られるような人種ではない。そして、由佳である私と海浜自然公園に行ったのは、痛い目を見させられたこのホストだ。

「やっぱそう思うよね」

 思わずぽつりと本音を漏らす。クレアに対しては、嫉妬の気持ちなど湧きようもない。その魅力で男女問わずトリコにできる、私とは住む世界が違うお姫さまなのだから。

 だからこそ、私は今クレアだと言うことを忘れて彼の言葉に同意した。けれど、返ってきた言葉は意外だった。

「……ごめん」

「え?」

 トーンを落とした、自責するような謝罪。軽く相槌を打っただけなのに、どうして謝られたのだろう。

 海に着くまでぼんやりと考えていたが、ついにその理由は分からなかった。



【三日目:本体】


「……っもう、最悪」

 私より怒っているミサをなだめながら、美味しい香りの立ち込めるランポーネをあとにした。モッツァレラチーズとバジルのトマトパスタを諦め、近くのファミレスでランチを摂る。浮気して別れたばかりの元カレのデート現場は、なかなか強烈だった。そのネタと山盛りポテトフライだけで、軽く三時間は喋れた。

 明日は会社だというのに、ミサの部屋を出たのは夜の十時を回ってからだった。ひと気のない住宅街を歩きながら、たまに出くわす歩行者とすれ違うたびに身体がこわばる。

「やっぱ送ってもらえば良かったかも……」

 ミサはストーカーを心配して送るよと言ってくれたが、さすがにそれは申し訳ないと断った。明るいミサの部屋で話しているときは、女ストーカーの存在など半信半疑だったのもある。けれど部屋を後にし、こうして街灯だけが頼りの夜道を歩いていると、途端にその存在がリアルに感じられてくる。

「余計なことするヒマがあるなら帰って寝ろっての」

 明日は会社なんだし、と見えない敵に文句をたれる。そうだ、会社だ。ストーカーだって通り魔だって、月曜日からは会社のはずだ。だからきっと、今日の夜道は安全なはずなんだ。

 穴だらけの理論だが、気持ちは幾分落ち着いた。自分に言い聞かせるうち不安は和らぎ、段々と気が大きくなってくる。

「単純だな、私」

 すっかり肩の力が抜けたころ、ようやくアパートの前に着いた。リラックスしたまま、節電のせいで薄暗いエントランスに入る。そのときだった。

「由佳……」

 突然肩に触れられ、文字通り飛び上がる。とっさに振り向くと、そこには長い黒髪の女が立っていた。

「ギャーっ!」

「ヒイッ!」

 私が声を上げたとたん、女は顔をこわばらせて後ずさった。なんだか今日似たようなことがあった気がするが、初対面で咆哮を上げられたら誰でもそうなるだろう。

「す、すいません……暗いし突然だったから驚いちゃって」

 言い訳をしながら相手を見ると、怖いほどの美人だった。幽霊と見まがうほどに白い肌と、ハーフのようにくっきりとした目鼻立ち。泣いたのか、それとも興奮しているのか、その目は赤く血走っている。

 この人、どこかで見たことがあるような。

「あの……もしかして、今日」

「あ、覚えててくれた?」

 翔平の新カノだ。それは分かったが、なぜ待ち伏せされたんだろう。というか、どうして私のアパートがわかったんだ?

 直後、背筋が凍った。この声には聞き覚えがある。

 昨日電話をかけてきた、女ストーカーだ。

「な、なんの用ですかっ?」

 背を向けまいと対峙しながら、何か武器はないかと考える。確か、こぶしに鍵をはさんで殴ると良いとか聞いたことがあった。それにしても、ストーカーって襲ってきたりするんだっけ? 女だからレイプは出来ないだろうが、あの長い脚で蹴られたら痛そうだ。

「そんなに緊張しないでよ、全然怪しくないから。ただちょっと話したいことがあって」

 全然怪しくない、は笑うところだろうか。

「話したいこと?」

「そ。翔平のことで」

 まさか、私がまだ彼に未練があると思い込んでいるのだろうか。

「……もう別れましたし、二度とふたりの前には現れません。今日店で会ったのは偶然なんです。本当です」

「そうじゃなくって」

 真顔で私の手を掴まれた。怖い。彼女の白い肌が薄暗い照明をぼんやりと反射し、まるで本物の幽霊のように見える。

「や、やめて、離してください」

「違うってば、ほら落ち着いて。翔平のことで話したいの。あなた、まだあの人のこと好きなんでしょ?」

「とんでもないです、あなたに譲りますからっ」

 譲るもなにもすでに別れているのだが、肩まで掴んで来られパニックになった。殺されるのか犯されるのかは分からないが、とにかく逃げなければ。

「何もしないってば、落ち着いてよ。今日、復讐を――」

「ひいっ!」

 このひと、復讐する気なのか。ただ浮気されただけの元カノに?

 女の手を振り払い、ひるんだ隙に駆け出した。非常階段のドアノブに飛びつくと、吹き飛ばす勢いでドアを開ける。

「待って由佳! 翔平に――」

 女の声を振りきるように、階段を必死で駆けあがる。四階の部屋まで一度も立ち止まらず行けたのは、恐怖でリミッターが外れたからだろうか。今にも肩を掴まれ引きずり倒されそうな気がして、乱暴に鍵を穴に突っ込む。震える手で自室のドアを開け、内側からしっかりとドアチェーンまでを施錠したところで、ようやく安心してへたり込んだ。

 私は今、日本一理不尽な復讐をされたのかもしれない。


【三日目:ボトル】


 目の前に広がる海が、すっかり日の落ちた夜空を映している。砂がパンプスに入り込み、ヒールが埋まりそうになるが、それでも海は心地いい。暖かくなったらきっと一人で来よう。海の音と香りを満喫しながら、寝転がって星空を眺めたい。

「貸し切りみたいだな」

 公園と浜をつなぐ石段を降りながら、翔平が嬉しそうに言った。

「サンダルで来ればよかった」

「靴、脱いじゃえよ」

 その言葉を合図に、私はパンプスを蹴飛ばした。靴下も脱ぎ捨てると、砂が足の指の間をさりさりと侵食する。ロードスターの助手席は砂まみれになるだろうが、この快感には変え難かった。

「ガキくさっ」

 自分で脱げと言ったくせに、彼は私の足を見て笑っている。前に二人で来たときも、私は裸足になったっけ。ほのかに暑さの残る秋の砂浜で、翔平は走る私をゆっくりと追いかけた。

「だって気持ちよさそうだったから」

「ケガ、もう治ったのか?」

「けが? ああ――」

 大丈夫、と答える前に私はふわりと抱き上げられた。冷たい砂がつま先を滑り、はらはらと落ちていく。

「ちょっと、全然痛くないから」

「傷口にバイキン入るかもしれないだろ」

「大丈夫だってば」

 怪我なんて口実に過ぎないことは、二人とも分かっている。けれど、口実にすがるこのひとときが愛しすぎて切ない。

 両腕を、そっと彼の首に回した。私は復讐すらも口実にして、彼と恋人で居続けたかったのかもしれない。

「……翔平」

 憎い気持ちはウソじゃない。だけど、この気持ちだって本当だ。歯止めの効かないこの想いは、本能のままに暴走していく。

「ん?」

 彼の吐息を右耳で感じながら、私も彼の耳元でささやく。

「……好きだよ」

 暴走して奈落に落ちるなら、せめて道連れになればいい。どうせクレアは今日限りだ。私は翔平を、翔平はクレアを想ったまま、叶わぬ愛を求め続ければいい。それが、私からの制裁だ。

「……オレも、クレアが」

 これが終わったら、すぐに『私』のところに行こう。復讐の成功を、その足で私自身に報告したい。バーで記憶を本体に移し終える前に、私たちは精一杯頑張ったのだと言って抱きしめたい。

「クレアが好き――だった」

「……え?」

 思わず身体を離し、彼の目を見た。真剣なまなざしは、冗談を言う風にはとても見えない。

「今も好きだ。でも、それは女としてじゃない」

「……どうして? 遠くに行っちゃうから?」

「そうじゃないんだ」

 彼は私を静かに下ろし、言った。

「昨日クレアに訊かれたこと、ずっと考えてた」

「私……なにか悪いこと言った?」

 彼が砂浜に腰を下ろした。呆然とする私を見上げながら、優しい声音で続ける。

「いや、違うんだ。『素直に心をさらけ出すのが怖い?』って訊かれてさ。素直ってなんなんだろ、ってずっと考えてた」

 あのチャームを買ってもらったあと、そういう話をした気もする。人を喜ばせるためには心にもないことを言ってしまう彼。しかし、そのお世辞で喜ぶ人間を彼は求めていない。どうしようもない矛盾を感じるが、彼にとってもそれはジレンマなのだろう。

「翔平の中では、お世辞を言って人を喜ばせたい、ってのが素直な気持ちなんでしょ。お世辞自体は素直な気持ちとは言えないけどさ」

「ああ。きっとオレは、ウソ抜きじゃ誰も喜ばせられない人間だった」

「そんなこと……」

 ないよ、とは言いきれなかった。彼がホストクラブでやってきたことは、つまりそういうことなのだ。初対面の相手に笑顔を向け、褒め、親身になり、近しい間柄になったと錯覚させる仕事。

 それが仕事だと割り切れるのならなんの問題もない。しかし、そもそも翔平がホストクラブで働くようになったのは、相手を喜ばせたいがためにウソをついて騙す自分が嫌になったからだ。その性質やルックスからして天職だったことは間違いないが、彼の心がより一層捻じ曲げられたのも事実だろう。

「クレアも、そんなだから分かるだろ。顔が綺麗だからってロクなことはない。ほどほどにウケる程度でいいんだよ。くだらない決めつけとか、見てくれの良い人形扱いだとか、そんなことするやつらを引き寄せるだけだ」

 クレアをボトルキープした初日のことを思い出す。コーヒーショップで話しかけてきた女の子の二人組は、私が戸惑っているあいだに握手と写真撮影を手際よくこなしていた。悪気がないことは分かっていたが、それでも困惑したし、私の意志などまるで無視しているように感じたのも事実だ。あんなことが生まれたときから二十年以上も続けば、うんざりするのは間違いない。

「素直になるってことを学ぶ前に、翔平はそういう人たちの期待に答えることを覚えちゃったんだね」

「それとも、単にオレが不器用すぎただけかも知れない」

「どっちにしても、もう素直に生きちゃえば良いんだよ。本音を言っても変わらず付き合ってくれる人とだけ楽しくやればいいじゃない」

「……クレアには、それが出来るのか?」

 彼の隣に腰を下ろす。ゆっくり息を吸い込むと、ひと足先に夏の匂いを感じた。

「出来るよ。今私に話したこと、ほかの人にも言えばいいじゃない。お世辞を言うのがクセでもさ、穿った見方をせずに、喜ばせようとしたことに喜んでくれる人はいるよ」

「拒絶されたらどうする?」

「そりゃ辛いし悲しいけどさ。自分のカラの中にいたって、拒絶もされない代わりに誰も来られないんだよ。ひとりが嫌だから人を喜ばせて繋がりを持ちたくなるんでしょ?」

 波が砂浜をゆっくりと撫で上げては、名残惜しげに引いていく。どこか寂しさを含んだ彼の声は、波の音を思わせた。

「うん……」

「カラから出てこない人に対して、カラを脱ごうなんて人は奇特だよ。リスクなしに良いものを手に入れたい、なんて都合が良すぎるじゃない」

 ふっ、と彼が笑った。うつむきがちな顔に、しなやかな前髪がさらさらとかかる。

「クレアは、その奇特な人ってやつだな」

「かもね」

 翔平が、ようやく笑顔を取り戻して言った。

「君とすごく似てるひとを知ってるんだ」

 とくん、と心臓がはねる。もしかして、という思いが訳もなく頬を染めた。

「今日、お店で会ったあの人。オレの元カノなんだ。思えば、あいつの前でだけはオレの悪癖は出なかったな」

「悪癖?」

「心にもないお世辞は言わなかった、ってことさ。そのせいで、ちっとも褒めない冷たい男って思われてたかもしれないが」

 そうだ。クレアのことは褒めるくせに、私のことは……。

「でも……別れたんでしょ?」

 声が、少しだけ震える。あくまでも軽く話していたいのに。

「ああ」

「どうして」

 横顔を見ると、彼はきつく口を結んでいた。せめて正直であってほしい、と私は願う。そうすれば、私は少しだけ許してもいいと思えるかもしれない。

「別れるつもりじゃなかったんだ。ただ、タイミングが悪くて」

「タイミング……」

「そう。あと三カ月だけバレなければ上手く行ってたのに」

 微かな期待が、失望と怒りに変わった。まだこの人はそんなことを言うのか。運悪く浮気が見つかっただけとしか思っていなかったとは。

 かろうじて、彼を殴りたい気持ちを押さえこんだ。だけど、声ばかりはそうはいかなかい。

「バレたら困ることをしていたのは誰よ」

「え?」

 隠しきれず、声に怒りが混じった。翔平はもちろん理由が分からず、困惑気味に私を見る。

「なんか誤解してないか」

「どこが誤解? 運悪く浮気が見つかったってこと?」

 じんわりと涙がにじみ、さざ波のように押し寄せる。彼は心外そうに眉をひそめ、私の背中にそっと手を添えた。

「あのさ、ホストは浮気して当たり前みたいに思ってるだろ」

「……違う。でも」

 私は、あれを由佳の目で見た。そう言っても、絶対に信じてはもらえないだろう。とことん問い詰めたいのに、クレアでいることがもどかしい。

 交わらない視線と想いの中、沈黙を破るように投げやりな声がした。

「良いよ別に。実際浮気はしたんだし」

 巨大な闇となった海面を見つめながら、彼がため息をつく。

「やっぱり……」

「だいたいホストなんてさ、当然浮気するに決まってんじゃん。だろ? 毎日酒飲んで女の相手して、それで一途でいてくれるとか信じるやつがどこにいるんだよ」

 吐き捨てるような言葉に、ついに一粒涙が落ちた。

 それでも私は信じたかったのだ。先入観を捨てて全てを受け入れれば、彼も素直な心で向き合ってくれるのだと。

 それなのに。

 どうして、そうも簡単に人の心を踏みにじれるのだろう。自分を信頼した相手を袖に出来るのだろう。

 どうして……。

「――でも、いたんだ」

「え……?」

「いたんだよ。ホストで浮気の前科もあるオレを、信じてくれるやつ」

 彼が、わずかだけ顔を上げた。真っ暗に見えた夜空も、目を凝らせば小さな星が無数に瞬いているのが分かる。

「……その人、もしかしてさっきの」

「仕事とはいえ毎晩いろんな女と会ってさ、酒くさくなって帰って来てさ。休みが合わなくてデートすらなかなかできないのに、メシ作ったり洗濯したり……。それなのに、オレは当たり前だと思ってたんだ。オレはモテるから、尽くされても当たり前だって」

 彼の口からこんなことを聞くことになるとは思わなかった。

 家政婦のように尽くしていたあの日々のことを思い出す。やってもらって当たり前、というのは、当時からうすうす気が付いていたのかもしれない。ただあのときは、尽くすことが幸せだった。彼が私のご飯を食べたり洗濯した服を着たりするたび、役に立てていると実感した。たまに貰える「ありがとう」の言葉で、私の全ては報われたのだ。

「だからさ、浮気を見られたときも最悪一発殴られるくらいだと思ってた。でも言われたんだ。これからはオレを偏見を持たずに見るって。今まではホストだから浮気して当たり前だとか思ってたけど、これからは思わないって……。そのとき気が付いたんだよ。いつの間にかオレは、くだらない決めつけとか、オレを見てくれの良い人形扱いするような人間と同じになってたんだ。軽蔑してた大嫌いな人種と、オレは完全に同類だった」

 それに気づいたとき、どれほどのショックを受けたのだろう。だが、事実から目を逸らすことなく受け止めた彼は強い。そして、私の一言が彼に影響を与えたのが、照れくさいながらも嬉しかった。

「オレは生まれ変わりたかった。由佳みたいな真っ当な人間になりたかった。だから家事もなるべく自分でするようにしたし、あんな仕事も辞めることにした。このまま続けてたら、オレはどんどん歪み続けるだろうから」

「辞めるって……ホストクラブを?」

 初耳だった。今まで一度もそういう話は聞いたことがなかったし、それらしい素振りすらなかった。

「ああ。でも、再就職なんて今のオレじゃ無理だろ。だから勉強をして、資格を取って、ちゃんとした会社に就職してやろうと思った」

 この姿で彼と出会った日のことが蘇った。私がさして意味もなく言った『資格』という言葉を妙に気にしていたことも、今なら納得がいく。

「今日待ち合わせのときに読んでた本って、もしかして」

「そ、環境計量士の参考書。卒業した高校が工業系だから、ちょっとは向いてるんじゃないかと思って。勉強時間を増やすために、最近はホストクラブの休みも増やしたんだ」

「すごいけど、独学って大変じゃない?」

「いや、最初は家庭教師付けてたよ。クレアも知ってるやつ」

 彼が意味ありげに笑った。出会って三日ほどしかたっていないのに、彼とクレアとが共通して知っている人なんていただろうか。

「誰? ……元カノさん?」

 いやいや私は文学部卒だし、と心の中で突っ込みを入れる。

「違う違う。アユミって覚えてる? ほら、垂れ目の」

 アユミ。そんな知り合いはいないが、垂れ目の女の子なら一人思い当たる。

「警察署の前で、あなたが見捨てた子?」

「見捨てた、は言いすぎだろ」

 軽く笑い声を立てる翔平を、私は横目で睨んだ。

「だってその通りじゃない」

「なんで教え子が先生の送り迎えをしなきゃいけないんだよ。授業料はちゃんと払ってるのにさ」

「だったら最初から来なければ良かったでしょ。来ておいてその場で見捨てるなんて」

「あれは、ちょっとした仕返しかな。あいつとは高校時代にバイト先で知り合ったんだけど、有名大出てるし環境計量士の資格も持ってたから、家庭教師にうってつけだったんだ。けど、段々勘違いし始めたんだよな。彼女ヅラっつーか」

 あのとき聞いた、アユミさんの「私は翔平の彼女だ」という言葉。あれは、彼を手に入れるためのウソだったということか。

「翔平のこと、好きになっちゃったんだね」

「好きでもいいんだよ、別に。けど、あいつと参考書買いに行ったその日に元カノに浮気したとか言われてさ、結局別れちまって。今思えば、あいつが妙なこと吹き込んだんだろうな。ほら、おまえとアユミが会ったときも、妙にケンカ腰だっただろ。あんなふうに、オレの周りの女に手当たり次第噛み付きまくってたみたいだ。アフターしたクラブの客からも苦情が来たし」

「そんな……」

 私はウソに踊らされていただけだった。心のどこかで、また彼は浮気するかもしれないと疑っていたのかもしれない。そうでなければ、彼の言い分も聞かずアユミさんの言葉だけを信じるなんてことはしないはずだ。

 彼を心の底から信じ切れていなかった私に、彼を責めることなどできない。それどころか、愛想をつかされても文句は言えないだろう。

「実は、二ヶ月後が試験なんだ。で、その一ヶ月後が合格発表なんだけど」

 誤解されあらぬ疑いをかけられたと言うのに、話す横顔はどこか清々しい。

「もし資格試験に合格したら、あいつに一番に知らせようと思うんだ」

「元カノさん? ……どうして」

 私は翔平を信頼しきれていなかった。この破局は全て、そんな私の心の弱さのせいだ。彼だってそれを分かっているはずなのに。

「そうだよな。こんな話、クレアにするのはおかしいよな」

 どうして、の言葉の意味を、彼は取り違えたようだった。少し申し訳なさそうに、私の方に向き直る。

「でも不思議なんだ。クレアといると、由佳がそこにいるような気になるんだよ。ランポーネのトマトパスタが好きだったり、海が好きだったり、クローバーが好きだったり……裸足で走るところとかもな」

 彼の口元から白い歯がのぞいた。私が今でも大好きな、少年に似た無邪気な笑顔。

「だから、始めはクレアを愛そうと思った。でもそんなのは違う。元カノが好きだから、でも別れちまったからって、それを似てるだけの人で補うなんて、相手に失礼だ。だからいくら似てたって、やっぱりクレアの想いには応えられない」

「……うん……」

「ごめんな。だけど人間としては大好きだし、大切なことを教えて貰った。感謝してる」

 真っ直ぐに私を見つめる彼に背を向け、立ち上がった。このまま涙をこらえ続けられる自信がない。

「最後に一つだけお願いしてもいい?」

 出来るだけ明るい声を作る。そろそろお別れの時間だ。

「何だ?」

「タクシーを呼んで。……あなたと同じ車で帰るのは辛いから」

 あの時と同じように、彼はスマートフォンを取り出す。今度は、私がタクシーで彼のもとを去る番だ。

 私の人生に、もうクレアは必要ない。



【エピローグ】


「なーんか丸く収まったみたいね。良かったわぁ」

 カウンターの中でバーテンダーが頷いた。端正な顔に笑い皺を寄せて、グラスを磨いている。

「……結局、ただの痴話げんかだ」

 正面に座っている幼女が、冷めた口調で言った。右手に昔ながらの消しゴム付き鉛筆を持ち、本を目の前に広げている。どうやらナンプレをやっているようだ。

「痴話げんかで済んで良かったじゃない。あたし、ハッピーエンドは大好きよ」

「下らない」

 ツインテールの少女は視線すら上げずに切り捨てた。

「マスターってばノリ悪~い」

「言ってろ」

「カリカリしてるとお肌に悪いわよ?」

「黙れ」

「あら、言えと言ったり黙れと言ったり忙しいわねぇ」

 少女が無言で眉間にしわを寄せる。たった八歳の表情としてはひどく不釣り合いだ。

「でも、こんな仕事してるといろんな人に会うじゃない?」

 磨き終えたグラスをしまい、バーテンダーはカウンターにもたれかかった。

「あたし、毎回怖いの。とんでもないことになっちゃったらどうしようって。バッドエンドになっちゃったら、やっぱり責任感じちゃうじゃない?」

「私たちの責任じゃない」

「わかってるわよ、それはさぁ。けど、例えば……由佳さんがどうしようもなく傷つくようなことになってたら、あたし耐えられなかったかも」

「……あの女が気に入ったか?」

「バカ、あたしは博明一筋なの」

 バーテンが腰に手を当て、厚い胸板をぐっと張る。幼女は視線を上げ、その様子を呆れたように見やった。

「……そう言えば、下らない後日談を聞いたな。お前が喜びそうな話だ」

「えっ、なになに?」

 バーテンダーが身を乗り出すと、幼女はペンを置いた。

「あのホストが三カ月後に込めた意味は知っているか?」

「そりゃあの、何とかっていう資格の合格発表でしょ~?」

「それもあるが」

 少女はわきに置いてあったグラスを手に取った。オレンジジュースを飲むでもなく、水面を見ながら言葉を継ぐ。

「二人の、付き合いを始めた記念日らしい。最後の最後、クレアにそう言ったそうだ。あの男、クローバーのチャームに添えて合格通知をプレゼントにするんだと意気込んでいた」

「やぁ~だぁ~! ロマッチックー!」

 筋肉質な身体で身悶えながら、バーテンが頬を染める。

「……なんておぞましさだ……」

「あれ? 何か言ったぁ?」

「……いや、胸の調子が悪くなった」

「スズちゃんてば病弱なんだからー」

「スズちゃんと呼ぶな!」

 スズと呼ばれた少女が、そっぽを向いてジュースをあおる。楽しそうにバーテンは笑い、自分の前にもグラスを置いた。

「さぁーて。次のお客さんが来るまで、玄米茶でも飲んじゃおっかなー」

「そこは酒じゃないのか」

「あたしお酒だめなのよぉー」

 他愛のない会話が、客のいない店内に花咲く。照明は適度に落とされて、温かみのある雰囲気を作っていた。マスターもバーテンも、客入りの悪さを嘆く様子はない。言葉にせずとも、今回の出来事を二人して祝福しているかのようだった。

 毎夜ひっそりと開かれるバーは、次の客を待っている。



【第一話 了】



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