洋子さんと僕
梓と美鈴の母が経営するというスナック「ポル・ファボール」は、わりと近くにあった。
やや狭い店内には、カウンター席と、ボックス席が2つあるだけだった。
経営者とおぼしき女性を見て驚いた。雑誌に載っていた美鈴そっくりだ。もちろん化粧はしているが、ピンと張り詰めたような雰囲気まで似ている。
「いらっしゃいませ……あれ、梓、遅かったじゃないの」
名前は鳴神洋子というそうだ。洋子さんは営業用スマイルを引っ込め、僕と葵さんに遠慮のない視線を向けた。
「途中でちょっとトラブルがあって……この人たちが助けてくれたの」
洋子さんは肩をすくめ、大して感謝するようすでもなく、
「それはどうも。娘がお世話に」
梓は僕らにささやくように、
「ごめんなさい。私の友達には警戒心が強くて」
片親だけの子育ての苦労が、ある種の他人との壁を造ってしまったのかもしれない。そんな感じだった。
あまり歓迎されているという雰囲気ではなかったが、せっかくだから、ということで、僕と葵さんはカウンター席に座った。
しばらくすると梓が、エプロンをして手伝いに出てきた。
僕はほとんど梓と話していたが、葵さんは洋子さんにしきりに話しかけていた。洋子さんのほうは、いちおう客だから無視するわけにもいかない、という程度の反応しかしていなかったが。
話をするうちに分かったのだが、梓は、美鈴の2歳年下の16歳。高校卒業後は、大学で心理学をやりたいという。
「へー、僕も心理学専攻だったよ」
「N大学ですか?」
「そうだよ。臨床心理士になりたいんだってね」
「はい。でも、大学院まで行かないとダメですよね? それは母にはちょっと言いづらくて」
「いまは公認心理師っていう資格もあるから……」
突然、カウンターの端から罵声が聞こえてきた。
「いい加減にしろよ、てめー!」
葵さんだった。あちゃー、始まったか……
イヤな予感はしていたのだ。
葵さんは普段は癒やし系の温厚な女性だが、酔うとケンカっ早くなる。
相手は……案の定、洋子さんだった。
洋子さんのほうは、ひるむでもなく、超然と葵さんを見返している。
「もう1回言ってみろよ。チェスのどこがくだらねえって? いいかい、チェスってのは平和の象徴なんだよ。世界中で7億人の競技人口があるんだ。国籍も人種も、政治的信条も越えて、みんながわかりあえるためのゲームなんだ」
葵さんがまくしたてると、洋子さんも負けじとやり返す。
「それは、趣味として楽しむ場合でしょう? プロの厳しさを知らない人に何がわかるの?」
「あんたこそ、何がわかるっていうんだよ。チェスは人生を狂わせる魔のゲームだって? チェスを馬鹿にするやつは、あたしが許さんぞ!」
「ご不満がおありでしたら構いません。どうぞお帰りを」
「いいや、あたしはここを動かん! へっ、シングルマザーだから何だってんだよ。あたしだってそうさ!」
どうやら、チェスのことになるとムキになるのは、お互いさまらしい。
梓は、どうしていいのか分からない様子で、うろたえていたが、僕は、案外気の合う2人なのかもしれないと思った。葵さんは、本当に合わない相手とは、ケンカすらしないからだ。
しかし、今日のところは、もう引き揚げたほうがよさそうだ。
「はいはい、葵さん、帰るよ-」
「な、なに言ってんの。まだ決着が……」
僕はやや強引に、葵さんの腕をつかんで立たせた。洋子さんの顔に、安堵とも寂しさともつかない、微妙な色が浮かんだようにも見えた。
「いいか、今度チェスで勝負するぞ! 覚えとけよーっ!」
僕らは、「ポル・ファボール」を後にした。