梓と僕(1)
若い女の声だった。なんだろう? 痴漢か?
僕は立ち止まった。
すると、近くの路地から、高校生とおぼしき女の子が飛び出してきた。
「す、すいません! 助けてください!」
警察に通報かな……僕はとっさに電話を取り出していた。
路地のほうから、男の靴音が聞こえてきた。追われているのだろうか。
酔っ払いにからまれているよりも、事態は深刻なようだ。
やがて、女の子の後を追って、50歳くらいの小柄な男が現れた。
ケンカになってしまうだろうか、と思う。どうやら、この男一人のようだから、女の子を無事に逃がすくらいのことは可能だろう。
男が突然、なにやら喚きだした。日本語ではなく、英語でもなかった。僕は一瞬ひるんだが、電話を男に向けた。僕としては、手荒なことをすると警察を呼ぶぞ、という威嚇のつもりだったが、通じたかどうかはわからなかった。
「おい! 早く逃げて!」
僕は女の子に呼びかけた。
すると、今度は女の子が男に向かって、罵声を浴びせた。
やはり僕にはわからない言語だった。
一体どういうことなんだろう。
男は、まずいと思ったのか、踵を返して、夜の街の中へと走り去っていった。
僕は、警察に通報しようと、スマホをタップした。すると女の子が、
「あ、ごめんなさい、警察は呼ばないでください!」
「え?」
警察は呼ばないでくれって……何かまずいことでもあるのか?
「面倒なことになるので。事情はあとでお話しします」
思いのほか、丁寧な口調で、真面目さが感じられた。
こんな時間に街中でトラブルに巻き込まれたようだが、非行少女というわけではなさそうだった。
「じゃあ君の家に連絡しよう」
僕がそう言うと、女の子は困ったように、
「家はちょっと……遠いので」
なんだか、よくわからない。
雨の中を走り回ったのだろう、長い髪が濡れて、ぽたぽたと滴が落ちていた。制服もずぶ濡れだ。
このまま、帰すわけにはいかないかな。
でも、そうは言っても……
女の子は、急に思い出したように、ぺこりとお辞儀をすると、
「助けてくださって、ありがとうございました。私、鳴神っていいます」
へ?
ナルガミだって……?