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美鈴と僕(2)

 ささくれ立った心のまま、僕は夕暮れの街を歩いていた。

「井上さん!」

 僕を呼ぶ声がする。梓が追いついてきたようだ。

 少しだけ頭の冷えた僕は、立ち止まった。

 梓が息を切らせて、僕の横に立った。

 涙ぐんでいた。

「……ごめんなさい」

「謝ることはないよ」

 冷たい声音にならないよう、気を遣った。

「お姉ちゃん、本当はああいう子じゃないんです。きっと、チェスでいやなことがあって、それで……」

「……わかってるよ」

「今の居所を教えてくれました。ビジネスホテルに泊まっているらしいです」

「そうか」

「井上さん」

「なんだい?」

「お姉ちゃんを叱ってくれて、ありがとうございました」

「……」

「なんていうか、その……目が覚めたと思います」

「え?」

 どういうことだろう。

「お姉ちゃん、お父さんに叱られたことがほとんど無いんです。チェスで負けたとき以外は」

「……」

 それもまた、悲しいもんだな……


「あの馬鹿娘が。チェスをやめるだと? 骨休めなど、させるのではなかったか」

 木下は、せわしなく歩き回りながら、僕らのしらけた視線にも気づかない様子だった。

「世界チャンピオンを狙えるのは、20代前半までだ。今、命がけで精進しなければ、何もかも水の泡だ」

 口を開いたのは、洋子さんだった。

「あいかわらずね、礼治さん」

「なんだと?」

「木下名人、とお呼びしたほうがいいかしら。プライドの塊みたいな方だものね」

 木下は立ち止まると、

「凡人になにがわかる」

 僕は、美鈴が言ったありのままの言葉を、洋子さんと木下に伝えた。その結果がこれだ。葵さんが怒り出すかと思ったが、彼女はさっきから頬杖をついて、つまらなそうにしていた。やはりいるのだ、葵さんがケンカすらしない人間というのは。

「あなただって凡人じゃないの。美鈴の才能を自分のことみたいに考えて、ふんぞり返っているだけだわ」

「黙れ。お前のような母親が、子をダメにするんだ」

「あなたは、我が子を見る目さえ、チェスの才能があるかどうか、それだけ。美鈴は、このままでは絶対に幸せになれないわ」

 やれやれ。犬も食わないどころではない。まるで責任のなすりつけ合いだ。

「あー、はいはい、お2人ともそれぐらいにしときましょう」

 割って入ったのは、さっきからカウンターでグラスを磨いていたマスター尾崎だった。

「とにかく今は、美鈴ちゃんの体と心のことを考えるべきでは? 明日、葵と梓ちゃんが、美鈴ちゃんの泊まってるホテルに行きますから。もしかしたら、体調くずしてるかもしれないわけだし」

 尾崎の言葉が終わらないうちに、木下は出て行ってしまった。


 翌日は土曜日だった。葵さんと梓が、美鈴の様子を見に行って、帰ってきた。

 2人は、僕の部屋に立ち寄った。

「謝ってたよ。立ち会い人さんに申し訳ないことしたって。あんたのことでしょ、井上くん? ガツンと言ってやったようだね」

 僕はなんとなく、くすぐったいような気分を味わった。

 案外、素直な女の子なのかもしれない。

「それとさあ……」

 葵さんはそう言って、梓と顔を見合わせる。

「これ、言っちゃっていいかな?」

「別に構わないと思います」

 なんだ?

「なんでダブルの部屋とってるのか、変だなとは思ったんだけど」

 え?

「彼氏がいるんだよ。付き合い始めてもう2年になるって。チェスの世界王者の、ラルフ・ガーラントさん」

「……」

「ちょうど部屋にいたから、握手してきたよ。大きくてごつい手だったなー」

「……」

「彼は23歳だって。ちょうどいい、お似合いの相手かもね」

「……」


 なにを落ち込んでいるのだ、僕は?


 クイーンには、すでにふさわしいナイトが側にいた、というわけだ。


 

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