美鈴と僕(1)
美鈴は、父の木下礼治とともに、日本に来ていた。
チェスのトッププレイヤーの生活というのは、試合、移動、準備……それが終わればまた試合、移動、準備……そのくり返しだそうだ。
自分の時間など、ほとんど無いといっていい。まだ18歳の美鈴にとっては、過酷すぎるところもあったのだろう。せめて少しでも骨休めにと、木下は彼女を日本に連れて来た。今夜はホテルに泊まり、1週間ほど滞在し、ディズニーランドにでも連れて行く予定だったそうだ。
しかし、美鈴はホテルから姿を消した。
「私のところに来ている可能性もあると思ったようです。あの子に限ってそんなことはないと思うんですが」
心配ではあったが、とりあえず僕らに出来ることは何もなかった。
「何か力になれることがあったら」
と、僕らは連絡先を教えて、帰宅することになった。
それから1週間ほど経った。
洋子さんからは、美鈴に関しては何も言ってきてはいなかった。
いまだに見つかっていないのだろうか。
まさか、事件に巻き込まれたとか……
僕は、あれから美鈴のSNSを調べてみたが、現在の居所に関する情報は得られなかった。洋子さんによれば、クレジットカードを持っているので、お金に困ることはないだろう、とのことだった。
そして、その日の退社時間近くに、僕の携帯が鳴った。
梓からだ。そういえばあの時、番号を教えあったんだっけ。
「もしもし」
「あの……井上さん?」
「そうだよ。どうしたの?」
「姉が、私に連絡してきたんです」
僕は思わず立ち上がっていた。
「それで、姉さん、どこにいるんだい?」
「それが……教えてくれないんです」
「そうか、でも無事なんだね?」
「はい」
よかった……
「これから、会う約束なんです」
梓が言った。
「良ければ、一緒に来ていただけないでしょうか」
「え? 僕が?」
「なんか、立会人が必要だとか……ごめんなさい、なに考えてるのか、よくわからない姉なもんですから」
立会人? いったい何だというんだろう。
待ち合わせ場所のファミレスに入ると、梓が僕を見つけて、立ち上がって頭を下げた。
向かいの席に座っているのが美鈴だろう。僕のほうを見もしなかった。
なるほど、顔立ちはよく似ている。雰囲気はぜんぜん違っていたが。
ガラにもなく緊張している自分に気づいた。
僕は、2人の脇の席に座った。
美鈴はショートヘアを揺らして僕のほうを向くと、
「この人が立会人? なんか、頼りなさそう」
「お姉ちゃん!」
梓がとがめても、気にもとめていない様子だった。
はっきり言ってムカついた。
「まあいいや、なにか食べよ。あたし、ペペロンチーノと生ビールね」
「生ビールはやめとくんだな。未成年」
僕は言った。美鈴は口を尖らせ、にらみつけてきた。
チェス・エイリアンとまで呼ばれたスーパープレイヤーだが、所詮はただの生意気な小娘だ。
梓はオレンジジュース、僕はコーヒーを注文した。生ビールは当然、却下である。
「お姉ちゃん、話ってなに? どうして突然いなくなったりしたの?」
「はいはい、質問は一度に1つずつね」
美鈴は、なにか食べようと自分から言ったわりには、たいして食欲もなさそうにペペロンチーノを口に運びながら、
「あの2人に、伝えてほしいの」
「お父さんと、お母さんのこと?」
「そうに決まってるじゃない。いい? よく聴いててね、立会人さんも」
なんか、馬鹿らしくなってきた。
「あたし、チェスをやめることにしたの。あの人たちとも、もう関係ない」
「えっ……?」
「伝えることは、それだけ。梓、あんたともこれっきりね」
「そんな……お姉ちゃん!」
「わかった? 立会人さんも」
そのとき、僕は黙っていればよかったのかもしれない。
「……にしろ」
コーヒーをすすりながら言った。
「え?」
「勝手にしろ、と言ったんだよ」
怒りと、失望が、僕を満たしていた。
「僕はもう帰る。なるほどな、トップがこんなやつじゃ、日本はやっぱりチェス後進国だな」
梓は、明らかにうろたえていた。美鈴は、無言だった。言わずともよいセリフだったが、僕だって人間なのだ。
「僕も、チェスをやっている。君から見たら子供の遊びだろうがね。チェスの頂点を極めるには、ここまで人間として大切なものを捨てなきゃならないのかい。そう思ったら涙が出て来たよ」
僕は席を立ち、テーブルに1万円札を叩きつけた。
「君の言葉は、ご両親にそのまま伝える。立ち会い人としての役目は果たすつもりだ。それじゃ」
僕は上着をはおり、振り返りもせず店を出た。




