リピート
1994年発行の同人誌「迷夢」VOL.2に掲載したものに加筆修正しました。
結末をかなり変更しています。当時の作品を知っている方にも、全く知らない方にも、日常に入り込んだ違和感を楽しんでもらえたら幸いです。
朝起きて朝食を済ませ、素早く化粧をしてスーツに着替え、家を出る。駅に着くと、この間までとは反対方向のホームで電車を待つ。日常は細かなルーティンのくりかえし。今日からは新しいルーティンのはじまりだ。先日まではリュックを背負って、向かい側のホームにいた。やってくる電車に乗って大学へ通っていたのが、今日からは反対方向の電車に乗って就職先の会社へ向かう。もちろん時間も今までとは違ってずっと早く、ホームは通勤通学の人々で溢れていた。周りにいる見知らぬ人たちが、そのうちにいつも見慣れた顔ぶれになるのだろう。きっと仕事にもすぐに慣れることができるはず。初出勤の朝、喜美子は不安と緊張の中にいた。
就業時間終了までは瞬くような早さだった。暮れていく空を背に駅へ向かう。肩が重くて痛い。すべての疲れが肩にきたのか、頭まで痛くなるほどのひどい肩こりだった。とにかく電車では座りたい。幸いにも会社の最寄駅は始発駅の隣の駅なのでチャンスはある。
ホームに到着した電車の扉が開いてすぐに喜美子は乗り込み、幸運にも席にありつくことができた。安堵して周りを見回すと、すでに席はすべて埋まっていて、立っている人もいる。しばらく電車に揺られて目を閉じた。今は鞄の中から文庫本を取り出す気持ちにはなれなかった。急行への乗り換え駅に着くと大勢が下車した。同じ駅から乗って隣に座っていた人も降りていった。かわりに乗ってきた人はわずかだった。車内は急にがらんとして、七人掛けの座席には三人ほどしか座っていない。喜美子の乗る電車は急行電車のあとに発車した。
座席にゆったり座れるようになったこともあり、鞄から文庫本を取り出して読むことにした。疲れているせいか思うように小説の世界に入り込めない。それでもページは開いたままにした。手持ち無沙汰になるのが嫌で、文章をただ目で追っていた。
ふと奇妙な声に気づき、喜美子は顔を上げた。前の車両からこの車両へと移動してきた男が、喜美子の座る方へ向かってきていた。また次の車両へ移動しようとしているのだろうか。三十歳くらいに見えるその男は、歩きながら奇妙な抑揚で同じようなフレーズを繰り返しているようだった。何を言っているのかは聞き取れない。ただ同じフレーズだということだけはわかった。奇妙なリズム感のある言葉。男が無理やり抑揚をつけているようにも感じられた。
その車両の中で、男はあきらかに異質な存在だった。車両にいる人々の視線は、一度は彼に向けられ、すぐにそらされる。関わりたくない。そんな意思表示に見えた。それは喜美子も同じだった。すぐに視線を文庫本のページに戻し、文章を目で追うものの男の動きが気になって、内容は何一つ頭に入らなかった。
奇妙なフレーズを唱えながら男がこちらに向かってくる。喜美子はページから目は離さないで、神経を研ぎ澄ませて男の動きを感じ取ろうとした。男はよろけながら通路を歩いてきて、喜美子の向かいの席に座った。周りのことなどお構いなしに、窓を開けた。風が舞い込む。男はしばらく窓から顔を出していたが、すぐにやめて席を立ち、喜美子の隣に座った。喜美子は顔が引き攣るのを感じた。どちらかと言えば、いや、むしろ近づきたくない種類の人に隣に座られたら当然のことだ。喜美子は男のことなど気にしていないふうに、文庫本の文章を目で追っていた。なるべく男から離れようと、腕や膝を内側に寄せて体を固くした。いつのまにか額に汗がにじんでいた。早く席を立ってほしいと心の中でずっと念じていた。自分が席を離れてしまえばいいと思うのに、タイミングを逃してそれもできなくなってしまっていた。
男はずっと同じフレーズを繰り返し唱えている。ただそれだけだ。でも不安。あきらかに周囲とは違う異質な存在が隣にいるというそれだけで、たまらなく不安になるのだ。
次の駅に着いた時、男は急に立ち上がり、あわただしく電車を降りていった。
急に体じゅうの力が抜けた。強ばっていた筋肉がゆるむのがわかるほど。ホッとしたと思ったらもう次は自分が降りる駅になっていた。
翌朝、喜美子は少し寝坊してしまい、あわてて身支度をしなければならなかった。学生時代のように遅刻して授業に出ればいいというような感覚ではいられないのだ。昨日は初出勤ということもあって、余裕を持って早めの電車に乗ることができた。今日はそれより一本遅い電車に乗ることになりそうだ。それを逃すと遅刻する。なんとか発車ギリギリに間に合って電車に乗ることができた。まだこの駅ではひとつふたつ座席に空席がある。喜美子は周りに座ろうとしている人がいないことを確認して、そっと席に腰掛け、目を閉じた。昨夜は緊張からかあまり眠れなかった。体は疲れているはずなのに、気持ちが落ち着かなくて寝付けなかったのだ。電車の心地よい揺れに眠ってしまいそうになる。熟睡しないよう駅に着くたび、耳をすませて駅名を確認することにした。喜美子が降りるべき駅まであと三駅。目を閉じていても多くの人が押し寄せるように乗車してくるのがわかる。目を開けてみると車内はとても混み合っていて、あの混雑の最中から自分は少し離れて座っていられることをつくづく幸運だと思った。その代わり降りる時が大変だ。人を掻き分けてドアまで辿り着けるだろうか。不安になったので早めに席を立ってドア付近まで移動しておこうと思った。立ち上がって、すみませんと言いながら足を一歩踏み出したその時だった。すぐ近くであの声がした。昨夕の電車にいたあの男の、変な抑揚で同じフレーズを繰り返す声。驚いて周りを見回すと、間に三人くらい挟んであの男がいた。まっすぐ前を見ているがどこを見ているかわからない空虚な視線。よく見ると特定の言葉の時に不思議な手の動きをしていることに気づいた。男は両手を頬の位置で左右にぶらぶらさせ、同時に首も左右に振っていた。
男には障害があるのかもしれない。そんなふうに喜美子は思いはじめていた。普通の人は電車の中でひとりごとを大きな声で言ったりしない。電車をはじめとした公共交通機関では静かにしているものだ。目立たないように、他人との関わりはなるべく持ちたくない。多くの人がそうであるなか、あの男はあきらかに異質だった。周りの人々はそんな男に一瞬視線をやるものの、無関心だった。いつものことと慣れているのか、あるいは関わりたくないからか。
次からはこの時刻の電車を避けよう。昨日の朝は会わなかったのだから。乗る車両も変えよう。日常の一部になんてしたくない。ずっとあの男と同じ電車で通うなんてまっぴらだ。人を差別してはいけないと思うが、どうしても嫌悪感をもよおす人というのはいるものだ。いちいち嫌悪感を示す必要もなければ、嫌悪感を持たないようにする必要もない。生理的なものならば仕方ないと思う。喜美子は自分を正当化しようと心の中で懸命に言い訳を繰り返していた。
人の間を縫って少しずつドア付近まで進み、降りるべき駅のホームに降り立った。喜美子は思わずため息をもらした。たった三駅がひどく長い時間に感じられて、思いのほか疲れてしまった。皆が足早に改札口へ向かって歩いていく。一息ついてから喜美子もその波に乗って改札口を通り過ぎた。
こうも偶然は続くものだろうか。仕事を終えて昨日よりも遅い電車に乗ったのに、またあの男が途中の駅で乗ってきたのだ。それもわざわざ喜美子のいる車両に。
はじめはそれでも気に留めないように文庫本をめくってみたりして、男を見ないようにしていた。しかし、毎朝、毎夕、男は喜美子の乗る電車のそれも同じ車両に乗ってきた。
さすがに喜美子も怖くなり、朝に乗る電車の時刻を早めたり、帰りに寄り道をしてわざと遅い電車に乗るようにしてみたりした。それでも変わりなかった。その男の存在が自分にしか見えていないのかもしれないと疑ったりもした。男が現れたとたん、他の乗客の視線が一瞬そちらへ動くことから、幻ではないことは確かだった。むしろ幻であってほしかった。どうして自分の乗る電車がわかるのだろう。跡をつけられているのではないかと、道を歩くときは何度も振り返るようになった。駅のホームでは自分を見ている人がいないか、始終あたりを見回した。しかしそれらしき人物を見かけることはなかった。いつも突然、姿をあらわす。どうしても偶然とは思えなかった。電車に乗るのが嫌になってきていたが、それ以外の手段で会社に通うことはできない。本当は家に閉じこもっておきたかったが、そんなことできるはずがない。通勤のほんのわずかな時間だからと我慢するしかなかった。
半月が過ぎて、その男の存在が日常のものになり、気味が悪いと感じるものの以前ほど気にならなくなった。男はひとりごとを大きな声で繰り返しているだけで、危害を加えるわけではない。
恐怖感が薄れたせいか、その男の歌のようなひとりごとが何を言っているのか気になってきた。
男は壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。寸分違わぬリズムと旋律で。
「キ~チャンガネ~、※※※※※※※※ッテネ~※※※※※※、※※※! ※※※!」
耳に聞こえてきた名前に喜美子は驚いた。幼い頃、そう呼ばれていたことがあったから。自分をそう呼んだのは一人だけ。引っ越してからずいぶん経つから忘れていた。
喜美子は親元で暮らしている。就職してからはそのことに感謝している。もし一人暮らしだったなら、ちゃんと食事がとれているか怪しい。帰宅すると一目散に自室のベッドへ向かう。緊張が解けてぐったりしてしまう。何もしたくなくなって毎日ベッドで横になっている。こんなことではいけないと思うが、そのうちに仕事にも会社の人間関係にも慣れていくのだと思う。通勤電車で見かけるあの男の存在に半月で慣れたように。
夕飯の支度ができたと母が呼びに来た。リビングへ降りて、家族三人で食卓を囲む。
父はいつも黙々と食事をする。普段から無口だが、食事のときは一言もしゃべらなくなる。
仕事に慣れたかどうかなど、母はそれとなく聞いてはくるが、あまり深く質問はしてこない。疲れている様子を見て気を使っているのだろう。話題は母の仕入れてきた噂話が中心だ。今夜もまた母親お得意の噂話がはじまった。いつもは喜美子も聞き流すだけだったのだが、今回は少しばかり違っていた。
「喜美子、きよしちゃん、覚えてるでしょ? あんたが小学校二年生のときに隣に引っ越してきた小学校六年生の男の子。隣に住んでいたのは一年だけだったけど、すごく仲良くしてたでしょ? 今、あの子がこっちに戻ってきてるんだって」
「きよしちゃんが!」
喜美子は思わずお箸を置いて立ち上がった。
「どこに住んでるの? お隣は橋本さんが住んでるし、まさか橋本さんが引っ越すわけじゃないでしょ? きよしちゃん、この町に住んでるのかなあ。だったら会いたいなあ」
仕事の疲れも吹き飛ぶほど、喜美子の心は躍りだした。きよしちゃんは喜美子の初恋の相手なのだ。きよしちゃんが転校したあと、半年間ほど手紙をやりとりしたけど、そのうちきよしちゃんから返事が来なくなり、数年後には年賀状が宛先不明で戻ってきて音信不通になってしまった。喜美子も忙しい生活の中で、きよしちゃんのことを忘れてしまっていた。喜美子よりも年上だから、もうすっかり社会人として立派にやっているに違いない。どんな大人になったんだろう。
「おかあさん、きよしちゃんがどこに住んでるか聞いた?」
「さあ、聞いてきた話だからねぇ」
「誰から聞いたの?」
「ええっとお向かいの佐藤さんの知り合いから聞いた話だったかしら」
「じゃあ、佐藤さんに聞けばわかるかな?」
「さあ、どうだろうねぇ。まあ、でもきよしちゃんがこの町に住んでいたらそのうちばったり会うこともあるわよ」
母は暢気に答えた。
「でも、会ってもわからないかもしれない。だって、きよしちゃんの顔、もう覚えてないもん」
「あれ、まあ!」
豪快に母は笑った。
「あんた、自分の初恋の相手の顔くらい覚えておきなさいよ。情けないねぇ」
「じゃあ、お母さんは覚えてるわけ?」
けらけらと笑っていた母がはたと笑うのをやめた。
「あらやだ。どんな顔してたっけ」
「ほら、お母さんだって忘れてる」
「色白で賢そうな顔だったじゃないの。眼鏡は……してなかったわね。ええっと、まどろっこしいわね。確か引っ越す前に喜美子と一緒に写真を撮ったはず。写真あるでしょ。探しといで」
喜美子は食べかけの食事をそのままにしてテーブルから離れようとした。
それまで黙っていた父がぼそっと一言。
「もう食べないなら、食器は片付けていきなさい」
んもう、やたらマナーに厳しいんだから、と喜美子はごちそうさまでしたと言ってから食器を流し台に運び、自室に向かった。
アルバムを開いて幼い頃の写真を見てみたが、それらしきものはなかった。その写真だけ別のところに仕舞ったのだろう。幼い頃から大切にしている童話に挟んでないか、小学校の卒業アルバムに挟んでないか、あちこち探してみたがどこにもなかった。
引っ越した後、やりとりした手紙はどこに仕舞ったんだろう。そこに一緒に入れているかもしれない。
小学生の時の机は高校生の終わりに捨ててしまって、パソコンを使うための奥行きの狭いシンプルなものに替えた。その時、引き出しの中を整理してたくさん物を捨てたように思う。あの中に入っていたのかな。それとも他の場所に移したのだろうか。机の引き出しの代わりに書類整理に使っている多段チェストには入ってなかった。クローゼットの上の棚にある段ボール箱かもしれない。幼い頃大切にしていたぬいぐるみなどをたくさん入れたままもう何年も置きっぱなしになっている。椅子の上に立って段ボール箱を下ろしてきた。瞬間に埃が舞う。
当たりだった。タンボール箱から封筒に入れられた写真が出てきた。母が言っていたとおり、きよしちゃんは賢そうに見える。大人びた表情で写っていた。隣には大きな鳥かごを抱えた笑顔の喜美子。鳥かごの中は空だった。封筒には写真以外のものも入れられていた。四角いプラ板に穴を開けてピンク色の細いリボンが通してあった。プラ板には黄色と青色の模様のインコのイラスト。たどたどしい手書き文字でキヨちゃんと書いてある。きよしちゃんがくれたプラ板。手書き文字は後から喜美子が書き足したのだろう。
「写真見つかったの?」
食器洗いを終えた母が部屋に入ってきて、喜美子が手にしていた写真を覗き込んだ。
「あら、こんな顔だったのね」
写真の中の二人は対照的だった。静かで大人びたきよしちゃんと大きな鳥かごを抱えて無邪気に笑う喜美子。四歳違うとはいえ、あまりにも自分が子どもじみて見えた。
「あんた、鳥かごを抱いているんじゃなくて、鳥かごに抱かれているみたいね」
母はそう言ってけたけた笑った。
「んもう、失礼ね。ちょっとチビだっただけでしょ」
たしかこの写真を撮った時にきよしちゃんから鳥かごを譲り受けたことを思い出した。でも、鳥は? 記憶が曖昧になっていた。
「引っ越す前にあんたはきよしちゃんからインコをもらったんだったね」
そうだった。たしかメスのインコをもらって、キヨちゃんと名付けたんだ。きよしちゃんからもらったインコだったから。そのインコはどうしたんだろう。今、いないということは死んじゃったんだろうけど。
「でも逃げてしまったのよね。あの時は泣いて泣いて大変だったことを思い出したわ」
懐かしそうに母が言う。
「死んだんじゃなくて?」
「そうよ、死んだのは雛のほう。親鳥は水を取り替えようとした時に逃げてしまったって、あんた言ってたわよ」
そう言ってから母は部屋の時計を見てあわててリビングへ降りていった。好きなドラマが始まる時間だ。
喜美子は今まですっかり忘れていた。キヨちゃんが家に来てからすぐに産んだ雛鳥を、喜美子は巣から取り出して撫でてやろうとした。キヨちゃんが羽をバタバタさせてピイピイと鳴いて騒ぎ立てていたのもおかまいなしに、そっと掴むつもりだったのに、キヨちゃんが喜美子の手をつついてきたから思わずぎゅっと力を入れてしまった。それまで元気に鳴いていた雛鳥は喜美子の指に挟まれて動かなくなった。
そのあとキヨちゃんは元気をなくして、あまり鳴かなくなった。ある日、水を取り替えてあげようとしてかごの扉を開けた瞬間、鳥かごから飛び出して開け放たれた窓から空へと飛んでいってしまった。
残された鳥かごは次の日に物置へしまわれた。後悔と嫌悪感で泣いて泣いて、目が腫れて頭が痛くなるほど泣いたあとは、キヨちゃんのことも雛鳥のことも、最初からなかったことのように、つとめて忘れようとした。
そのあとしばらくきよしちゃんに手紙を書いたけれど、キヨちゃんのことは一度も書かなかった気がする。怖くて書けなかった。そしていつのまにかきよしちゃんから手紙が来なくなり、音信不通になってしまった。
きよしちゃんに会ったら謝ろう。雛鳥のこともキヨちゃんのことも。
喜美子はそう決心して、プラ板をいつも持ち歩いているトートバッグの持ち手に結びつけた。キヨちゃんの絵が描いてあるプラ板は、革製の大人びた鞄とミスマッチだったが構わなかった。いつでも強く意思を持ち続けるためのお守りのようなものにしたかった。
やはり今朝もあの男は喜美子と同じ電車に乗ってきた。いつもどおりわけのわからない言葉をひとりごちて、周りの人の視線を一瞬だけ集めていた。あの男の声がしても無反応な人は、以前男の乗る車両に乗り合わせたことのある人なのだろう。その迷惑な声も日常になっているのだ。
喜美子の乗る車両に限ってあの男が現れることは、とても偶然とは思えなかった。故意としか思えない。その次に浮かんだ考えに身を震わせた。あの男が自分に好意を持っているのではないかなんて、自意識過剰すぎる。喜美子は男の声のする方を見て驚いた。昨日探し出した写真の中のきよしちゃんにそっくりだったからだ。もっとよく見ようと思っていると、電車が次の駅に着き、男は人波に押されながらホームに降りてそのまま人波と一緒に流されていった。
それにしてもよく似ていた。大人になったからといって子どもの時の面影がなくなるはずがない。認めたくないがあの男はきよしちゃんなのかもしれない。どうしてあんなふうになってしまったのだろう。気が狂ってしまったようにも見えた。あのあとなんて言っているんだろう。「キーチャンガネ~……」のあとに続く言葉が今日も聞き取れなかった。
帰りの電車でいつもあの男が乗ってくる駅に着いたが、彼は乗ってこなかった。あとに続く言葉を聞き取ろうと意気込んでいただけに拍子抜けした。ところが次の日の朝も夕方も彼は電車に乗ってこなかった。
喜美子は彼がきよしちゃんだということを確信していた。喜美子が思い出したからきよしちゃんは逃げたのだ。逃げた? 何のために。むしろ逃げるのは喜美子のほうのはずだ。悪いことをしたのは喜美子なのだから。なぜそんなことを考えたのだろう。
彼が姿を見せなくなってから二週間が経とうとしていた。もう二度と姿を見せないのかもしれない。そのうちに彼がいない日常に慣れてしまうのだろうと思いはじめていた。
その矢先に彼は現れた。はじめて見たときとなんら変わらず、同じフレーズを歌うように繰り返して、電車に乗ってきて、窓際に立った。多くの人の視線が彼に集中する。吊革につかまって横目で彼の動きをうかがう。喜美子はトートバッグに結びつけたプラ板を握りしめ、覚悟を決めた。
車内の人はまばら。喜美子はゆっくり移動する。彼の立つ場所へ向かって。すぐそばまで行って立ち止まる。彼はずっと同じ言葉を繰り返している。
覚悟を決めたはずなのに彼に話しかける勇気が出ない。彼はきよしちゃんだと確信をもっていたはずなのに、急に揺らぐ。いや、そんなはずはない。トートバッグから写真を取り出して目の前の彼と見比べる。驚くほど面影が似ている。彼は絶対にきよしちゃんに違いない。喉から声を搾りだした。
「きよしちゃん……でしょう?」
喜美子の小さな震えた声に気がついて、彼は言葉を唱えるのをやめた。
その瞬間、まわりの視線が自分に集まるのを感じた。車内は静まり返っていた。皆が息を飲んで様子をうかがっているように感じられる。
彼は喜美子の方を見たが、目の焦点が合っていない。しかし目が見えていないわけではなさそうで、喜美子の姿を上から下まで何度も視線を動かして見つめた。しばらく経つと作業を終えたと言わんばかりに、平然と窓の外に視線を移し、同じフレーズを歌うように唱えはじめた。
まわりから冷たい視線を感じる。喜美子のそばにいた女性が少し身を引いて避けようとする仕草をみせた。
きよしちゃんじゃなかったの? そんなはずはない。他人の空似にしてはあまりに似ている。きっときよしちゃんはあの言葉しかしゃべることができなくなったに違いない。何かの実験台にされたのだ。きよしちゃんは頭が良かったから。きっとそう。ああ、可哀想なきよしちゃん。
行き帰りの電車でたった三駅分だけきよしちゃんと一緒に過ごす。後から同じ車両に乗ってくるきよしちゃんを見つけて、朝の満員寸前の車内をまわりに迷惑かけながら移動して、隣に立つ。相変わらずきよしちゃんは、歌うように節をつけて同じフレーズを繰り返している。その隣できよしちゃんに話しかける喜美子もおかしいと思われているだろう。最初はまわりの視線を感じてつらいと感じたが、もう慣れてしまった。喜美子が話しかけている相手はきよしちゃんなのだ。それしか言えなくなってしまった可哀想なきよしちゃんを救えるのは喜美子だけだ。
電車の中で毎日きよしちゃんに話しかけはじめてから、ひと月が経った。きよしちゃんは次第に痩せてきているように思えた。目の下には隈ができて、再会した頃よりも頰がこけたように思える。ちゃんと食べているのだろうか。気になりだすといてもたってもいられなくなった。気分が悪いと嘘をつき、会社を三十分早退してスーパーで食材を買ってから、いつもどおりの時刻に電車に乗った。そしてきよしちゃんが降りる駅で喜美子も一緒に降りた。さっき、電車の中できよしちゃんに今日は晩御飯を作ってあげると言ったけれど、きよしちゃんがわかっていたかどうかは知らない。いつもとまったく変わらず、きよしちゃんは同じ言葉を繰り返していた。きよしちゃんは歩くのが早い。喜美子はきよしちゃんのあとを小走りでついていく。後ろ姿を見失わないように追いかけながらきよしちゃんの住む街を眺めた。
駅からすぐの場所にスーパーがあった。知っていたらここで一緒に買い物ができたのに。その隣には本屋さん。本屋の店先には鳥籠に入った九官鳥。「キュ~チャン、キュ~チャン。コンバンワ」と喋っていた。きよしちゃんは立ち読みしたりするのかもしれない。九官鳥とおしゃべりできたらいいけど、たぶんしないのだろう。上り坂をしばらく歩くと薬局がある。その近くには産婦人科が見える。
きよしちゃんは後ろをついてくる喜美子の存在に気づいているのだろうか。案外気づいているのかもしれない。時折きよしちゃんは立ち止まり、ひとりごともやめて静かに振り返る。まるで時が止まったかのような瞬間。だるまさんがころんだみたい。そしてまた同じ言葉を繰り返しながら、足早に歩いていく。産婦人科の角に大きな木があった。楢の木だろう。まだあおあおとしているが、秋には足元にたくさんどんぐりが落ちているだろう。楢の木のそばにある比較的広い駐車スペースのあるアパートの敷地にきよしちゃんは入っていった。あわてて喜美子が走り出そうとしたその時だった。
「きーちゃん!」
懐かしい呼び名だった。幼い頃、そう呼ばれていた。でも、そう呼んだのは一人だけ。信じられない思いで振り返る。額に汗びっしょりの少し横幅の大きな男性がとびきりの笑顔を喜美子に向けていた。
「その鞄のプラ板、まだ持ってくれていたんだ」
そう言いながら男性は喜美子に近づいてきた。
「わからない? 僕、清だよ。もう忘れちゃったかな? 少しの間だったけど隣に住んでいた……」
「え……?」
「僕、ずいぶん変わってしまったからね。あの頃からしたら太っただろう? こんなに昔の面影がないのも珍しいよね」
喜美子は混乱してしまって、なにも返事ができなかった。頭の中できよしちゃんが繰り返す音が鳴り響いてまわりの音を遮断していた。
「大丈夫? びっくりしたよね。ごめんね、急に声をかけて。本当は近いうちにきーちゃん家に挨拶に行こうと思っていたんだけど、結婚や引越し、出産が一度にやってきたから忙しくて。落ち着いてからにしようと思っていたら、タイミングを逃してしまって……。あ、妻がね、この産婦人科に入院してて、今、赤ちゃんに会ってきたところなんだ」
何も返事をしない喜美子を清は怒っているのだと勘違いした。
「……ごめんね。なんか、ずっと連絡しなかったのに、急に馴れなれしく話しかけて、困るよね。……ずっときーちゃんに謝ろうと思っていたんだ。手紙をくれていたのに返事を出さなくてごめんね。きーちゃんが誤ってひなを殺してしまったことを電話でおばさんから聞いて知って、あの時僕は許せなかったんだ。突然押し掛けてひどく責めて叩いてしまって、ごめんね。大事にしていた鳥のひなだったから。本当にごめんね。……あれ、どうしたの? きーちゃん、顔が真っ青だよ」
その記憶がなかった。たたいた? きよしちゃんが喜美子を責めて叩いた? この目の前の男の人がきよしちゃん? だとしたら、あれは誰?
喜美子の手から買い物袋が滑り落ちた。地面に落ちた袋から林檎がこぼれて、坂道を転がっていく。
「林檎が……」
清が視線を林檎に向けて拾い上げようと手を伸ばした時、喜美子の足は駆け出していた。
うそ! 嘘だわ! 嘘に決まっている!
喜美子はきよしちゃんが入っていったアパートの敷地へと走った。角を曲がってすぐ、大きな木がそばにあって駐車スペースのあるアパートのはずだった場所。そこは空き地だった。大きな木はあったけれど周囲にロープが張られ、草が伸び放題になっていた。すぐそばであの声が聞こえた。聞きなれたあのフレーズが幾度も繰り返されている。壊れたレコードのように寸分違わず、同じ調子で。姿は見えなかった。日が暮れてあたりが薄暗くなっているからわからないだけなのか。何度も名を呼んだ。きよしちゃんと何度も。頭の上の方で鳥が羽ばたく音が聞こえたような気がして見上げた。きよしちゃんは木の枝に跨って、手に何か持っていた。ピイピイ鳴きわめき、もがいている。……鳥?
「きよしちゃん、降りてきて! 話をしましょう!」
喜美子は木の下からきよしちゃんに声をかけた。その瞬間、頭の上に濡れたような何かがぶつかった。喜美子の頭の上から地面に滑り落ちたものが、通りにある街灯からの乏しい光に晒された。それは潰れてぐちゃぐちゃになり、血の塊になった鳥の雛だった。思わず口から悲鳴が出た。
喜美子は木の上のきよしちゃんを見上げた。彼が跨っている枝のすぐそばにある鳥の巣があるようだ。きよしちゃんは片手で雛を取り出し、そのまま握り潰した。液体が拳を伝う。次にパッとその掌をひらいた。自然の法則に従って雛が落下する。それをしっかり確認してからまた次の雛に手を伸ばす。
これはあの時の自分だ。雛を殺した自分だと喜美子は気づいた。
「もうやめて!」
喜美子が泣き叫んだところで変わりはしなかった。最後の一羽まで同じように殺してしまうと、木から降りて喜美子の方へ向かって歩いてきた。次は自分だ。喜美子はそう感じてゆっくり後退りした。
いつものあの繰り返されるフレーズを唱えながらじりじりと近づいてくる。
「キ~チャンガネ~、ヒナヲコロシチャッテネ~、タ~タカ~レチャッタ~。バチン! バチン!」
やっと聞き取れることができた。さっきの九官鳥と同じような節回し。たぶん本当はわかっていた。聞きたくなかったから、聞こうとしなかっただけだったんだ。
ひなが死んだとき、責めなかったのはキヨちゃんだ。責めたくても責められなかった。
「ごめんね、キヨちゃん」
近づく声がピタッと止み、きよしちゃんの気配が消えた。鳥の羽ばたく音が聞こえた気がした。気のせいだと思った。自ら作り出した幻想だと思った。それなのに木の上から舞い落ちてくる羽。黄色と青色のキヨちゃんの体の色をした羽。これも幻だろうか。
遠くで喜美子を呼ぶ声がした。走ってくる足音。そばまで来るとわかった。肩で息をして、荒い息を整えながら、手に下げた買い物袋を差し出した。清だった。
「はい、忘れ物」
「……ありがとう」
袋を受け取ろうと伸ばした喜美子の手には黄色と青の羽がびっしりと貼りついていた。それを見た清は「キーちゃん!」と思わず口に出していた。喜美子は聞き返す。自分のことを呼んだのだと思って。
「ああ、きーちゃんじゃなくて、インコのキーちゃん。きーちゃんにあげたインコの名前。羽の色がそっくり」
喜美子は驚いた。自分だけに見えているのだと思っていたものが清にも見えていたことに。
「羽が見えるの?」
「うん。きれいだよね。どこで見つけてきたの、その羽」
その問いに喜美子は答えることができなくて、いつのまにかついていたと笑ってごまかした。
「清ちゃんからもらったキヨちゃんはもうずいぶん前に逃げちゃった。ごめんね」
清はすこし驚いていた。
「名前、インコの名前、付け直したの?」
「清ちゃんにもらったから、キヨちゃんって付けたの」
「え? そうだったんだ、知らなかった」
「清ちゃんこそ。実はキーちゃんって呼んでたんだね。知らなかった。前はそんなふうに呼んでなかったよね。インコちゃんだったよね? キーちゃんって、今知った。なんで? 羽が黄色いから?」
清はぶっきらぼうに答えた。
「違うよ。好きだった子の名前」
「え?」
「もう、昔の話。今度、ほんとに赤ちゃん見に来てよ。今度はやさしく抱っこしてやって。大丈夫、そんなにやわじゃないから」
「ひどい。でも、ありがとう。絶対に行く。必ず行くね。そして、ごめんね。雛のこと、キヨちゃんのこと……」
清は首を振り、いいんだと微笑んだ。
ごめんねと、ありがとうを喜美子は心の中で繰り返した。幻だったのかもしれない。でも再会に導いてくれたのだと思った。喜美子と清ちゃんが会えるように。そう思いたかった。
喜美子の手に貼りついていた羽が風に吹かれ、ひらりと舞い上がった。羽はどこまでも高く上っていき、まるで鳥のように飛んでいって見えなくなってしまった。喜美子は名残惜しくて夜空をいつまでも見つめていた。キヨちゃんがまだどこかで生きていて、また新しい命を授かってくれていることを願った。あまりに自分勝手な願いだけれど。
空を見上げ、星がきれいだと言った清に喜美子は頷いた。本当は違うものを見ようとしていたことは言わなかった。この先ずっと。