第五話
私は鳥居の方に歩き出した、はずだった。はずだったのだが、私は今前に進めずにいる。
何故進めないのかといえば、私の手首を掴む手が前に進むのを阻んでいるからである。誰がそんなことをしているのかというと、勿論一人しかいない。
着物がよく似合う、先ほどまで談笑をしていた一個上の美しい黒髪の青年である。
「待って!」
よっぽど焦って掴んだらしく、掴まれている手首が痛い。細い人なのにどこにそんな力があったのか。そこはやはり男子、見た目がひょろくても力はあるということか。
「痛い…」
「あ、ごめん!」
ようやく離してくれた手首を見てみると、赤くくっきり手形が残っている。あんな短時間の間にこんなに赤くなるまでガッツリ掴めるこの力。男子恐るべし。
それにしてもせっかく別れを告げたのに早々に引き留められると、なんだかカッコ悪い。あんなに色々考えて決意して、さっさと離れようと思ったのに。羞恥心が湧いてきて足を踏み出すのを躊躇させた。恥ずかしい、恥ずかし過ぎる。
しかしよく考えたらこれは躊躇している場合ではない。先ほどまでの己の胸中を思い出し、無様な姿を晒しているこの恥ずかしい状況を早々に抜け出すべく、私は動き出すことにした。さっさと彼と別れようではないか。別れが惜しくなっては困る。
「ではこ」
「待ってってば!」
別れの言葉を再度切り出そうとしたのに、それに被せるように声を張り上げてきた彼。いつも穏やかに話していたから、彼の急な大声に驚いて途中で言葉が止まってしまった。
彼も大声を出すのだな。のんきにそんなことを考えた。
「そんなこと…そんなこと言わないでよ!僕の言葉が気に障った?なら謝るから、だから!」
彼の必死さが声に、その表情に如実に表れている。綺麗な顔をくしゃりと歪ませ、今にも泣き出しそうな子供のようだ。いつでも穏やかだった彼がこんなに感情を見せるのは、出逢ってから初めて見るかもしれない。いや、初めてではないな。以前もこんなことがあった気がする。モテ自慢をされた日だっただろうか。
あの時も、彼は私を必死に引き留めていた。
私には分からない。何故そんなに…。
「もう、会わないないなんて言わないでよ!」
私に執着するのか。
だっておかしいじゃないか。昔、それもかなり幼い頃の思い出に執着して私と話すことを望む彼。今まで深く考えないようにしていたが、どう考えても異常である。
そろそろ潮時だろうし、聞いてみるのもいいかもしれない。今までこの関係が変わるのが嫌で、知りたかったのにいつの間にか避けていた話題。聞いてしまったら、なんだかもう会えなくなる気がして。
改めて考えてみると、それはおかしい気がした。もう会わなくていいように、私は今さっき別れを切り出したのだ。何故もう会えなくなりそうな気がしたからとその話題を避けていたのか。
自分の矛盾した心の内に戸惑う。やっぱり彼は恐ろしい人だ。着々と私に変化を齎している。
矛盾した自分に戸惑いつつも、やはり私は彼に問いかけてみたい。
もしかしたら、こんなに引き留めてくれるほどの価値が、例え昔の私であってもあるのかもしれないと思えるから。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「…何?」
「どうしてあなたは…そんなに私に執着しているの?私たちの過去に一体何があったの?」
「それは…」
あんなに喜々として思い出話をしていた彼が、ここにきて言葉を濁らせている。これに関しては言えない何かがあるのだろうか。
確かに彼は私に沢山の私たちの思い出話をしてくれたが、核心的な話はしなかった。最初はただ単に懐かしくてそういう話をしたいだけなのだと思っていた。だけど夏休みの中盤に入る頃になってもそれは変わらず、少し他の話題を挟みつつもひたすら思い出話。私は少しずつ彼の異常性を垣間見た。
だって、私が覚えていないくらいの思い出だし、彼は夏休みの間しかこちらに来ていなかった。それに加え、どうやら私は次の年の夏休みは姿を現さなくなったらしい。ならば、私たちは出逢ったその夏しか思い出がない。
たった一度の、短い夏の友人。
それが私と彼との関係だ。しかもかなり昔の。
なのに何故、今私と再会したからとわざわざ約束をしてまで会う理由があるのか。何故彼の口から直接その理由を言わず、私に思い出して欲しがるのか。
今まで見て見ぬふりをしていた疑問が次々と湧き出して、一気に私に押し寄せてきた。
一向に彼との思い出を思い出せない自分に腹が立つ。
そもそも私がそのことを思い出してさえいれば、きっともっと早くこの関係は終わらせられた。こんなに心地良い関係など、知らずにいられたのだ。
何故忘れてしまったのだろうか。何故思い出せないのだろうか。
互いに黙り込んだまま、生温い風が二人の間を吹き抜けた。
こうしている間にも時間だけが刻一刻と過ぎてゆくが、私も彼も一向に口を開かない。私の場合は開かないというよりは、開けないと言った方がいいだろうか。
彼が何を考えて黙り込んでいるのかは分からないが、少なくとも私はこの気まずい空気の中「じゃあ帰ります」と言う勇気がなくて口を開けないだけである。
完全にタイミングを逃した。彼が口を開く気配は今のところない。
夕飯は適当にその辺で食べるからいいとして、あまり遅くなるのは良くない。もう夕方と呼べる時間帯はとうに過ぎ、夜がその顔を覗かせている。
夕飯は簡単なものにしてかき込んで食べればあまり帰宅が遅くならないだろうかなどと考えていると、天岩戸の如き口を彼がやっと開いた。
「……来週、夏祭りがこの神社であるんだ」
「…夏祭り、ですか?」
「うん。よかったら、一緒に回らない?」
ここへ来てまさかの夏祭りのお誘い。
あの流れからは意外性を突き過ぎた内容である。変化球過ぎてしばし呆然とした後、夏祭りに誘われていることを思い出した。危ない、驚きすぎて頭の中が真っ白になっていた。
私は彼に、どう答えるべきなのだろう。
この心地良い関係が続いていけば、私はこの夏の終わりがきっと辛くなる。もうすでに私はこの関係を手放し難くなりかけている。このままではまずいと、私の本能が脳内に警報を喧しく鳴らしている。この誘いを断らなければもう戻れなくなるぞ、と。
なのに、私は心の中でもう答えをほぼ決めてしまっている。
彼との思い出を思い出せないのなら、せめて思い出を作りたい。
自分のそんな考えに、絶望に似た感情が湧き上がってくる。
彼に出逢ってから、どうやら私の心は弱くなってしまったようだ。
彼に出逢うまでの私は常に気を張っていて、誰にも気を許さないようにしていた。誰もが私と姉を比べてくるような気がして、心など当然誰にも開けなかった。
それは私と友好な関係を築こうとする友人たちに対しても、同じことで。心の内など友人たちにも言えなかった。だって言ったら、友人たちは私の元を去って行ってしまうかもしれなくて、恐ろしかったのだ。
私はとても臆病で、卑怯者だ。自分からは決して歩み寄らず、歩み寄って来てくれるのをただ待っているだけ。歩み寄って来てくれた人に対しても、最初は警戒してキツくあたる。少しでも仲良くなれそうだと感じたら、やっとこちらからも少しだけ歩み寄るのだ。
私の心が、これ以上傷つかないように。それが私が自分を守るために行ってきた、唯一の方法だったから。
それが、どうだこれは。
私は彼に気を許し、楽しさを共有できる喜びを知った。そこまでは友人たちと変わらない。
だけど違うのは、心を許すことを知ったこと。
私は心を許すことを、覚えてしまった。今までだったら絶対に許さなかったのに。心を許すことで得られる関係の心地良さ、気楽さ、そして楽しさ。もう、知らなかった頃には戻れない。
きっと夏休みが終わったら、友人たちとの関係も彼から齎された変化で変わってしまうだろう。
こんな状態では、夏休み明けの学校生活など到底やっていけない。楽しさを知ってしまったら、辛いだけの日々なんて耐えられなくなる。例え友人と関係が変わり、彼とのような関係になっても、私は辛い。
だってそれを教えてくれた彼が、学校にはいないのだから。
それなのに私は彼と夏祭りに行きたいと、もっと仲良くなりたいと思ってしまっている。
どうするべきか逡巡していると、急に右手に体温を感じた。何事かと思って右手を見ようとすると、ただ力なくぶら下げられていただけの右手は、私の目の前に彼の両手に包まれて運ばれていた。
何故に手を握られているのだろうか。先ほどから急展開ばかりで私の頭はついていけない。
「ねえ、駄目かな?」
先ほどの誘いの答えを、促されている。彼の声はどこか有無を言わさぬものがあり、無言の圧力をかけていた。優しく穏やかな彼にしては強引なやり方だ。
それほどまでに彼は、私と夏祭りに行きたいのだろうか。
そこまで考えて、もしかしたらこの夏祭りに何かヒントがあるのではないかと思った。話の流れ的に、夏祭りに行けば何かが分かるんじゃないだろうか。過去に私たちは、もしかしたら共に夏祭りに行ったことがあったのかもしれない。
ならば迷う理由などない。例え夏休み明けが辛くなろうとも、私は彼との思い出を優先しよう。夏祭りに行って思い出せなかったとしても、私は彼と新しい思い出を作れる。それを糧に、学校生活を頑張って耐える方向にシフトチェンジしよう。
いつもはネガティブ思考でほとんどポジティブになどなれないのに、なんだか前向きだ。これも彼が齎してくれた変化の一部なのだろうか。
答えは決まった。
あとは、彼にそれを伝えるだけだ。包まれた右手に左手を添え、彼の手を私も包んだ。彼は驚いたように目を見開いていて、その姿を見て少しだけしてやったりと思えた。
「いいよ、行っても。ただし一つだけ聞いてもいいかな?」
「ありがとう!うん、いいよ」
「今回行くこの神社の夏祭りって、私たちにとって大切なものだったのかな?」
直球で問いかけた。これくらいなら、許されるでしょ。
彼は少し迷うように視線を彷徨わせ、やがて私の目を見て頷いた。
「…そうだね。君にとってどうだったのかは僕には分からない。でも、僕にとってはとても大切なものだったよ」
「……分かった。なら尚更行くよ。私も何か、思い出せるかもしれない」
そう言うと、彼は目を輝かせて首を縦に振った。
今まで少し、記憶を思い出すのに消極的な所があった。別に私は思い出さなくても問題ないし、彼の思い出話を聞くだけでいいと思ってたから。確かに彼との過去の思い出は気にはなるけど、ぼんやりと霧がかかったように思い出せないので正直諦めていた。
だから私が積極的に思い出そうとすることに、彼は喜ぶことを隠そうともしていないのだろう。嬉しそうに微笑む彼の顔の周りには、花が咲いたような幻覚が見えそうなくらいご機嫌だった。
そこまで喜ぶとは。正直、今まですまんかった。
彼はまた会えるという安堵からか、無事その後は解放してくれた。また明日も会うという条件をつけての解放ではあったが。
それでもいいと、今の私は思えた。
辛い日々を耐えるために、楽しい思い出をもっと作ることにした。今は前向きに考えられるから、彼と会うのも怖くない。
きっと彼との思い出が、夏休み明けの学校生活を支えてくれそうな気がするから。
彼とは次の日も約束通り会い、また他愛無い話をした。
だけど昨日から変わったことが二つある。一つ目は私が前より彼と会うことに積極的なこと。彼はそれをとても喜んでくれた。私が彼との過去を思い出そうとしていることも、その要因の一つだろう。思い出話を彼がすると、私はそれを思い出そうとすることが多くなった。結局思い出せはしなかったのだが。
二つ目は私が彼を”友人”だと思うようになったことだ。今まであくまで知人というスタンスを崩さずに来た。これは別れが辛くなるのを防ぐためだったのだが、事情が変わった。
私が彼とこの夏だけでも、楽しい思い出を作ろうと思うようになったからだ。
私は完全に彼に絆されてしまっていた。最初にそのことに気付いた時は焦った。友人にも言えなかったことを言ってしまったり、彼の前で涙を流してしまったり。これは私にとって、非常にまずいことだった。このままでは私は弱くなってしまう、そしたら学校生活に耐えられなくなってしまう。なのに、それでもいいとも思ってしまう。
戸惑ったが、私は最終的にそれを受け入れた。ここまで心を許せてしまったのではもう後戻りなどできないのは明らかだった。だったら彼を友人だと認めてしまえばいい。
完全な開き直りである。でもそのおかげで今を楽しく過ごせているのだから、まあいいだろう。
そして、迎えた夏祭り当日。
私たちは初めて神社以外の場所で待ち合わせをした。と言っても神社の中か外かという違いだけなのだが。集合場所は、神社の鳥居の前。
場所が変わるだけで、こんなにも緊張するのだろうか。私は夏の暑さからのものとは違う汗を流していた。可笑しなところはないだろうか、変な髪型ではないだろうか。そんな普段は全然気にしないことを気にしてしまうのは、夏祭りという日常ではなく”非日常”の舞台に立っているからだろう。
普段と違うことをするというのは、変化を嫌う私のような人間にはとても勇気のいることなのだ。
今日は恰好もいつもの適当なTシャツとジーパンではない。彼の要望で、浴衣を着ている。
私は浴衣を着ることを反対したのだが、せっかくだからと彼が意見を曲げなかった。浴衣を持っていないと話せば諦めると思ったのに、次の日に彼は私にと浴衣を持ってきた。白い生地に、青い小さな花が描かれた浴衣だ。手触りがよく、素人の私にもとても良い品であることが分かる。
花に詳しくないので花の名前は分からないが、彼はこの花の浴衣を私の為に選んでくれたそうなので、気に入っている花なのかもしれない。
流石に着るのが憚られて断ったのだが、彼はこれを着てくれと譲らなかった。しばらく彼と睨みあったが、折れたのは私の方。彼は結構頑固な所があるから、一度言い出したらきかないのだ。
そんな訳で私は彼に屈し、浴衣を着ることとなった。
家に帰った後、私は母にこの件を報告することにした。流石に私一人では浴衣を着れないし、何故持っていないはずの浴衣を持っているか疑問を持たれるだろうことは目に見えていたからだ。
母は私が夏祭りに行くと言ったことにも大層驚いていたが、浴衣を借りたから着ていくと言ったら更に驚いていた。今まで人の多い、特に祭りみたいな知り合いに会う可能性のある所には絶対に行かなかった。それなのにどうしたことか、今回は行くという訳だ。驚くのも無理はない。
一人では着れないから着せて欲しいと言うと、すぐににこにこと笑い、どこか嬉しそうに浴衣を着せてくれた。
そのことが凄く胸を痛めつけた。これはきっと、罪悪感なのだろう。いつもは突き放すくせに、こういうときばかり頼る私の浅ましい、狡い部分を気にしない母に対しての。
浴衣を着た私を見た母が嬉しそうにしていたのが、尚更罪悪感を感じさせた。
そんな訳で私は今、浴衣を着て鳥居の前にいる。
幸い、母には詳しく聞かれなかったので誰と夏祭りを回るかは言っていない。多分母は女友達に借りた浴衣を着て、その友達と夏祭りに行くのだろうと思っているはず。まさか彼氏の「か」の字も感じさせない私が男性と行くなどとは夢にも思ってはいないだろう。正直私も夢にも思わなかった。
彼のことは今は友人だとは思っている。だが決して彼氏ではないし、異性として好きという訳でもない。
だから、これは断じてデートではない。そう、デートではないのだ。
緊張しているのは浴衣を着ているせいもあるが、この「異性とお出掛け」という要素が大きいような気がする。意識をすると変な汗が大量に出てきた。
そんなこと一週間前までは全然思っていなかったのに、どうしたというのか。
うん、一旦そのことは忘れよう。今日は友人と夏祭りを回るだけだ。
彼とは相変わらず時間は指定せずに、大体夕方頃というアバウトな待ち合わせの仕方をしている。それでもなんとなく、来る頃が分かるくらいには私たちは会っていた。
ほら、こうしている間にも聞き慣れた声が聞こえてきた。
「お待たせ」
「いえ。今日は宜しくお願いします」
「うん、よろしくね」
夏祭りを共に過ごすために、こうして私たちは集まった。
浴衣の花の名前が気になって聞いてみた所、この花は勿忘草という名前らしい。私は初めて聞く花の名前だった。派手さのないその花は、なんだか落ち着く。彼は結構素朴な花が好きなのだな。
私も気に入ったと話すと、彼は嬉しそうに笑ってくれた。