夏の友人 漆
彼女を追いかけられなかった原因となった忌々しい女性は、僕に黙ってついてきた。
憎らしいのに、どことなく彼女に似ていて、憎めない。
人がいない拝殿の裏に着いたので立ち止まると、その女性も立ち止まった気配がしたので振り返った。
「…それで、何かな?」
「えっと、あの…」
何を言い澱む必要がある。話したいことがあると言うから、場所を移してあげたのに。
それに似たような状況に、覚えがある。これは面倒な奴だ。
女性は何かを決意したらしく、僕の目を真っ直ぐと見つめて口を開いた。その目が、彼女によく似ていた。
「あなたに、一目惚れしました!もし彼女がいないのであれば、私とお付き合いしていただけませんか!」
ほらやっぱり、面倒な展開になった。
だけど彼女に似た眼差しで見つめてくるその女性を邪険には出来なくて、僕は努めて優しく断ることにした。
「ごめんね、好きな子がいるから君とは付き合えない」
「そう、ですか…」
その女性の顔が、彼女が悲しんだ顔にとても似ていて、僕は思わず目を逸らした。
「…もう、いいかな」
「あ、すみません!人を待たせているんでしたね。お時間をいただき、ありがとうございました」
寂しそうに眉を下げて去って行くその女性が、一瞬彼女に見えて呼び止めそうになった。
だけどこの女性は、彼女じゃない。僕が呼び止めたいのは、彼女だけだ。
僕はその女性が去って行くのを、見えなくなるまで黙って見つめていた。
あの後彼女を探したけれど、彼女はどこにもいなかった。
彼女はやっぱり、あの時に僕を置いて帰ってしまったようだった。
僕は彼女が僕を置いていってしまったという事実に耐えられなくて、おぼつかない足取りで自分の世界に戻っていった。
戻ってきた僕を見て祖父母は心配そうに色々声を掛けてくれたけれど、どの言葉も僕の耳を通り過ぎていくばかりだった。
僕は寝間着に着替え、布団に潜り込んだ。
どうして僕を置いていったの。どうして別れの言葉も言わずに帰ってしまったの。
同じ言葉が何度も頭の中を巡り、何も考えられなかった。
寂しい、悲しい、何で、どうして。
僕はいつの間にか、妖力を暴走させていた。
目が覚めたのは、あの夏祭りから何日も過ぎた後だった。
祖父母によれば、強い妖力を感じて僕のいた部屋に向かうと、妖力を暴走させていた僕が布団に横たわっていたらしい。
僕は高熱を出し、何日も目を覚まさず、今日やっと目を覚ましたとのことだった。
目を覚ました僕は彼女に会いに行こうとしたが、祖父に止められてそれは叶わなかった。
体調が戻ってからも彼女に会いに行けないまま何日かが過ぎた時、祖父に話があると言われて祖父の部屋へ向かった。
祖父の部屋に入ると、祖父は座布団に座るよう促してきたので僕は大人しく座った。
互いに口を開かず、重い沈黙が部屋に漂っている。部屋に響くのは、古い時計の針の動く音だけ。
かちっ、かちっと鳴る時計の音を黙って聞いていると、先に沈黙を破ったのは祖父の方だった。
「…もう、彼女に会いに行くのはやめなさい」
「嫌です!僕は彼女に会いたい!早く会いに行かせてください!」
「だがな、お前も分かっているだろう」
「何をですか」
祖父の言いたいことは、分かっている。痛い程、自分が一番よく分かっている。
「彼女は人間で、お前は妖怪だ。生きる世界が違う。今までは黙認していたが、妖力を暴走させる原因が彼女にあるとなると、流石に黙認はできない。諦めなさい」
「違う!彼女に原因はない!僕が未熟なだけで…!」
「その未熟なお前が彼女に会えば、また妖力を暴走させることとなるのではないか?」
「それは…」
今回の僕の妖力の暴走は、彼女のことで思い悩み過ぎた故に起きたことだと、自分でも分かっている。
だけど、それでも僕は彼女を諦めることは、できない。
「…それでも僕は、彼女を諦めることは、できません」
「夜陰、お前は彼女とは一緒には生きられない」
「そんなこと分かっています」
「生きている世界が違う。どちらかの世界で一緒に生きることができないことは、昔分かっただろう」
「はい」
「彼女には夏の、ほんの一か月くらいしか会えないんだよ」
「知っています」
「…それでもお前は、諦められないのかい?」
「はい」
真っ直ぐと祖父の目を見て意志を伝えると、少しの沈黙の後祖父は大きくため息をついた。
「……妖怪と人間が添い遂げたという例が、ない訳ではない」
「本当ですか!?」
「だが何百年も前の文献に残っているぐらいで、どうやって同じ世界で暮らしていたのかはまだ分かっていない」
「それでも」
それでも、彼女と一緒になれる方法があるのなら。
祖父は人間に関して研究している。人間の世界についても詳しい。その祖父が可能性がない訳ではないと言うのならば。
僕は掴み取りたい、彼女と歩める未来を。
その為にも僕は、やらなくてはならないことが沢山ある。まず手始めに、そう。
「じい様、僕はじい様と同じ研究者の道を進みます」
「お前の父と母は反対すると思うがの。あやつらは人間になど興味のない奴らだからな」
「それでも、構いません。僕は彼女と一緒に歩める方法があるのなら、それに縋りたい」
祖父と同じ道を選び、模索する。
人間の世界について研究し、探すんだ。
「…本気なんだな?」
「はい。何度問われようとも、僕の意思は変わりません」
「また彼女のことで、妖力を暴走させたりはしないか?」
「それについては、もうないと断言できます」
彼女が僕を置いていった理由は分からない。でも目が覚めてから、考えていたことがある。
彼女は僕を見て、何故あんなに青ざめた顔をしていたのか。否、あの女性を見て、青ざめた顔をしていたのか。
あの時は彼女に置いていかれたと思って、冷静さを欠いていた。でもよくよく考えれば、彼女が見ていたのは僕だけど僕じゃないことに気付いた。
もしかしてあの女性は、彼女の姉だったんじゃないかって思った。
そしたら色々と納得した。多分あの女性は、彼女の姉で間違いない。
彼女にとても、よく似ていた。顔の造形というよりは、その表情が。そして彼女のあの反応。彼女は姉が夏祭りに来ていたことに気付き、体調を崩していた。
そして何より、彼女が僕に会いに来なくなった原因の状況と、よく似た状況だった。
そこまで考えたら、もう気持ちは安定していた。妖力もいつものように安定している。
彼女は、僕を置いていったわけじゃない。
多分、僕が彼女のお姉さんにとられると思って、怖くて逃げたんだ。
だからもう、僕の妖力は暴走しない。
「…本当に、彼女は諦められないか」
「はい」
祖父が僕の目を、じっと見ている。
僕の意思は、変わらない。
「……分かった。もう何も言うまい」
「それじゃあ!」
「…会いに行ってきなさい。もう今年は、猶予はないだろう。恐らく今日が最後だ」
「ありがとうございます!」
僕は祖父に短く礼を告げ、祖父の部屋を飛び出した。玄関まで走り、下駄を履いて神社のあの隙間へと駆けた。早く、もっと早く。
祖父は今日が最後だと言っていた。今日を逃したら、来年まで彼女とは会えない。
そしたら一生、彼女に会えなくなってしまう気がした。
神社に辿り着くと、随分と狭くなった隙間があった。確かに明日になったら閉じてしまっていそうだ。
僕はその隙間へ手を伸ばし、人間の世界へと向かった。
◇ ◇ ◇
人間の世界に辿り着くと、空はもう夜の帳が降り、星が輝き始めていた。
隙間を通って人間の世界に着くと、いつも拝殿の裏に出る。僕はそこから急いでベンチへと向かった。
だけど、そこに彼女はいなかった。
彼女はもう、彼女の姉に惹かれてしまってここには来ないと思っているのだろうか。ここにいないなら、彼女はどこに。
彼女に会える、今年最後の日なのに。
呆然とベンチの前に立ち尽くしていると、大木の方から声が聞こえてきた。
「星夜…いや、なんか違うな…。うーん…夜…夜…」
聞きたくて仕方がなかった、愛しい声。声のする方へ、自然と足が向かっていった。
会いたかった、ずっと会いたかった。
彼女の名前を呼ぼうとした瞬間、
「…夜陰」
彼女が、僕の名前を呼んだ。
思い出して、くれたのか。涙が出そうになるのを堪えて、僕は彼女に言う。
「呼んだ?」
彼女が驚いた顔をして、こちらを向いた。
ああ、間違いなく、彼女だ。彼女が、僕の目の前にいる。
「よ…かげ…?」
「そうだよ。やっと名前を思い出してくれたんだね…小夏ちゃん」
ずっと呼びたかった、君の名前。
やっと、呼べた。
彼女も、泣きそうな顔をしている。きっと僕らは今、同じような顔をしている。
それがおかしくて、少し笑ってしまった。
「会いたかった、小夏ちゃん」
僕は彼女を、抱きしめていた。
彼女が泣いている。彼女が泣くものだから、僕の涙は流れなかった。僕の代わりに、彼女が泣いてくれているから。
彼女は泣き止んだ後、慌てて僕の腕の中から逃れた。それに苦笑しつつも、互いに何も言わずベンチへと向かい、座った。
彼女は何も言わず、視線を彷徨わせている。再会した時に泣いてしまって、言いたかったことを言う機会を逃してしまったのかもしれない。彼女の性格だと、なかなか切り出せないだろうと思い、僕の方から切り出した。
「小夏ちゃん、僕に言いたいことは?」
本当は怒っていないけど、何か色々なことを勘違いしていそうな彼女の為に、ちょっとだけ怒ったような顔をしてみると、彼女はベンチの上で土下座をし始めた。
「この度は本当に申し訳ありませんでした!」
この言葉に続いて出てきたのは、数々の謝罪の言葉。
でも良かった。僕の考えは間違っていなかったらしい。唯一つ予想外だったのは、彼女が何故か僕が怒っていると思っていたことだった。あと何故か浴衣を必要以上に気にしていること。
僕としては彼女に贈るような気持ちで渡したんだけど、彼女はただ借りただけだと思っていたらしい。
「…小夏ちゃんの気持ちは分かった」
彼女はびくりと体を震わせた後、ばっと顔を上げた。
額が赤くなっている。せっかくの可愛い顔が。
「おでこ、赤くなってるよ」
「私の額などお気になさらず!」
「さっきから思ってたんだけど、その言葉遣いどうしたの?」
「自分でもよく分かりません!分かりませんが、いつものようなきつい物言いで謝罪するなんて真似は流石の私にもできず、こうなっている次第です!」
「意味わかんないけど、面白いね」
彼女は色々なものが容量オーバーのようで、言動が少しおかしくなっている。
いつもの彼女らしくなくて、面白かった。笑いを堪えようとしたのだけれど、堪えきれずに笑ってしまった。今日の彼女は怒らずにいてくれるらしい。自分に非があるから怒る資格はないとか思っていそう。
笑いたいだけ笑った後、一息ついてから彼女の目を見て僕の気持ちを伝えた。
「小夏ちゃんが凄い喋ってくれて嬉しいのに、それが謝罪の言葉っていうのが悲しかったけど、気持ちは伝わったよ。ごめんね、こっちの都合で会いに来れなくて。そのせいで君に余計な心配をさせちゃったみたいだ。僕は怒ってないよ、小夏ちゃん」
怒っていない、と言ったら彼女の強張っていた身体は力が抜けたようだった。
やっぱり素直な子だなあ。愛しい、抱きしめたい。
「ねえ、また抱きしめてもいい?」
「だだだ、駄目です!」
「なんで?」
「やっぱりあなたは女の敵だ!色んな女子にそういうこと言っているんでしょう!恐ろしい!」
こんなこと言うのは、君だけだよ。
勘違いされないように、きちんと伝えなきゃ。
彼女の肩を掴み、顔を近づけて真面目に言った。
「こんなこと言うの、小夏ちゃんだけだよ!だから僕、君の、女の敵じゃないよね!?」
「え、あ、はい」
何故か急に真顔になる小夏ちゃん。何故。
もしかして、僕が今まで敵認定されていたことも、色んな女性にやっていると思われていたから嫌がられていたのだろうか。
まさか君が喜ぶだろうと思ってやってきたことが、こんな誤解を生んでいただなんて。
「僕、君の敵にだけはなりなくないから気を付ける。けど分かっていてほしい、君が女の敵だっていった行為は、全部今は君にしかしてないから」
「わわ、分かりました…。けど今抱きしめるのはやめて下さい。恥ずかしいです」
「せっかく再会できたのに、抱擁もなしじゃ寂しい」
「い、今までだってしてなかったじゃん!」
「今はもう、全部思い出したんでしょ?」
名前を思い出したのなら。きっと、僕がどういう存在かも。
彼女は小さく頷いた。
「じゃあこれが、本当の意味での君と僕との”再会”なんだ。記念にね、お願い?」
「もういい、分かったわ!」
彼女はやけくそ気味にそう言った。
許可は出た。彼女を好きなだけ抱きしめていられる。
僕はその時ばかりは色々なことを忘れ、ひたすら彼女を抱きしめて、幸福を噛み締めた。
なんとか自力で闇落ち回避に成功した夜陰くんであった。




