第二話
ついに夏休みが始まった。昨日は散々な日だったが、クラスメイトの顔を見なくて済むと思うと今日はとても晴れやかな気分で目を覚ました。時計を見ると9時を少し過ぎたところだった。もう少し寝ていたい気もしたけれど、夏の暑さでどうも布団でもう一度寝る気にはならない。身体が重くとてもだるいのは、肉体的疲労というよりは精神的疲労によるものだろう。これはいつものことで、今日も疲れが抜けきらないまま布団を畳み、押入れにしまった。
私の部屋は和室なのでベッドではなく布団で寝ている。昔は姉と部屋が一緒だったのだが、私が中学生になったと同時にお互い一人部屋を持った。一階にあった部屋からそれぞれ二階の姉は洋室で、私は和室。新築の一軒家ではない、祖父たちの時代からある古い我が家は和室が圧倒的に多い。なので我が家の洋室と呼べるような部屋はリビングと姉の部屋くらいだろう。その洋室も家が古くなって傷んでいたときにリフォームして出来た部屋だ。
姉が洋室がいいと言ったので姉は洋室になり、私は和室となった。姉はフローリングの床やベッドで寝ることに憧れがあったようで、いつもは私に何かと譲ってくれたりしていたのだが、このときばかりは引かなかったので洋室となった。
私は畳のある部屋の方が落ち着くので気にしていなかったが、両親が申し訳なさそうにしていたのを思い出す。別に姉を優先したなどとは思っていなかったのだが、このとき既に私は捻くれ始めていたのでもしかしたら不満そうな顔をしていたのかもしれない。寧ろ和室になって喜んでいたくらいなんだけど。
布団をしまったら楽な格好に着替え、階段を下りて洗面台に向かう。夏だから汗を流す量が多くて気持ち悪いので、早く顔を洗ってさっぱりしたかった。顔を洗ったら歯を磨き、リビングに朝食を食べに行く。小さくおはようと母に告げてご飯を食べ、部屋に戻って宿題を鞄から出した。
私はこの夏休みでゆっくり夏を満喫したかったので、煩わしい宿題をまず終えようと数学のプリントを取り出し問題を解き始めた。姉と比べられるのが嫌だから、少しでも学力の開きを少なくしようと勉強はきちんとしていたので、問題をスラスラと解いていく。それでも進学校だから上位に食い込むのがやっとだし、一番なんて夢のまた夢みたいな順位。
姉は私と同じ歳の頃だって、常に一番だった。
努力しても追いつけない、姉の影に翻弄される自分が馬鹿みたいに思える。姉にはできていたことが、私にはできない。私の出来の悪さを痛感させられた。
それでも今まである程度良い順位をキープ出来ているのは、私のちっぽけなプライドが私を支えてくれたから。周囲になんといわれようとも私は私で、姉は姉。そう言い聞かせてきた賜物だ。
もちろん姉に少しでも追いつきたいという気持ちはあるが、あくまで目標であってそこまで辿り着けなくても構わない。私が私であるためにやっているだけだから。
数学のプリントを全て解き終えて英語のプリントに取り掛かり、肩が痛くなってきたので軽く背伸びをした。まだ明るいが時間が気になり時計を見ると、針は午後2時37分を示していた。どうりで暑いわけだと扇風機の風が意味を成さない理由を知る。
夏の昼間は太陽がジリジリと照り付け尋常じゃない暑さになる。そうなると扇風機の風は生ぬるくなり涼しさを私に運んで来てはくれない。
暑くて集中できなくなりそうなのでエアコンをつけた。ここまで暑いとエアコンに頼るしか涼しさを得る方法はない。なんとなくエアコンをつけると負けた気がするので極力つけたくないのだが、やはり夏の暑さには勝てないので諦めるしかなかった。
エアコンが運んでくる清涼感に満足して畳に寝転がる。暑くてぼーっとしていた頭を冷やしながら、昨日のことを思い出していた。
昨日私は私の記憶に全然ない、だけど私を知っている不思議な人に出逢った。
まだ大人になりきれていないような、だけど大人っぽさを感じさせる顔立ちから、年齢は同じくらいだと推測する。綺麗な黒髪は艶があって、きっと日がサンサンと照り付ける昼間に見たら凄いキューティクルなんじゃないかと思う。長い前髪から少し見えた黒い瞳は、吸い込まれそうなほどの黒だった。身長は私より少し大きいくらいで、そんなに大きくはない。平均的な男性の身長よりは小さいと思う。
同じくらいの歳だとしたら、まだ成長の余地はある。高校生になってから一気に身長が伸びるタイプかもしれない。ならこれから成長して大きくなった彼は、きっと女性に物凄くモテるのではないだろうか。
姉と並んだらお似合いだろうな、なんて馬鹿なことを考えた。ほとんど彼とは初対面みたいなものなのに、何を考えているんだろう自分。夏の暑さにやられたか。
別に一目惚れしたわけでも好きなわけでもない。一目惚れはそもそも顔的に彼はイケメン、いや美人の部類なのでありえない。
だけどほんの少し話しただけなのに、苦手なはずなのに妙に鮮明に彼の姿を思い出せることが、少しだけ不思議だった。
今日は夕方にあの男子学生と会う。急いでいたから何も考えずに返事をしてしまったが、よく考えると怪し過ぎるしなんだか会うのは気が進まなかった。
だけど約束してしまったし、もう行くしかない。約束をすっぽかして彼をあそこに待ち惚けさせるのは流石に私の良心が痛んだので、私は覚悟を決めた。
もし変なことされそうになったら大声を出して逃げればいいし、なんとかなるだろう。それに本当にただ単に昔を懐かしんで彼が話したいだけかもしれない。会って話して、それでお終いにすればいい。
今日彼に会ったときの方針を決めた私は、畳に寝転がっていた体を起こし、再び宿題に向き合った。そして約束の夕方近くまでひたすら宿題を片付けて過ごした。
◇ ◇ ◇
英語のプリントをやっと終えた頃、青かった空は仄かにオレンジに変わりつつあった。段々約束の時間帯なので宿題を机にしまい、出掛ける準備を始める。リビングに向かい夕飯を作っていた母に私の分はいらないと告げ、早々に家を出た。
私は夕飯を外で簡単に済ませることが多い。両親と姉と顔を合わせたくないからだ。タイミングの合わない朝食や一緒にとることの少ない昼食と違い、夕飯はどうしても家族みんなで食べることになる。長い反抗期のようなものがずっと続いている私には、その時間が苦痛でいつしか避けるようになっていた。
限られたお小遣いは無趣味な私にはそんなに使い道がないので、ほとんどを夕飯につぎ込んでいる。夕飯の時間を避ける為ならお金などいくら使っても構わなかった。だから母に私の分を作らないように伝えると、いつも母は悲しそうな顔をして「分かった」と言う。
その顔を見るのは胸がざわざわとしてとても嫌なので、私はいつも夕飯をいらないと告げた後は早々に家を出た。少し罪悪感を感じながらも、これだけは譲ることができなかったから。
家を出てあの神社に向かう。何て名前なのかは忘れてしまったが、普段はあまり人のいない有名ではない神社なのは確かだ。ただお祭りのときだけは賑わっていた気がする。随分昔、まだ私が反抗的になる前に両親に連れられ、家族で私の住む地区の氏神である、あの神社のお祭りに行ったのをうっすらと覚えている。
だけど行ったのを覚えているだけで、その日どういう風に過ごしたかは覚えていない。あの男子学生はもしかしたら、そのときにでも出会ったのだろうか。
そんなことを考えている間に神社に着く。鳥居に一礼し、神社の中へ入った。
今日も相変わらず暑かったが、昨日のじめつくような暑さではないのと日が落ちてきているのとで、生ぬるい風も今は少し涼しい。
大木の周りを見てみるが、彼はまだ来ていないようだったので私はお手水を済ませ、参拝をした。拝殿に吊るされている紐を揺らし、鈴をカラカラと鳴らす。賽銭箱に小銭を入れ、二礼二拍手をして手を合わせた後に一礼をした。手を合わせても特にお願いすることもなかったので、参拝に来たことを心の中で告げて終わった。
私は和風なものが好きで、神社という場所もとても好きだった。だから自分でこの辺の神社を調べては一人で参拝に行くこともあった。神社の独特の空気が心地よくて好きだからだ。
それなのに、この神社のことをすっかり忘れていたのは何故だろうか。疑問に思いながらも、まあそういうこともあるだろうと納得して、拝殿を離れて約束した大木のところへ向かい、寄りかかった。
あの男子学生は見たことのない制服を着ていたが、この辺の人ではないのだろうか。彼は黒い学ランを着ていた。この辺の学校は比較的新しい学校が多いので制服はブレザーばかりで学ランのところなどない。少し離れた地域には学ランのところもあった気がするので、その辺の生徒だろうか。
そんなことを考えて俯いていると、声が掛けられた。昨日聞いたばかりの、聞き覚えのある声。
ゆっくり顔を上げると、そこには昨日の男子学生がいた。いたのだが、私は彼を見て驚いて目を見開いた。
今日は彼は制服ではなく私服姿をしていた。何故驚いたのかというと、その私服が着物だったからだ。紺色の無地の着物。私は着物に詳しくはないのではっきりとは分からないが、物凄く高そうな着物だ。だって生地が素人の私にも分かるくらいには品の良さを主張している。どこかいいとこのお坊ちゃんなのだろうか。
着物姿に呆気にとられてしまったが、学ラン姿ではないことに違和感を覚える。何故私服なのだろうと一瞬思ったが、すぐに今日が夏休みなのを思い出した。彼の学校もきっと夏休みに入ったのだろう。しかし何故着物。
私が彼の着物姿に驚いたことに気付いたらしい彼は、昨日と変わらずに笑っている。
「こんにちは。いや、こんばんはかな?」
「こんばんは、ですかね」
「着物なの、おかしいかな?」
「いや、おかしくはないですけど驚きました。私の周りには普段着物を着ている人がいませんから」
「そっか。祖父母も両親もいつも着物で過ごしていたからあんまり気にしたことなかったな」
着物で過ごすのが普通とは、やはりどこかのお坊ちゃんなのだろう。そんな人と遊んでいたらしい昔の私に驚きである。特に彼自身に興味はないが、どうやって彼と知り合ったのかには少し興味を抱いた。
着物に目が行ってしまい気付かなかったが、彼は急いで来たらしく汗を流している。流れる汗もイケメンだと絵になるのだな、などと下らないことを考えていると、彼は申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめん、待たせちゃったね」
「いいですよ別に」
そんなに待っていた覚えはないし、明確な時間を決めていなかったので多少来る時間がずれるのは予想していた。なのでそんなに気にすることではないのだが、彼は今も申し訳なさそうな顔をしている。きっと真面目な性格をしているのだろう。少しだけ彼に好感を抱いた。
こうして約束通り会えた訳だが、彼は口を一向に開こうとしない。話したいと言ったのは彼なのに、どうしたのだろうか。その空気に耐えられず、彼の顔が苦手な為に逸らしていた視線を彼に向けると、彼はじっと私を見ていた。
彼が私を凝視していたことに驚いて目を見開くと、彼はやっと口を開いた。けれど開かれた口から漏れてきた声は笑い声で、私は思わず彼を睨む。やっと口を開いたかと思ったら、いきなり私を見て笑い出す。やっぱり彼は失礼な人だった。彼に少しだけ抱いた好感は驚くほどのスピードで下降した。
「あははっ、ごめん、本当にごめん。君は昔から表情豊かで変わらないね。懐かしくてつい」
そう言いながらも今も笑い続けている彼に反省の色は見えない。やっぱり失礼な男だ。
それにしても昨日もそうだけれど、彼は昔の私をよく知っているようだ。私にはやっぱり彼と話した記憶はないのだが、口ぶりからしてそれなりに交流があったのだろう。
いつまでも私だけ懐かしめない状況が面白くないので、彼の知る思い出話を聞いてみることにした。
「ところで昨日も言っていたけど、私ってあなたと本当に昔知り合いだったの?悪いけど私はあなたのこと全然覚えてない。だからいまいちピンとこないんだけど」
「知り合いだったよ。寧ろ友人と呼べるくらいには仲良くしてた。でも君は結構小さかったし覚えていなくても無理はないかなぁ」
「小さかったって…あなた私と同い年くらいじゃないの?私は16歳だけど」
「僕は17だよ。君より一つお兄さんだね」
「一つ違うだけならほとんど変わらないと思うけど」
「そうかな?小さい頃の一歳って大きいと思うけどね」
そんなことはない、と口を開きかけたが、確かに小さいときの一歳は大きいかもしれないと思い直して口を閉ざす。
子供の頃の一つ年上というのは、とても大人に感じたものだ。急速に色々なことを吸収していく年頃だからか、一つ歳が違うだけで様々なことを知っている。それだけでなく、見た目も大きく成長する。
一つ違うだけならほとんど変わらない、と彼に言ったがよく考えれば彼の言い分の方が正しいように感じた。
私には二つ上の姉がとても大人びていて、遠い人のように思える。まだまだ子供のままの私をどんどん置いて行って、大人になっていってしまう。
私は自分でも気付かないで姉との2年分の差の大きさに押し潰されそうになっていたのかもしれない。これは姉を避ける要因の一つなのではないだろうか。
普段なら気づかないようなことに気付いて密かに感動していると、彼がまた笑い出した。
「なんか君って相変わらず素直だよね」
「…そうでしょうか、私って凄く自分が捻くれてるって思ってますけど」
なんでこんなことを彼に言ってしまったのかは分からない。彼と話していたら、普段なら言わないようなことを思わず口走ってしまったのだ。
家族でも同じ学校の生徒でもない、普段関わり合いのないただの他人の彼だからこそ、こんなことをいってしまったのかもしれない。
「昔っから君は素直だったよ」
「…さっきから昔から昔からって言いますけどね、私全然覚えてませんから。あなたの言う昔の私とのエピソードってやつを教えてもらっても?」
言い方がキツくなってしまうのは、普段の家族への反抗的な態度の蓄積と捻くれて何でも卑下する性格の結果だと思う。そしてそんなだから、私は友人も少ない。
私が暗い性格なので積極的に友人になろうとする人は元より少ないのだが、中には姉に近づくために私と友人になろうとする人もいた。
私と仲良くなりたいわけじゃないことは明白で、私は更に捻くれた。だからそういう人たちに対し、私はキツい態度をとった。当然そんな態度を取られてまで姉と関わるための足掛かりにしようとする人は少なく、私から更に周りの人は離れていった。
だけど、そんな私が面白いと近づいてきた物好きな奴もいた。それが今の私の数少ない友人たちである。本当に変わった人たちだと思う。どんなにキツイ言い方をしてもそれを当たり前のように受け入れてしまえるし、ある意味私の長所だとか言う奴もいる。本気でドMなんじゃないかと思う。
そんな訳で積み重ねられた癖というのは、なかなか抜けないものである。だからこそ、彼には申し訳なかった。
だけど彼は特に気にした様子もなく、嬉しそうにしていた。
「そうだね、僕ばっかり楽しそうにしててごめん。なんか嬉しくてさ。じゃあ僕と君との初めての出逢いから話そうか。少し長くなるからベンチに座ろう」
そう言って近くにある木製のベンチに促されたので、私は大人しくそれに従いベンチに腰掛けた。徐に私の横に腰かけ、彼は空を見上げた。私も一緒になって空を見ると、まだ青さを残していた空は完全に茜に染まっていた。
そのとき、ふと懐かしさを感じた。このベンチから眺める光景に既視感を覚える。頭に靄がかかったようで思い出せはしないのだが、以前もこの光景を見た気がした。思い出せそうで、思い出せない。
なかなか思い出せないことに苛立ちを感じながら茜色の空を凝視していると、隣から声がした。
「それじゃあ僕らの記念すべき出逢いの話をしよう。あの日もこんな風に、夕暮れだったんだ」
なんとなく彼の顔を見てみる。彼は空を見上げたまま、懐かしそうに目を細めていた。
白い肌はオレンジに染められ、さっきまで見ていた彼とは別人のように感じる。だけどその顔は、何故か酷く懐かしくて胸を締め付けた。昔、同じような顔を見たことがある気がする。もっと幼くて、あどけない少年の顔を。
記憶の蓋が開けられそうな予感がした。それは懐かしい、まだ世界に残酷さを突き付けられていることに気づかなかったほど、幼い頃の記憶。
きっと、彼の話を聞いたら思い出せそうな気がする。何も知らずに幸せだった頃の思い出を。無意識に封じ込めてしまっていた、あの日々を。
彼の語る私と彼との出逢いを聞きながら、私は自分が忘れてしまっていた思い出の話に耳を傾けた。