第十話
今回はいつもより少し短いです。
何故母が私の部屋に?
一瞬疑問に思ったが、帰って来て「ただいま」も言わずに部屋に駆け込んだのを思い出した。あんなにバタバタと大きな音を立てて部屋に戻れば、母がおかしく思うのも無理はない。
私はいつの間にか掠れそうな程にか細くなった声で返事をした。
「いるよ」
返事をすると、襖を開ける音が暗い部屋の中に響いた。しばらくすると部屋に明かりが灯り、隅で蹲っていた私の視界が明るくなる。
瞼を開いて目に入ったのは、少しはだけた浴衣。浴衣を直す気力もなく顔を上げれば、そこには心配した母の顔があり、その顔が彼の顔を思い出させて私の顔を歪ませた。
今は彼のことは、思い出したくない。母から顔を晒し、じっと畳の目を見つめた。
「小夏…大丈夫?どうしたの」
「別にどうもしない」
へそを曲げた小学生のような返事しかできない自分。
呆れるほど、子供だった。
「何かあったの?」
「…」
ずっと両親とはあまり話さないようにしてきた。それなのに何を、母に言えるだろうか。
ずっと反抗的な態度を取ってきた。今、彼のことを話してもいいのだろうか。
そんな私の気持ちを察したのか、母は少しだけ寂しさの滲んだ声で呟くように言った。
「お母さんには…話したくない?」
その苦しそうな声が、彼と重なって咄嗟に顔を上げた。
母の泣きそうな顔が、まるで彼みたいで、私は言うつもりのなかった言葉を零していた。
「友達から…逃げてきちゃった」
「浴衣を貸してくれた友達?」
「うん」
「どうして逃げてきちゃったの?」
言葉が詰まった。そもそも彼とのことを母に言うつもりなどなかったし、言おうとした言葉たちは口の中で消えていく。
往生際が悪くなおも言い淀む私に対し、母は辛抱強く言葉を待っていてくれた。
私は母の辛抱強さに負け、結局彼のことを少しだけ話すことにした。
「……お姉ちゃんと、友達が話してたから、逃げてきた」
「春香と?それがどうして逃げてくることになったの?」
母は私が姉に対してコンプレックスを抱いていることに、気付いていない。
仲が良くないのは(私が一方的に姉を避けているだけだが)知っているが、何故だかが分かっていないので至極真っ当な疑問だろう。
…私は、母に姉に対してどう思っているかを話したことはない。というか、母に相談らしい相談をしたことなどほとんどない。
だからこういう場合、打ち明けるべきかどうか悩む。
以前なら、絶対に打ち明けようかなどと迷うことはなかった。黙りこくって、絶対に胸の内を曝け出すような真似はしなかっただろう。これも、彼の齎した変化の一つか。
そう思うと少し嬉しくて、彼が変えてくれた私を、母に見せてみようと思えた。
「お姉ちゃんは、いつも私の友達を自分の友達にして、私から奪っていく」
「……そうだった、わね」
言い方がキツイのは、もうどうしようもない。この16年間で染み着いてしまった言い方は、直すのにかなり時間がかかりそうだ。
母は、昔のことを思い出したのか私に同意してくれた。それが私には凄く意外なことで、驚いた。両親に反抗している間に、私は勝手に両親が姉を贔屓していると無意識に思い込んでいたのかもしれない。
母は私のことを、私が思っていた以上に案外見ていてくれたのかもしれない。もしかしたら何度か私の力になろうとしてくれていたのかもしれない。
でもそれを拒んだのは、いつだって私だった。
そう思ったら、涙とともに続きの言葉はスルスルと口から出てきた。
弱っているからか、物心ついてから初めて母の前で泣いたかもしれない。助けを求めたかもしれない。
私を、どうか助けて。お母さん。
「だから、今日の友達も、とられると思った、ら怖くて。怖くて。友達を、置いて、きちゃった」
嗚咽で上手く喋れない私の背を、母がそっと撫でてくれた。温かい手。
私はこれを、ずっと拒んでいたのか。そして心の奥底で、ずっと欲しかったのか。
今までずっと拒んでいたはずなのに、ずっと欲しかったその優しさを、私はすんなりと受けれた。
「どうしよう。謝りたいけど、会うのが、怖い」
きっと、彼も姉に惹かれてしまう。私となんて会ってくれなくなってしまう。
私は姉のように価値などない人間だ。皆、選ぶとしたら価値のある人間を選ぶ。
嫌だ。とられたくない。
そう思って泣いていると、柔らかな感触が身体全体を包んだ。
「大丈夫、大丈夫よ小夏」
優しい声が、心地良い体温と共に私を包んでくれる。
なんて、安心できる温かさなのだろう。
「小夏、今は子供の頃とは違うのよ?」
その言葉にハッとした。
確かに、私たちはまだ子供だけど、大人に近い子供だ。子供の頃のように、姉といると楽しいからという理由で私から離れていくことは、もしかしたらないかもしれない。
「それに浴衣まで貸してくれるような友達なのに、春香と話したからって小夏の友達をやめてしまうなんてことはないと思うわ。大丈夫よ、小夏」
「おか…さん……」
私を抱きしめてくれている母を、強く抱き返した。
どうしてもっと早く、母に向き合わなかったのだろう。
どうしてもっと早く、この温もりを知らずにいたのだろう。
様々な後悔が渦巻くが、今はただ母の優しさに、愛情に感謝した。
◇ ◇ ◇
その後、母に今までのことを謝罪し、母と少しだけ打ち解けることができた。
母は母で、私にどう接したらいいのか悩んでいて、お互いそれが今まで上手く噛み合わなかっただけのようだった。(これは主に私のせいである)
そうと分かったら嬉しくて、その日は母に甘えた。
友達と遅くまでお祭りを楽しむだろう姉が帰ってくる前に、私と母は今までの溝を埋めるように、会話をした。私は友達のこととや、学校のことなど、今まで相談できずにいた悩みを打ち明けた。
母はそれを嬉しそうに聞いていて、「一緒にどうすればいいか考えていきましょう」と言ってくれた。
母とこんな風に話せることが、こんなに幸せなことだったなんて。今まで勿体ないことをしてきたというようなことを母に言えば「これからその分を、一緒に埋めていきましょう」と言ってくれて、不覚にもまた泣きそうになった。
浴衣を脱いでTシャツとジャージに着替え、まだ空いているクリーニングが近くに会ったので母と一緒に浴衣を持ってクリーニングをしてもらうことにした。
クリーニングが終わるのは、一週間後だという。つまり、一週間後には彼に会わなくてはいけない訳だ。
ため息をついていると、母が心配そうな顔をして私を覗き込んでいた。
慌てて笑みを作って「大丈夫」と言うと、少しだけホッとしたような顔をする母が、私は嬉しかった。
家に帰って、母に友達に連絡しておきなさいよと言われ、連絡先を知らないと言ったら驚いた顔をしていたので、詳しく彼のことを話すことにした。
彼とは旧友で、お互い名前も連絡先も知らず、夏休みで出来た友人だということ。彼が男であるということ。…そして私が彼を好きだということも。
母はそれを聞いて、年甲斐もなく嬉しそうにきゃっきゃとはしゃいでいた。何故私より母の方がはしゃいでいるのかと言ったら、
「娘の初恋だもの!そりゃ嬉しいわよ!」
と舞い上がっていらっしゃった。そういうものなのか。私にはよく分からん。
「でも小夏が泣いていた理由が分かったわ。…好きな人が、お姉ちゃんにとられるかもしれないと思ったのね?」
母の直接的な言葉に、私の身体は硬直する。
思っているだけではなく、言葉にすると現実味を帯びてくる。固まている私を、母は優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫よ。あんなに良い浴衣を貸してくれるような男の子ですもの。着てきてほしいって言われて、あの浴衣を貸してくれたんでしょう?」
小さく頷くと、母は笑って答えてくれた。
「きっと、そんな子ですもの。春香に簡単に靡いたりしないと思うけれど」
「え?」
さっきから母は予想外のことばかり言う。
姉は私からしても完璧だ。そんな姉に惹かれないなんて、最早男ではない。
納得いかない顔をしていたのか、母が苦笑していた。
「ねえ、小夏はあの浴衣のお花の名前を知ってる?」
「どうしたの急に」
「ねえ知ってる?」
「し、知ってるけど…。彼が”勿忘草”だって教えてくれた」
「ふふ、そっか。じゃああとで意味を調べてみなさい」
「はぁ…」
突然何故あの流れで花の話になるのか。母はちょっと変な所があるようだ。
ほんわかしているから、天然なのかもしれない。
生返事をして、その後も母と姉が帰ってくるまで他愛のない話をして過ごした。
姉が帰ってくると私は姉に「おかえり」も言わずそそくさと部屋に戻った。母が苦笑していた気がするが、気にしない。
姉の話なんか聞いたら、それこそ幼少期の悪夢の繰り返しになりそうだったのでさっさと退散したのだ。我ながら賢い判断だったと思う。
部屋に戻るやいなや、帰ってきた時にその辺に投げさったであろう携帯を探す。しばらく探していると、机の下から出てきたので、携帯を結構な勢いでぶん投げたのかもしれない。一応傷などを探したが、特になさそうで一安心だ。
目的の元を見つけたので、早速私は携帯で花言葉を調べることにした。
勿忘草の花言葉が気になるからだ。母がどういう意図であんなことを言い出したのかを知りたかった。だってあの流れはどう考えてもおかしいし、母が意味深にニコニコしていたのも気になる。
「えっと…勿忘草は…」
検索ページの一番上にあったサイトにアクセスしてみる。
画面を指でスクロールさせて勿忘草の花言葉を探すと、そこに書いてあった言葉は。
『私を忘れないで』
私は頭に痛みが走ったのと同時に、ある思い出を思い出すこととなった。




