記憶 4
その日の夜、ミーちゃんはご飯を食べなかった。と言っても心配無用。だって、ネコ缶の試作品を味見しすぎて、お腹がパンパンになっただけなんだもん。
「アンタって子は……」
こんなにお腹が出ているミーちゃんを見るのは初めてかもしれない。どれだけ味見をしたんだ……。まあ、ミーちゃんはとっても幸せそうだし、別に良いんだけどさ。
因みに、ミーちゃんがこんなになるまで頑張ったお蔭で、ネコ缶に近い餌は完成したらしい。明日からはカリカリ作りに取り掛かるとか何とか、ミーちゃんをこの部屋まで送ってくれたバルトさんから報告があった。
ミーちゃんは既に夢の中。私のベッドの枕元に用意した、ミーちゃん用のベッド――籠に手触りの良い布を敷いた物に丸まっている。私は眠るミーちゃんの背を撫でながら溜め息を吐いた。
「如何されました?」
ベッドサイドの椅子に座る私にお茶を手渡しながら、ローザさんがそう問い掛ける。私は曖昧に笑った。
こうして、ミーちゃんまで至れり尽くせりなのは、私がシュヴァルツの妻、だからなのだろう。彼との関係は、まだ確信が持てていないから、それが真実かどうかは分からない。しかし、彼が私に好意を持ってくれているらしい事は、この一日で十分過ぎる程分かった。それに、私自身、彼の事は嫌いではない。まあ、メーアに比べてなんていう、物凄く曖昧な基準なんだけど。
私はお茶に口を付けた。美味しい。ハーブティーみたいな良い香りのお茶だ。気持ちが落ち着く。飲み慣れているみたいな、そんな懐かしい感じもする。もしかしたら、私がこの世界に来てからというもの、ずっとこのお茶を飲んでいたのかもしれない。それに、お茶の温度だって丁度良い。私の好みをよく分かってくれている。慎重にならなくてもお茶が飲めるのなんて、家以外ではあり得なかった事だ。缶コーヒーですら、毎回フーフーしながら飲んでいたくらいだし。
「お茶、とっても美味しかったです」
そう言って、空になったカップをローザさんに手渡した。すると、ローザさんは微笑み、軽く頭を下げた。そして、私に背を向ける。
「あ、あのっ!」
私は意を決して、ローザさんを呼び止めた。カップを手に、ローザさんが振り返る。
「どうされました?」
「あの、私……」
言いよどむ私に、ローザさんが怪訝そうに首を傾げた。彼女に聞きたい事は決まっている。しかし、何と聞いたら良いものか……。彼女を困らせたり驚かせたりしたら申し訳ないと思う反面、他に聞ける人もいない。まさか、まだ幼いアイリスちゃんや、お年頃のラインヴァイス君に聞く訳にもいかないし、二人がいない今がチャンスなんだけど……。
「私とシュヴァルツ、夫婦、なんですよね?」
「ええ」
「そうすると、その……色々とあるじゃないですか……」
ローザさんは少し考えるように視線を彷徨わせた。私の言いたい事が上手く伝わっていないらしい。いや。逆に、これだけで分かる方が凄いかもしれない。
「私……こ、この部屋で寝ても良いんですか?」
顔に熱が集中する。きっと、私の顔は茹蛸みたいになっているに違いない。恥ずかしい! 改めて口にすると物凄く恥ずかしい! でも、ちゃんと確認しておかなくてはならない事だ。もし、この後、シュヴァルツが迎えに来ても困るし。
「ふ、夫婦だったら、その……よ、夜になると、色々、あると思うんですけど……私……!」
私はギュッと両手を握り締めた。今は未だ、心の準備が出来ていないんだ。だから、少しだけ時間が欲しい。せめて、シュヴァルツを好きだって、そう自然に思えるまで待っていて欲しい。それを上手く言葉に出来ず、視界が涙で歪む。きっと、今にも零れ落ちそうな程、目に涙が溜まっているのだろう。そんな私を、ローザさんが少し困ったように見つめていた。
突如、私のすぐ脇にシュヴァルツが姿を現した。来て、しまった……。彼と距離を取ろうと、私はガタリと椅子から立ち上がり、後退りをした。そんな私に、シュヴァルツが手を伸ばす。
「い、嫌ッ!」
思わず、私は彼の手を叩き落とした。動きを止めたシュヴァルツの瞳が揺れる。動揺、しているの? 少し目を見開いたような彼の顔を見て、私の心に罪悪感が芽生えた。
「ご、ごめんなさい……。あの……」
彼に何と説明したら良いんだろう? 何と言えば傷つけずに済むんだろう? 言葉が浮かばない。どうしよう……。
言葉を探す私のすぐ横に、人の気配が生まれた。驚いてその人影を確認すると、それはブロイエさんだった。何でブロイエさんまで現れるの? あ。ローザさんを迎えに来た、とか? 待って。まだ連れて帰らないで。彼女にはいてもらわないと困る! シュヴァルツと二人きりにしないで!
「シュヴァルツ! 大事な話してる最中にいきなりいなくなるって、どういうつもりッ!」
ブロイエさんは真っ直ぐシュヴァルツを見据え、強い口調でそう言った。ここに来る直前まで、シュヴァルツはブロイエさんと話をしていたらしい。あれ? そうすると、シュヴァルツがここに来たのは、私を迎えに来たとか、そう理由じゃないの? 呆然とブロイエさんを見つめていると、私の視線に気が付いた彼が、ふと、こちらに顔を向けた。
「あれ? アオイさん?」
ブロイエさんってば、今になってようやく、私の部屋に来ていた事に気が付いたらしい。シュヴァルツの気配を追って転移したのだろうか? 転移術って、場所だけじゃなくて、人を目標にしても使えるのだろうか? あ。そう言えば、ミーちゃんも昼間、私を追って転移してたな。
「泣いてたの? ああ、だからか……」
私の顔を見て、ブロイエさんは独り納得したように、うんうんと頷いている。私が泣いていた事と、シュヴァルツがここに来たことの相互関係がよく分からない。でも、シュヴァルツが迎えに来たんじゃないって事だけは分かった。ただ、そうなると、私がシュヴァルツの手を叩き落としたのは、私の勘違いで……。
「シュヴァルツ、ごめんなさい! 私、勘違いしてた!」
シュヴァルツに向かい、勢いよく頭を下げるも、彼は何も言わない。そろそろと顔を上げ、彼の顔色を窺うと、彼の顔から表情が消えていた。傲慢そうな上から目線も無くなっていて、能面のような無表情。こ、怖ッ! いつもの険しい表情とは違った怖さがある。きっと、さっきの事、無茶苦茶怒ってるんだ! どどど、どうしよう!
「シュヴァルツってば、何で落ち込んでるの? 何かあった?」
「それが――」
ブロイエさんがローザさんに問い掛ける。すると、ローザさんはブロイエさんに何かを耳打ちした。状況説明をしてくれているのだろう。それよりも、シュヴァルツのこの能面のような顔、落ち込んだ時の表情なの? てっきり、怒っているのかと思った……。
「ちょっと、みんなでお茶でもしよっかぁ?」
そう言ったのはブロイエさんだ。場違いに明るい声をしている。きっと、この場を和まそうとしてくれているんだ。優しい人だな。
私は促されるまま、ソファへと移動した。ベッドで眠るミーちゃんが一瞬目を開き、そんな私をちらりと見る。しかし、すぐに目を閉じ、夢の中へ。私の膝まで移動しようかと思ったけど、お腹が重くて面倒だったのだろう。それに、籠ベッドの寝心地も気に入ったらしい。
私の正面にブロイエさん、その隣にシュヴァルツが腰を下ろした。ローザさんが人数分のお茶を淹れてくれ、私の隣に座る。この座り方、少し違和感がある。ブロイエさんとローザさん、敢えて私とシュヴァルツを離してくれているの?
「さて、と……」
ブロイエさんは、ローザさんが座るのを待っていたかのように口を開いた。
「シュヴァルツ。まずは、さっきの話の続き、しようかぁ?」
笑みを浮かべるブロイエさんだが、その目は笑っていない。シュヴァルツを追って来た時、怒っているみたいだった。もしかして、何か重大な話をしていたのだろうか? それなのに、シュヴァルツはそれをすっぽかしてしまった、とか? ブロイエさんじゃなくても良い気はしないだろうな……。
「私、聞いていても大丈夫なんですか? 大切な話、なんですよね?」
私がおずおずと問い掛けると、ブロイエさんはこくりと頷いた。
「問題無いよ。むしろ、アオイさんにも関係する事だし、聞いておいた方が良いと思う」
「私にも……」
何だろう? 私にも関係する事って……。心当たりが無い。まあ、記憶を失っている訳だから、心当たりがあったとしても分からないだけなのかもしれないけど。
「うん。二人のお披露目の打ち合わせ。そんな大切な話をしてたのに、このバカ、一言も言わず、突然姿消したんだよ」
にっこりと笑うブロイエさん。今度は目も笑っている。でも、バカって……。そもそも、お披露目って何? 何の披露だろう?
「お披露目って? 何ですか?」
「二人がめでたく夫婦になったお披露目」
夫婦……。お披露目……。あ! 元の世界の披露宴みたいなものか。という事は、私とシュヴァルツは新婚さん?
披露宴なんて、そんな大切な話をしている最中にいなくなっちゃうとか、そりゃブロイエさんだって怒りたくなるわ。気持ちは分かる。でも、勝手に話を進めないでほしい。
「待って下さい。私――」
「分かってるよ。だからね、お披露目の日取り、延期しようって話してたんだ。二人が夫婦になった事を他国に通達しちゃった手前、あんまり待ってあげられないんだけど……。今の状態でお披露目ってのも、どうかなぁって思うから」
披露宴の延期の話をしていたのか……。てっきり、披露宴の話を勝手に進めているのかと思った。良かった。安心したら涙が……。
「泣くほど嫌か」
シュヴァルツが無表情にそう言った。やっぱり怒っているようにしか見えない。けれど、彼は今、悲しんでいる。シュヴァルツは私を迎えに来た訳では無いのに、私が思いっきり彼を拒んでしまったから。私は彼の事、これでもかと言う程傷付けたんだ。
「違うの……。ただ……」
私は言いよどみ、俯いた。その拍子に、目からポロリと涙が落ちる。きっと、泣きたいのはシュヴァルツの方だと思う。そう思うのに、涙が止まらない。私の手に、次々と涙が落ちた。
「ほらぁ! シュヴァルツがそういう言い方するから、アオイさん泣いちゃったじゃないか! あんまり追い詰めたら駄目だって、さっきも言ったでしょっ!」
ブロイエさんが咎めるような口調でシュヴァルツにそう言った。でも、あまりシュヴァルツを責めないで欲しい。彼は別に、何も悪い事をしていなんだから。むしろ、悪いのは私の方で――。
「お披露目までどれくらいの日数、待って頂けるのです?」
ローザさんが私の背を撫でながら、ブロイエさんに尋ねる。それは私の一番聞きたい事だった。日数があるのなら、その間にシュヴァルツと過ごした日々を思い出せるかもしれない。仮に思い出せなくても、彼をまた好きになれるかもしれない。とにかく、今は時間が欲しい。
「流石に、真冬までは待てないよ。雪が深くなっちゃうから」
「という事は、初雪がちらつく辺りでしょうか?」
「だね」
ローザさんの問いに、ブロイエさんが答える。初雪までどれくらいの日数があるんだろう? 今は、気候からして秋の入りくらい? 元の世界だと、九月辺りだろうか? そして、初雪は十二月、いや、雪が深い地域みたいだし、十一月くらい? そうすると、三ヶ月無いくらいだ。三ヶ月もあると考えるべきか、三ヶ月しか無いと考えるべきか……。微妙な日数だ。
「アオイ様。少しずつ準備を進めて参りましょう。ドレスやアクセサリーを選んだり、他国の王からの祝いの品、何が良いかリクエストをしたり。きっと、そうした準備をしている間に、心も追いついてきますから。ね?」
ローザさんは微笑みながら私の顔を覗き込んだ。きっと彼女の言う通りだ。お披露目の準備をしていく間に、もしかしたら心の準備も出来るかもしれない。何か思い出す事もあるかもしれない。私は無言でこくりと頷いた。
「あ。そうだ。シュヴァルツ」
ブロイエさんが何かを思い出したようにシュヴァルツを呼んだ。彼は未だ無表情。私の与えたダメージから回復していない。
「何だ」
「アオイさんの為にさ、お披露目の日までは我慢してね」
「何を」
「ん~。夜のセイカツ、的な?」
小首を傾げるブロイエさんは、どこかラインヴァイス君と似ていた。無邪気な顔でする話ではないけれど、今は、逆にそっちの方が救われる。深刻そうに言われると、居た堪れなくなってしまう。
「ああ。分かった」
「という事で、言質は取ったから安心してね、アオイさん」
ブロイエさんが私に向かって、ぱちんと一つウィンクをする。お披露目の日まで、私の貞操は守られるらしい。執行猶予を貰った感じだ。これで一先ず私の方は大丈夫。ただ――。
「んじゃ、シュヴァルツ。戻ろっか?」
ブロイエさんがソファから立ち上がると、シュヴァルツもそれに続いた。一瞬こちらを見たシュヴァルツの顔が泣きそうに見えたのは、果たして私の気のせいなのだろうか? 私は彼を深く傷つけた。私の勘違いで彼を拒んでしまった。このまま帰るのを見送って良いの?
「待って!」
私はソファから立ち上がり、シュヴァルツのマントの裾を掴んだ。振り返ったシュヴァルツは無表情に私を見下ろしている。きっと、この後ブロイエさんがフォーローしてくれると思う。ローザさんも。でも、それに甘えたら人として最低な気がする。
「ごめんなさい。私、勘違いしたの。夫婦だと、よ、夜のセイカツ的なものもあるから……。その為に来たんだって……」
シュヴァルツはジッと私を見つめている。視線が怖い。でも、この視線に負けたら駄目だ。きちんと訳を説明して、謝らないと! ガンバレ、私!
「こ、怖かったの……。でも……でも、お披露目の日までに、私、ちゃんと心の準備、しておくから……。だ、だから……!」
感情が高ぶって、再び私の目に涙が溢れてきた。シュヴァルツはそんな私の手を伸ばし、中途半端な位置でその動きを止めた。涙を拭ってくれようとしたんだろう。きっと、さっきもこうして涙を拭ってくれようとしていたんだ。でも、私に拒まれたから、止めようかどうしようか考えているんだ。
私はそっと彼の手を取り、頬を寄せた。温かい手。癒される。目を閉じると、私の目から涙が零れた。シュヴァルツがそれを親指で拭ってくれる。いつか、同じように涙を拭ってもらった気がする。……一度や二度じゃない。私が泣く度に、彼はこうして私の涙を拭ってくれていた。
目を開けると、私を見つめるシュヴァルツと目が合った。綺麗な紫色の瞳に、私の顔が映っている。彼のこの瞳、アメジストみたいって、そう思っていた気がする。この瞳、好きだった気がする……。
「さっきはごめんなさい。貴方を傷つけるような事をして……」
「もう良い。ゆっくり休め」
「うん。おやすみなさい」
「ああ。良い夢を」
シュヴァルツはそう言い、目を細めた。この柔らかい表情は確か、微笑みだ。良かった。笑ってくれた。そう思うと、私の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
こうして、ずっとシュヴァルツと笑い合っていたいって、ずっと彼の側にいたいって、今、自然とそう思えた。……あれ? それってつまり、私は彼を好きだって事で――。
そっか。彼と過ごした日々の記憶を失ってしまっていても、彼を好きだという感情までは失ってないんだ。私の心が覚えているんだ。




