風邪 1
朝日の差し込む部屋で目を覚ました私は、ボーっと天蓋を見つめた。いつもの見慣れた天井じゃない。どこだっけ、ここ。ああ、そうだ。私、吹雪の中を歩いていたら、いつの間にか異世界に来ていたんだった。それで、魔王筆頭の竜王シュヴァルツに捕まったんだっけ。寝ぼけているのかな、頭がやけにボーっとする。
ゆっくりとベッドから起き上がると、私は部屋の中を見回した。カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋の中を照らしている。よく磨き上げられた家具に豪華な扉。捕まったんじゃなくて客間に招待されたと考えれば、あまり腹は立たない……なんて、そんな訳が無い。何で私がこんな目に遭わないといけないんだ。今日だって、大学に行って課題を進めないといけないのに。提出日に間に合わなくなっちゃうよ。そうなれば、単位を落としてしまう。「留年」という最悪の二文字が私の脳裏に浮かんだ。
「何なのよ、もう……!」
私はぐしゃぐしゃと頭をかき回すと、のろのろとベッドから降りた。顔を洗うために洗面所に向かう。外の天気は良いのに、私の心の中は晴れない。
私を閉じ込めたシュヴァルツには腹が立つ。でも、もっと腹が立つのは私を召喚したヤツ。たぶん、神様とかその辺だろう。何で召喚先をきちんと設定しないんだ! 何で始まりの村的な場所から始めさせてくれないんだ! 何なの、一体!
気分が優れないせいか、やけに身体が重い。やる気なんて出ない。こんな日は一日陽だまりにいようと、私は大きな出窓のカーテンを開け、その淵に腰掛けた。
見渡す限り白銀の世界。遠くに森が見える。全体的に尖った形をしている木が多くあるという事は、元の世界でいうところのモミの木とかの針葉樹の森なのかな。森の隣には、小さな雪の塊みたいなのがぽつぽつと見える。煙っぽいものを吐き出すあの小さな塊。あれは建物なのかな。あそこに人が住んでいるのかな。どんな人が住んでいるんだろう。やっぱり魔人族とかいう人達なのかな。もし、普通の人間――人族なら会いに行ってみたい。
「はあぁ……」
私は思わず大きな溜め息を吐いた。暗いと言う無かれ。誰だって、知らない世界に飛ばされて、いきなり閉じ込められたら暗い気分にもなるでしょ? 例え、こんな豪華な部屋でもさ。
ホント、どうでも良いけど、今日は寒い。こんな窓辺に座っていて何を言っていると思うかもしれないけど、寒いものは寒い。私は両腕を擦りながら暖炉を見た。明け方にでも薪がくべられたのか、赤々と炎が上がっている。なのに、全く温かく感じない。何で?
唐突に扉をノックする音が響き、私は豪華な扉を見つめて思わず身構えた。朝からシュヴァルツの顔なんて見たくないから、つい警戒してしまった。でも、あいつなら、虚空から突然現れそうだな。じゃあ、誰?
「はい」
私は身構えたまま、短く返事をした。私の返事を待っていたかのように鍵を開ける音が響き、ゆっくりと扉が開く。開いた扉の先にいたのはラインヴァイスだった。
「おはようございます」
ラインヴァイスはにっこりと笑って挨拶をすると、優雅に頭を下げた。昨日、彼は薔薇園で何も無い所から現れた。扉を使う必要なんて、無いんじゃない? 一応、私に気を遣っているのかな?
「おはよう」
私は短く挨拶を返すと、再び窓の外を見つめた。今は誰かと話をする気分にはなれない。感じの良いラインヴァイスだって例外じゃ無い。
「朝食をお持ちしました」
「いらない」
私はラインヴァイスの方を見ずに答えた。感じが悪いのは分かっている。でも、ラインヴァイスは、私を閉じ込めたシュヴァルツの部下だ。今、この沈んだ気分で愛想良くなんて出来ないよ。
「昨晩もお食事を召し上がっていませんでしたが……」
「いらない」
私は再度不愛想に答えた。心配してくれているんだろう事は、声色を聞けば分かる。でも、食欲無いし、得体の知れないお肉が入っている食事なんて食べる気にならない。食べたら吐く自信があるよ。
「しかし――」
「いらない!」
感じ悪いよね、ホント。ごめんね、ラインヴァイス。でも、本当に食事はいらないんだ。今は少しそっとしておいて欲しいの。
「……こちらにお食事を準備しておきますので、気が向いたら召し上がって下さい」
ラインヴァイスはそう言うと、テーブルの上に朝食を置き、部屋を出て行った。ガチャンという鍵の音が響く。鍵、掛け忘れてくれないかな。そうしたら、ここから出られるのに。
私はチラッとテーブルの上の朝食に視線をやった。パンとスープと得体の知れないお肉と、お野菜の付け合わせ。赤いゼリーの様なデザートまである。私は大きく溜め息を吐いた。私、どちらかというと花より団子派なんだけど、こんな状況になっているからだろうか、全く食欲が無い。食事を見て気持ち悪いと思ったのなんて、ノロウィルスに罹った時以来だ。私は三度、窓の外を見やった。
どれ位の時間が経ったのだろう。唐突にシュヴァルツが現れた。もちろん、虚空から。ラインヴァイスと違って、こちらは私に気を遣うつもりなど毛頭無いらしい。私はチラッとシュヴァルツの顔を見ると、窓の外に視線を戻した。
「食事に手をつけていないのか」
「いらない」
「昨晩も何も食べていなかったそうだが」
「いらない」
私が膝に顔を埋めると、シュヴァルツが溜め息を吐くのが聞こえた。溜め息を吐きたいのはこっちだ。でも、食って掛かる気にもなれない。
「いつまでそうしているつもりだ」
シュヴァルツは溜め息交じりにそう言った。ホント、そっとしておいて欲しい。干渉してこないで欲しい。誰のせいでこんなに気分が落ち込んでいるのか、分かっているのだろうか。
「ほっといて……」
私の声は、自分でも驚くほど弱々しかった。心なしか声が震えている。
「泣いて、いるのか……」
そう言うと、シュヴァいるが私に手を伸ばした。そんな気配が伝わり、私は反射的にその手を叩き落とした。
「触らないで!」
私はそう叫び、シュヴァルツを睨み付けた。一瞬、シュヴァルツが怯んだ気がしたが、たぶん気のせいだろう。
「可愛げの無い……」
シュヴァルツは呆れたように呟き、腕を組んで傲慢そうに私を見下ろしている。可愛げが無くて悪かったわね。私に可愛げなんてものが無い事くらい、十年以上前から知っている。自分の事は自分が一番よく知っているんだから。
「で、アンタは何をしに来たのよ?」
用が無いならとっとと何処かへ行って欲しくて、私はシュヴァルツを睨みながら言った。
「着替えを用意してやろうと思ってな」
は? 今何て言った? 着替え? 私はシュヴァルツの言葉に耳を疑った。着替えなんて、昨日着ていた服で十分だし。寝る前に洗濯して、暖炉の前に干しておけば良くない? ……そう言えば、昨日お風呂を出た後から私の服が見当たらないけど、どこやった? まさか洗濯? 着替えを用意する前に、私の服、返してよ。
「着替えなんて――」
いらないと言おうとした瞬間、シュヴァルツが口を開いた。
「ノイモーント」
「お呼びでしょうか?」
シュヴァルツの声に反応するかのように、何も無い空間から黒い影が姿を現した。その影は胸に手を当て、片膝を付きながら頭を下げる。ノイモーントが名前だろう。ラインヴァイスといい、このノイモーントとかいう人といい、シュヴァルツが名前を呼ぶと出てくるの?
「小娘に着替えを作ってやれ」
「は。かしこまりました」
顔を上げた男を見て、私は飛び上がりそうになった。昨日会った痴漢お兄さんだ。昨日と違う点は、蝙蝠みたいな羽が無い事くらい。痴漢お兄さん――ノイモーントは立ち上がると、ゆっくりとこちらへ歩み寄って来た。
「ひ……!」
私はグッと悲鳴を飲み込んだ。怖がっているところなんてシュヴァルツに見せられない。また小娘呼ばわりされ、バカにされるに決まっている。怖いものは怖いが、極力平静に見えるように努めよう。うん、そうしよう。
「では、採寸を致しましょう」
そう言うと、ノイモーントは私の手を取って立ちあがらせた。そして、私から少し離れると、まじまじと、それこそ頭のてっぺんからつま先まで舐めるように私を見ていた。顎に手を当て、真剣な表情をする彼に、私も思わず立ち尽くす。
どれくらいそうしていたのだろう、ノイモーントは徐に私の傍へやって来た。そして、何故か私の手を取ると、手の甲に口づけを落とす。え? 何? 私がそう思った瞬間、ノイモーントの背中から蝙蝠の羽が生え、私を見つめる金色掛かった緑色の瞳が光った。私がノイモーントを突き飛ばすより一瞬早く、シュヴァルツがノイモーントの肩を掴み、私から引き離した。そして、その鳩尾に拳を叩き込む。ノイモーントが呻き声を上げて膝から崩れ落ちるのを、私はただ呆然と眺めていた。何、この状況?
「ノイモーント。貴様……!」
シュヴァルツが蹲っているノイモーントを睨み付け、低い声で言った。まさに地を這う声。怖い。怖すぎる。
「も、申し訳ございません! 久しく女性に会っていなかったので、つい興奮し……!」
ノイモーントは土下座のような体勢でそう答えた。異世界にも土下座ってあるんだね。一つ勉強になった。たぶん、する機会は無いだろうけど。それよりも、興奮したってどういう事? 物凄く身の危険を感じる台詞なんですが……?
「自制すら出来んと?」
「か、返す言葉もございません」
ノイモーントは土下座のような体勢のまま、小さく震えていた。……怖いよね。分かるよ、その気持ち。怒られている訳では無い私ですら、こんだけ怖いんだもん。流石は大魔王。何で、綺麗な人が怒ると無駄に迫力があるんだろうね。
「……すまなかった」
シュヴァルツは小さく溜め息を吐くと、意外な事に私に頭を下げた。え、何で? 急にどうしたの? ノイモーントもいつの間にか私に向かって土下座してるし。
「え? え?」
私は混乱のあまり、頭を下げているシュヴァルツと土下座をしているノイモーントを交互に見やった。えっと、何? 何なの、この状況。どうしてこんな事になった?
「部下のしでかした事は私に責任がある。申し訳なかった」
シュヴァルツは尚も頭を下げたままだ。部下の責任……。さっきのノイモーントの行動――私の手の甲にキスをした後に蝙蝠羽が生えて目が光ったのは失態だったのかな? 興奮したとか言っていたし、いかがわしい事を考えるとそうなるっぽいな。そして、ノイモーントの上司であるシュヴァルツも、部下の失態に一緒に頭を下げている、と。シュヴァルツってなかなか良い上司なんじゃない? って、違う。そんな事に感心している場合じゃなかった。と、とりあえず、この状況を何とかしなきゃ。居心地悪いったらない。
「も、もういい……です」
私は二人に向かってそう言うと、ソファに腰を下ろした。何だか凄く疲れた。着替えなんていらないから、とっとと出て行って欲しい。それに、部屋が物凄く寒い。昨日はあんなに暖かかったのに……。