魔術 5
部屋に戻った私は、ラインヴァイスと緩々エプロンを纏ったアイリスに給仕をしてもらいながら夕食をとった。因みに、アイリスの仕事は、私の世話をする事で落ち着いたらしい。私の着替えを手伝ったり、食事の準備や給仕、片づけをしたり。慣れるまで、それらをラインヴァイスと一緒にするんだって。端的に言うと、私専属のメイドさんだね。だから、アイリスの部屋は私の部屋の真下になった。私の部屋程広くもなく、豪華でもないらしいけど、アイリスは初めての個室が嬉しいらしく、満足げな表情で部屋の事を話してくれた。明日には、ノイモーントがアイリスのメイド服とエプロンを用意してくれるっていうし、アイリスのメイド姿、早く見たい! だって、絶対に可愛いもん!
「――にしても、納得いかない!」
私はラインヴァイスが淹れてくれたお茶を飲みながら不貞腐れていた。シュヴァルツに無視された事、思い出しても腹が立つ!
「まあまあ、アオイ様。竜王様も手が空き次第、こちらにいらっしゃるとの事ですし……」
ラインヴァイスはそう言うと、困ったように眉尻を下げた。ラインヴァイスも、まさかシュヴァルツが私を無視して謁見の間を出て行くとは思っていなかったらしい。正直に言うと、ラインヴァイスはシュヴァルツが激怒する以外は考えてもいなかったんだって。まあ、私もシュヴァルツに怒られる以外考えていなかったし、ノイモーントもフォーゲルシメーレもヴォルフも、シュヴァルツが出て行った後に呆気にとられていたし……。シュヴァルツの事を知っている人からすると、シュヴァルツの行動は予想外も予想外、奇妙な行動だった。
「何、考えてんだか……」
「竜王様、突然の事で戸惑っていらっしゃったのかもしれませんね」
ラインヴァイスは苦笑しながらそう言った。戸惑うって、シュヴァルツが? そんな可愛らしいキャラでしたっけ?
「シュヴァルツに限って、それは無いでしょ」
「ああ見えて、繊細な所もおありなのですよ?」
繊細だって? シュヴァルツが? それこそキャラじゃない!
「ラインヴァイス。念の為に聞くけど、繊細な人ってどういう人か知ってる?」
「ええ。無論です」
ラインヴァイスってば、大真面目な顔で頷いているけど、繊細の意味、はき違えていないよね? 大丈夫だよね? 何だか心配になってくるんだけど……。
「アオイ! お風呂、沸いたよ!」
「あ、うん。ありがと、アイリス」
嬉しそうに洗面所から飛び出して来たアイリスを見て、私の脳裏にふと、ある疑問が湧いた。
「ねえ、ラインヴァイス?」
「何でしょう?」
「私、仕事しなくて良いの?」
そう。私、この城に来てから仕事らしい仕事はしていない。こんな小さなアイリスですらメイドになったんだ。私、このままじゃダメな大人じゃない? これは良くない!
「ああ、そうですねぇ……。アオイ様は竜王様の客人扱いですので、仕事をする必要は無いのですが……。どうしても仕事が欲しいとおっしゃるなら――」
「なら?」
「竜王様の専属メイドでもします? 私も助かりますし、竜王様もお喜びになると思いますが?」
小首を傾げつつ、ラインヴァイスは無邪気な笑みを浮かべた。私はというと、口に含んでいたお茶を盛大に噴き出し、咽込んでいた。く、苦しい……! 突然何て事を言うんだ、少年!
シュヴァルツの専属メイドとか、絶対にダメだ。私は元の世界に戻るんだ。シュヴァルツとは、その時にお別れなんだ。これ以上親密になったら、元の世界に戻る時に悪影響にしかならないじゃない。
「私、メイドのメイド?」
アイリスがポツリと呟き、しょぼんと項垂れた。そ、そうだよ! アイリスの立場だって、よく分からないものになってしまうじゃない! メイドのメイドって、どういう事よ!
「ああ。その点は心配ありませんよ、アイリス。竜王様の専属メイドといえば、竜王様の信任が厚い証拠ですし、雑務をこなす私と同じような立場です。アオイ様はこの城の要人と言っても差し支えなくなり、アイリスも今より出世ですよ」
「出世……!」
ちょっと、少年! 純真無垢なアイリスを丸め込もうとしないの! 出世って言葉に反応して、目をキラキラさせているじゃない!
「ちょっと! 私、シュヴァルツのメイドなんて絶対に嫌よ!」
「竜王様が喜び、私も助かる。そして、アイリスが出世する。こんな良い仕事、他に無いと思うのですが?」
くっ! ラインヴァイスが何時に無く強引だ。さては、何が何でも私をシュヴァルツの専属メイドにする気だな!
「嫌だって! 魔術、勉強する時間、無くなりそうだし!」
「そこは時間を上手くやりくりして頂いて――」
「シュヴァルツのメイドなんて、絶対に嫌!」
私はそう叫ぶと、洗面所に逃げ込んだ。ラインヴァイスってば、唐突に変な提案するんだから! でも、シュヴァルツを説得するには、私も何か出来る事を探さないといけないだろう。私は魔術を学ばせてもらう立場なんだから。世の中、ギブ・アンド・テイクだもん。
お風呂から上がった私は、アイリスにローズオイルをなじませながら髪の毛を梳いてもらっていた。すると、何の前触れもなく、虚空からシュヴァルツが姿を現した。あんまりにも遅いから、今日はもう来ないんじゃないかなと思ってた。でも、心の準備は出来ている。交渉、頑張るぞ!
「小娘、去ね」
シュヴァルツがアイリスを睥睨する。可哀想だからアイリスを睨むのはやめてあげて。シュヴァルツってば、いくら機嫌が悪いからって大人気無いと思うの……。
アイリスは小さく震えながら、シュヴァルツにぺこりと頭を下げると、足早に部屋を後にした。あーあ……。部屋に帰って泣いてないと良いなぁ。シュヴァルツが来る前に、早めに部屋に帰すべきだったな……。大失敗だ。でも、明日の申し送りとかあるだろうし、この後ラインヴァイスが様子見に行くよね? 任せておけば大丈夫かな……。
鏡台の前に座る私を、シュヴァルツが鏡越しに睨んでいた。不機嫌オーラ全開で。私の背後ろから、嫌~な空気が漂ってくる。でも、負けない!
「アオイ、どういうつもりだ。何故、騎士になりたいなどと」
「私もアイリスと一緒に魔術、習いたいの」
そう答え、私も負けじと鏡越しにシュヴァルツを睨み返した。ここで目を逸らしたら負けだ。正面きっての睨み合いより幾分マシな状況だ。頑張れ、私!
「正気か」
「うん。私、本気だよ」
私が頷くと、シュヴァルツの眉間に深い皺が寄った。おお、今日一番の怖い顔になった! って、感心している場合じゃなかった! これ、不味い状況じゃない?
「あの――」
私が口を開くか開かないかのタイミングで、シュヴァルツが私の手首を掴んだかと思ったら、思いっきり引っ張った。椅子から転げ落ちるのは何とか堪えたけど、半ば引きずられるようになる。ちょっ! 痛い、痛い! 腕がもげる!
「シュヴァルツ! 離して! 痛い! 痛いってば!」
私の叫びを無視するように、シュヴァルツはずるずると私を引きずって行く。そして、立ち止まったかと思ったら、思いっきり私の腕を引っ張った。
「きゃっ!」
前方に投げ出されるようになり、この後訪れるだろう衝撃に目を閉じて身を固くした私だったが、衝撃は思いのほか弱いものだった。痛くない……。そう思って投げ出された場所を確認する。あれ? これ、ベッドの上……?
「何故」
シュヴァルツが、ベッドの上で仰向けに倒れたままの私の身体にのしかかってきた。そして、私の両手首を一纏めにすると片手で押さえつけるように掴み、空いている方の手で私の顎を掴む。ちょ、ちょっと待った! 近い! 近い! 顔が近い! ちょっとでも動いたら唇が触れ合うくらいの距離なんですけど!
「ちょっと! シュヴァルツ!」
顔が熱い。私の顔、絶対に真っ赤だ。シュヴァルツは私の動揺などどこ吹く風で、ジッと私の目を見据えている。目がマジだ! 物凄く身の危険を感じる状況だよ! どうすんのよ、これ!
「何故だ。己の身を危険に晒す道を選ぶ程、ラインヴァイスが大切か」
シュヴァルツが苦々しそうに口を開いた。ちょっと落ち着こう。まず、何でラインヴァイスが出て来る! おかしいでしょ! 脈絡無さすぎるでしょ!
「シュヴァルツ、何言って――」
私の言葉は途中で遮られた。あろう事か、私の唇をシュヴァルツが自身の唇で塞いだのだ。んぎゃ~! 〇×△※□♯%§!
「ちょっ――んっ!」
この前の触れるだけの優しいキスとは違う。苛立ちをぶつけるような荒々しいキス。何とかシュヴァルツから逃れようとするも、手の拘束が解けない! 足をばたつかせてみるも、全く意味が無いどころか、シュヴァルツが私の足の間に身体を入れてきた。そして、顎を掴んでいた手が離れたかと思うと、暴れて乱れてしまったネグリジェの裾をたくし上げた。私の首筋にシュヴァルツが顔を埋める。ふわりとシュヴァルツから香ってくる薔薇の香りが、私の鼻孔をくすぐった。すぐ耳元でシュヴァルツの息遣いが聞こえる。突如、ピリッとした痛みが首筋に走った。私の太腿を撫でるシュヴァルツの手が、ゆっくりとだが、着実に上に上がってきている。
何? 何でこんな事……。シュヴァルツがこんな事、するなんて……! 怖い。怖い、怖い、怖い! 嫌だよ! 怖い! 恐怖とか嫌悪とか、色々な感情が入り混じって、涙で視界が滲んできた。身体の震えが止まらないよ……。
「やっ……やだ……! ゃめ……て……ぉねが……!」
私がボロボロと涙を流しながら懇願すると、シュヴァルツの手が止まった。私を見つめるシュヴァルツの瞳に浮かぶのは、動揺……? いや、後悔……? 何でそんな辛そうな顔、するの……?
「……すまなかった」
シュヴァルツはそう呟くと、ゆっくりと私から手を離した。そして、ベッドから降りると身を翻す。
「ちょっ、待っ……! シュヴァルツ!」
私は上体を起こし、咄嗟にシュヴァルツを呼び止めた。シュヴァルツの肩が、ぴくりと震える。
「わ、私の、言い分くらい、き、聞いてからかえ、帰りなさ、さいよ。わた、私、シュヴァルツが来るの、待って、たんだから」
私は目元の涙を袖でグッと拭うと、シュヴァルツの背中を睨み付けた。まだ身体の震えは止まらない。声だって震えている。でも、負けない!
「私、私は、こ、このまま、む、無力でいた、いたくないの」
声が裏返っているし、涙声だけどそんなの気にしていられない。どうにか、私が魔術を習う事をシュヴァルツに認めさせないといけないんだから!
「わ、私、大切な人を、ま、守れるようになり、なりたいの!」
私が無力なばっかりに、誰かが怪我をしたり死んだりするなんて嫌なんだ。それだったら、私も一緒に戦いたい。一緒に傷つきたい。私に出来る事をして、後悔だけはしたくない。戦える力が欲しい。
「私は、自分の為に魔術を、なら、習いたいの! ラインヴァイスは、関係ない! ううん、か、関係、な、無くは無いけど、それはま、また、こう、後悔、したくないからで……!」
ああ、興奮してまた涙が出てきた。拭っても拭っても、涙が止まらないよ。涙腺が壊れちゃったみたいに、次から次に涙が溢れてくる。シュヴァルツが、そんな私を振り返ったかと思うと、私の頬に手を伸ばした。親指で目元の涙を拭ってくれる。
私を見つめるシュヴァルツの目が、さっきよりも幾分優しげだ。頬に触れる手が温かい。大きくて、ごつごつと骨っぽくって、頭を撫でられると心が落ち着く手。私を傷つけるんじゃなくて、こうやって優しく触れて慈しんでくれる手。さっきまでの恐怖とか嫌悪とかが嘘みたいに治まっていく。私はその手に自分の手を重ね、甘える猫のようにすり寄った。安心する……。
「……アオイ。大切な者とは」
「みんな。シュヴァルツも、ラインヴァイスもアイリスも、この城のみんなも、孤児院のみんなも」
「そうか。皆、か……」
「うん、みんな。この国の人達、ううん、この世界の人達も、みんな。みんな守りたいの」
「それがお前の選ぶ道なのか」
「うん……」
頷く私の頭を、シュヴァルツが優しく撫でてくれる。壊れ物に触れるみたいに優しい手つき……。
「シュヴァルツが私の事、守ってくれているのは分かってるの。その想いを踏みにじる事だっていうのも……。ごめんなさい……」
「いや。……明日より、赤毛の小娘と共に魔術を習うと良い」
「ありがとう、シュヴァルツ」
「ああ」
シュヴァルツは短く返事をすると、徐に私の目の下に唇を寄せた。そして、ばさりとマントを翻し、虚空に消える。
私の顔、今、茹蛸みたいになっている気がする……! 油断した! いや、それよりも、さっき――! いや、あの事は忘れよう。でも、押し倒されたんだよね? いやいや、思い出すのはやめよう。でも、キスされて太腿触られて……。いやいやいや、思い出したらダメだ! でも――。
その夜は、目が冴えてしまってなかなか寝付けなかった。次の日、寝坊した私を、ラインヴァイスが意味深な笑みで見つめていたのは、また別のお話。




