契約 1
目を覚ました私は、大きく伸びをし、ベッドから降りて洗面所へ向かった。この後、いつも通りラインヴァイスが朝食を持って来るだろうし、準備が出来た頃にはシュヴァルツも来る。乙女の嗜みとしては、顔くらい洗っておかないとね。
昨日、お城の中を駆け回ったにもかかわらず、特に筋肉痛も無く、体調はすこぶる良い。これが勇者補正ってやつか。今の私が百メートルを全力疾走したら、何秒くらいでゴールするんだろう。ちょっと気になる。
洗面所の水栓を捻り、私はふと手を止めた。そして、左手の中指に嵌っている指輪を目の前に掲げて眺める。昨日、シュヴァルツに無理矢理嵌められた指輪だ。指輪があるって事は、あれは夢じゃないんだよね。気が付いたらベッドで寝ていたし、夢かなって思っていたんだけど……。黒く光る気持ち悪い模様がここから広がって……。体のどこかにあの模様、残っていたりとか……。私はハッとなってネグリジェを脱ぐと、鏡で全身をくまなくチェックした。前は大丈夫そう。後ろは……。よし、大丈夫。何も無い。
ネグリジェを着直して洗面所を出ると、ラインヴァイスがテーブルに朝食を並べているところだった。一人分。そっか。今日はシュヴァルツは来ないのか……。はッ! これじゃ、私が残念がっているみたいじゃない。残念がってないよ! 全然、残念がってなんだから!
「おはようございます」
ラインヴァイスは私を見て少し驚いたように目を見開いた後、深々と頭を下げた。いつもの可愛らしい笑顔での挨拶は無し、か……。やっぱり昨日の事、まだ怒っているんだね。自分でまいた種とはいえ、少し寂しい。私は小さく挨拶を返し、ラインヴァイスが引いてくれた椅子に腰掛けた。
「頂きます」
そう言って手を合わせた私を、ラインヴァイスがポットを持ったまま呆然と見つめている。いつもなら、すぐにお茶を淹れてくれるのに。どうしたの?
「あの、ラインヴァイス……?」
私は動きが止まったままのラインヴァイスに遠慮がちに声を掛けた。ラインヴァイスはハッとしたように頭を下げると、すぐにお茶を淹れてくれた。私は朝食に口を付けつつ、ラインヴァイスの様子をこっそりと窺った。いつも通りてきぱきと給仕をしてくれるラインヴァイスだったが、時折私の手元に目がいっている。今日のラインヴァイス、何か変。怒っているとかいないとか以前に、挙動不審だ。
「今日、どうしたの?」
私が食後のお茶を飲みながらラインヴァイスに声を掛けると、ラインヴァイスは小さく首を傾げた。この仕草、いつも通りのラインヴァイスっぽい。少しだけホッとした。
「竜王様ですか?」
ラインヴァイスの予想外の発言に、私は思わずずっこけそうになった。そんな私を尻目に、ラインヴァイスはニコニコと可愛らしい笑みを浮かべている。
「アオイ様にお気を遣われたようです。本日はお疲れだろうから、と。いやぁ、そうならそうと、初めから仰って下されば、私だってもう少し遅いお時間にお伺いしましたのに」
私はまじまじとラインヴァイスの顔を見た。シュヴァルツが来ない事といい、ラインヴァイスの今の発言とご機嫌な様子といい、色々と解せない。私が疲れているって、何で? 昨日、お城の中を走り回ったから? でも、昨日の事を言っているなら、何でラインヴァイスはこんなにもご機嫌なの?
「何か……言っている事がよく分からないんだけど……」
私が眉間に皺を寄せると、ラインヴァイスは不思議そうに目を瞬かせた。
「その指輪」
「指輪?」
ラインヴァイスが示す先、左手中指の指輪に目を落とす。昨日、シュヴァルツに無理矢理嵌められた指輪。これから気持ち悪い模様が広がって――。思い出したら寒気が……。
「ええ。契約印ですよね、それ」
「契約印?」
はて? 契約印って何だ? 契約って、何の契約? 私は聞き慣れない単語に首を捻った。
「竜王様の魔力を結晶化させた石ですし、てっきり、その……」
ラインヴァイスは頬を赤く染め、言い難そうにもじもじとしている。何故、そんな顔をする! 言いたい事があるならはっきり言いなさい。男の子でしょ!
「何?」
「いえ……ええと、契約印はですね、己の魔力を相手の体内に流し、所有契約をするマジックアイテムで……その……」
「何それ! 無理矢理嵌められたから何も聞いてないよ!」
所有契約って何よ! 私、シュヴァルツの所有物じゃない! 私は指輪を引っ張り、どうにかこうにか外そうと試みた。しかし、指輪は一向に外れる気配が無い。ピッタリと指に吸い付いているみたいに全く動かないし。何、これ?
「も、申し訳ありませんでした。下種の勘ぐりだったようです」
またしても不可解な台詞を吐き、ラインヴァイスは私に深々と頭を下げた。今日のラインヴァイスはよく分からん! こうなったらシュヴァルツを直接問い詰めてやる!
「何をしている」
部屋に姿を現したシュヴァルツの第一声はそれだった。見て分からないかなぁ。指輪、外そうとしているんだよ。
私は手にしたローズオイルを置き、傍らのタオルっぽい布で手を拭った。そして、正面に腰掛けたシュヴァルツを睨む。シュヴァルツは私の視線に怯む事無く、腕を組んで偉そうにソファにふんぞり返っていた。
「これ、外して」
私が左手を掲げると、シュヴァルツは足を組んで口角を片方上げた。
「出来んな」
予想通りの答えだ。私はがっくりと項垂れた。シュヴァルツのこの言動、絶対に嫌がらせだと思うの。
「じゃあ、せめてこの指輪の事、説明して……」
私が脱力しながらそう言うと、シュヴァルツはスッと目を細めた。
「ラインヴァイスに聞いたのか。どこまで聞いた」
「所有契約の為の契約印だって。私、あんたの所有物になった覚えは無いんだけど?」
「そうか。私もアオイを所有物にした覚えは無い。ただ、目印が必要だと思ってな」
私はシュヴァルツの説明に首を傾げた。目印って、何?
「目印?」
「そうだ。それがあれば、アオイがどこにいるか手に取るように分かる。じゃじゃ馬の手綱には丁度良いだろう」
「じゃ――!」
「それに。それをつけていれば自由と安全は保障してやろう」
私は眉を顰めてシュヴァルツを見つめた。自由と安全ってどういう事?
「あまり離れられると正確な居場所が分からなくなるが、城の中なら問題無い。自由に出歩くと良い」
「りゅ、竜王様!」
叫んだのはラインヴァイスだった。ギョッとした表情をしている。予想外のシュヴァルツの発言に、私は呆然としてシュヴァルツを見つめた。城、自由、出歩く……? 脳内処理が追いつかない。シュヴァルツはというと、呆然とする私と焦るラインヴァイスを尻目にソファから立ち上がった。
「その指輪さえあれば、アオイに危害を加える者は排除出来る」
「ですが――!」
「アオイ、着替えろ」
シュヴァルツは食い下がろうとするラインヴァイスを無視し、私にドレスを投げよこした。呆然としたままの私の視界が布で遮られる。今日はオレンジ色のドレスなのね。何故か、そんなどうでも良い事を思ってしまった。




