逃走 1
薄暗い部屋で目を覚ました私は、窓際に立つと溜め息を吐き、真紅のカーテンを開けながら外の景色を見やった。まだ日が完全に昇り切っていないのだろう、空が薄暗い。白銀の世界という表現がぴったりな極寒の地。遠くに見える、家と思しき小さな雪の塊は、もう煙を吐き出している。
私は窓から離れると、クローゼットを開いた。だだっ広い空間に色とりどりのドレスが掛かっている。その中からピンクの膝丈ドレスと、なるべくヒールの低い靴、いくつかの装飾品を取り出し、静かにクローゼットを閉めた。
シュヴァルツは朝食が終わると、毎日ドレスや靴、ここ数日に至っては装飾品までも持って来ていた。お蔭で、クローゼットの中は様々な形や色のドレスが掛かっている。その中で、一番動きやすいのが、このピンクの膝丈ドレスだ。手早くそれに着替え、装飾品をポケットに突っ込むと、私は朝食の準備をしに来るラインヴァイスを待った。
ここ一ヶ月の事を思い出すと、思わず溜め息が出てしまう。シュヴァルツは毎日のように、私を図書館や農園に連れ出した。そして、動物から始まり、野菜や穀物、果樹などなど、私の世界とこちらの世界のそれらの違いを一つずつ確認していた。一体何が目的なのかよく分からない。べへモスとかワームとか、実物なんて見たくなかったのに無理矢理見せられたし。その日の夜、べへモスとワームに襲われる夢を見てうなされたじゃないか!
それに、図書館や農園にいる時以外――食事時はラインヴァイスが来てくれるにしても、それ以外はこの部屋の中で独りぼっちだ。一日の半分以上の時間、話し相手もいない、テレビなんて勿論無い、こんな部屋で、だ。もう限界!
私は扉の横にちょこんと座り込み、ラインヴァイスの足音が聞こえてくるのをただひたすら待った。どれくらい待っただろうか、階段を上る足音が聞こえ、すぐ近くで止まったかと思うと扉をノックする音が響いた。続いて鍵をガチャリと開ける音が聞こえる。私は大きく深呼吸をし、逸る気持ちを抑え、ジッと気配を殺して扉が開くのを待った。
「失礼致します」
ラインヴァイスが頭を下げてから部屋の中に入った時、私は動いた。
横から思いっきりラインヴァイスにタックルをする。大きくよろけるラインヴァイスを横目で捉えながら、開きっぱなしだった扉から部屋の外に出た。
「あっ! アオイ様!」
後ろからラインヴァイスの慌てた声が響くが、勿論止まってあげるつもりは無い。私は一目散に階段を駆け下りた。やっと自由になれる。そう思うと、自然と顔がにやけてしまう。でも、城の外に出るまでは油断禁物。何たって、ここは大魔王城なんだから。
長い階段が終わり、広い廊下に飛び出した私は、迷わず右に向かって走り出した。何故、右かって? 女の勘です。とにかく、下に続く階段を探さなければ!
長い廊下を暫く走っていると、だだっ広いホールのような場所に出た。そこには赤い絨毯が敷かれた、大きな階段がある。シャンデリアと大きな窓から差し込む朝日でキラキラと輝いている大ホールは、おとぎ話に出てくるような素敵な造りだ。ここなら舞踏会も絵になりそう。ただし、階段からは見目麗しい王子様ではなく、美形だけど傲慢そうな大魔王様が登場するけどね。
ふと目をやった先、階段の後ろの壁には大きな絵が飾られていた。その絵に一瞬、目が奪われる。その絵には三人の人物が描かれていた。向かって右には今より若いシュヴァルツ。たぶん、十代後半から二十歳そこそこ。そして、左側には今より少し幼いラインヴァイス。十代前半くらいだろうから、立派な少年だ。そして、中央には目つきが少々きつい、幼い美少女が描かれている。そう、薔薇園の夢に出てくる美少女だ。ここの所、薔薇園の夢を見なかったからすっかり存在を忘れていたけど、一体誰なんだろう? もしかして、シュヴァルツの親戚とか?
遠くの方で幾つかの足音が聞こえ、私はハッと我に返った。ヤバい、もう追ってきた! 私は慌てて赤絨毯の階段を駆け下り、正面の大きな扉に縋り付いた。ドアノブが見つからない。ダメ元で全体重を掛けて押してみるが、大きな扉はびくともしなかった。
「アオイ!」
シュヴァルツの声に、私が弾かれたように振り返ると、たった今、私が下りてきた階段をシュヴァルツが駆け下りてくるところだった。私は目の前の扉を開ける事を諦め、左手に見える広めの廊下を駆け出した。後ろからシュヴァルツの舌打ちが聞こえる。舌打ちしたいのはこっちの方だ!
暫く廊下を進むと、廊下の先がT字に分かれていた。壁際に身を寄せ、廊下の先をそっと窺う。すると、右手側の奥に、シュヴァルツの姿を捉えた。先回りされたか……。シュヴァルツはきょろきょろと辺りを見回している。私がここにいるのはまだ気が付いていないらしい。私はそっと身を翻し、今来た道を戻った。
ホールまで戻った私は、反対側の廊下へ駆け込んだ。さっきの廊下と違い、こちらは少し狭く、分かれ道がたくさんあった。右へ左へとでたらめに曲がりながら先を進む。あちらこちらから、バタバタと騒がしい足音が聞こえてきている。時に足音と反対方向へ、時に立ち止まって足音をやり過ごしながら、私は廊下を進んでいった。
「アオイ!」
再びシュヴァルツの声が聞こえ、正面の廊下にシュヴァルツが突然現れた。私は反射的に踵を返し、再びでたらめに曲がりながら廊下を駆け抜けた。そして、暫く走ったところで辺りの様子を窺う。
石造りの廊下は古いせいか薄暗く、不気味な雰囲気だ。たくさんある古い木の扉も薄気味悪い雰囲気を醸し出している。お城というより、砦という雰囲気の廊下だ。さっきの大ホールとは大違い。これぞ、大魔王城ってカンジ。
遠くの方で、ゆっくりと歩く足音が一つ聞こえる。あれは、シュヴァルツの足音っぽいな……。シュヴァルツに捕まったら、良くて元の部屋で缶詰生活に逆戻り。最悪の場合、その場で殺されるなんて……。考えるのはやめよう。捕まらなければ良いんだから。私は慎重に足音を忍ばせながら、シュヴァルツの物と思われる足音とは反対の方向へ進んだ。
分かれ道に差し掛かり、私は立ち止まって角の先を窺った。足音は聞こえていない。人の気配も無い。でも、シュヴァルツは虚空からいきなり現れるから、念には念を入れないとね。そう思っての行動だったけど、それが功を奏した。何と、分かれ道の先にシュヴァルツが丁度姿を現したところだった。シュヴァルツがこちらに歩いて来る気配がし、私はそっとその場を後にした。
右へ左へと角を曲がりながら、私は身を隠せそうなところを探した。体力が限界だ。走り続けて息が切れているし、何といってもお腹が空いた。神様、何か食べる物を恵んで下さい!
そんなアホなお願い事をしながら廊下を進むと、そこは袋小路だった。でも、正面に小さな木戸がある。粗末な木戸は外に通じている裏口か、はたまた物置か何かか。少し戸惑いながらも、私が木戸を開くと、そこは見覚えのある場所だった。
真紅の薔薇が咲き乱れる小道。これ、私がこの世界に来た初日に迷い込んだ薔薇の迷路? 何かに誘われるように小道に足を一歩踏み入れると、パタンと木戸がひとりでに閉まった。
「え?」
突然の事に混乱している間に、スッと木戸が消えていく。木戸が消えた後には、周りと同じ薔薇の生垣があった。 な、何? 何で? どうしてこんな……。何が悲しくて薔薇の迷路に迷い込まないといけないの? この先にあるのは、シュヴァルツの薔薇園だってのに! 最悪だ。ヤバい、涙が出てきた……。
私は崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。もう外に出るのは諦めるしかないの? そう思うと、次々涙が溢れてくる。目元の涙を袖で拭っていると、突如、私の上に影が落ちた。
私がのろのろと顔を上げると、不機嫌そうに顔を歪ませたシュヴァルツが私を見下ろしていた。こ、怖い……。不機嫌オーラを纏わせたままこちらに来たシュヴァルツが私の傍らで屈んだかと思うと、乱暴に私の腕をを掴み、引っ張り上げるようにして私を立ちあがらせた。そして、私の腕を掴んだまま歩き出す。足を突っ張ったり腕を振り払おうとしてみたり、少しだけ抵抗してみたが、力ではシュヴァルツには適わない。引きずられるようにして暫く歩くと、開けた場所に出た。遠目に白いガゼボが見える。シュヴァルツは真っ直ぐガゼボに向かっているようだった。
ガゼボに着くと、シュヴァルツは私を突き飛ばすようにベンチに座らせた。芸術品のように綺麗な顔で、私を見下ろすように睨んでいる。蛇に睨まれた蛙のように、私は身動きも取れず、ただただシュヴァルツのアメジストのような紫色の瞳を見つめる事しか出来なかった。
「ラインヴァイス」
シュヴァルツが小さく呟くと、ラインヴァイスが虚空から姿を現した。ラインヴァイスはすぐに地面に片膝を付き、顔を伏せる。何だか、ラインヴァイスから悲壮な雰囲気が漂ってくる気がする。私が逃げたせいで責任を取らされるのは、間違いなくラインヴァイスだから当たり前、か……。シュヴァルツってば、この場でラインヴァイスを切り伏せたりなんて、しないよ、ね……? 急に不安になって、私はシュヴァルツとラインヴァイスの間で視線を彷徨わせた。
私が逃げたせいでラインヴァイスが殺されるとか、寝覚めが悪すぎる。シュヴァルツをどうしたらなだめられるだろう? 何か言って逆効果になったら……。でも、ラインヴァイスを見捨てるなんて出来ないし……。ど、どうしよう……!
もし、もしも、シュヴァルツがラインヴァイスを斬ろうとしたら? ……後ろからシュヴァルツに蹴りを入れてラインヴァイスと逃げる、とか? そうだ、それだ、そうしよう! 私は固唾を飲んで、シュヴァルツの動きを注視した。
「――食事を」
ちょ、ちょっと待て。シュヴァルツ、今、何て言った? 私の聞き間違いじゃなかったら、食事って言った? どういう事ですか? お咎めは特に無いって考えて良いの?
呆気にとられながらも、私が片膝を付くラインヴァイスへ視線をやると、ラインヴァイスも私と同じように呆気にとられた表情でシュヴァルツを見上げていた。
「聞こえなかったのか。食事を用意しろと言った。今すぐに」
「は、ははっ!」
ラインヴァイスは慌てたように立ち上がり、次の瞬間には姿を消していた。ラインヴァイスも、さっきのシュヴァルツの発言は、流石に予想外だったんだろうな。何、考えてんだか……。
私は正面に腰を下ろしたシュヴァルツの表情をそっと窺った。腕と足を組み、不機嫌そうに眉間に皺を寄せるシュヴァルツは、それでも絵画のように絵になっていた。ホント、美形はどんな表情でも絵になるね……。




