船底を突く有頂天
夕暮れ。
鳥の囀りさえも聞こえなくなったこの時間。
まるで天幕でも降りたかのような薄暗い空間。
だのに、不気味さを感じさせない神聖な空気が漂う中、青年は立ち尽くしていた。
目の前には守り神様。
よく見てみれば発光しているのが分かるが、青年には知る由もない。
コレから知ることも無い。なんせ、コレはこれから光を失うのだから。
青年は……手が出ないでいた。
この期に及んで、悩んでいるのだ。少女と約束したのにも拘らず、悩んでいた。
悩むのは仕方がない。
何故なら、青年の双腕には先の集落の全ての命が乗っているのだから。
……否、青年にとって少女を除いた全ての命と言った方が良いだろう。
だからとは言わない。
しかし、それが一つの理由で、青年は抜けないでいた。
実際抜けるのかも青年にはわからない。日が落ちる前に試した時には抜けなかった。
だからとは、言わないが。
「……自分は」
「抜かないのか?」
「……英雄殿」
日も、もう少しで落ちるというところ。
未だ、抜くことも、引き返すことも決心がつかない青年の元に現れた人物。
青年が自らの師と仰ぐ男。枕木智也だ。もっとも、皆の中では。枕木ではなくマクラギなのだが。
この世に枕木智也は存在していない。存在していても良い存在なのに。
「なんだ、迷っているのか」
「……英雄殿は、これが何なのか知っているのでありますか?」
「知っているさ。村長から聞いてきた。そんで、今がその時だって、言ってたからよ」
枕木、いやマクラギは守り神様を挟むようにして青年の前までに歩いてきた。
目の前には己の師と約束をした戒めの杭。手に汗がにじんでいる。油汗だ、ねっとりとした、嫌な。
その手を伸ばせば届く。しかし、青年の眼にはそれがとてつもなく遠いところにある。
マクラギは青年の眼をジッと見ている。
マクラギが抜こうと思えば抜けるかも知れないのに、マクラギは抜こうとしない。
マクラギは、ただジッと枕木の弟子を見つめている。見つめているだけで、何もしない。
「それを抜けば、後戻りは出来ない」
「……知っているであります」
「手を伸ばさなきゃならない」
「知っているであります」
「お前は、約束し――」
「知っているでありますッ!!!」
青年は己の師に問い詰められるような物言いに耐え切れず、考えるよりも先に叫んでいた。
己がこれまでに出したことの無い大声と、焦りの色が見える声色。それに気付いた時、青年は酷く絶望した。
これまで、青年は泣き言を言えど、追い詰められて焦ったことは一度も無かったのに。
今、青年は生まれて初めて、この世に生を受けて初めて、自分のやることに対して迷いが請じているのだ。
そんなことにならないために、そんな考えに至らないために己を鍛えてきたはずなのに。
この師を得て、さらに磨きが掛けられていたはずなのに。
それなのに、この期に及んで迷っているのだ。
「じ、自分は……じぶんは」
「……抜きたくなきゃ、抜かなきゃいい」
「……へ?」
そんな迷っている青年の心に、更に迷いを差す一言がマクラギの口から放たれた。
当然、それを聞いた青年は真意が分からずに困惑する。噛み締めて、反芻してみるが、分からない。
なんのために、そんなことを言っているのか。彼にはわからなかった。
「選ぶのはお前だ。抜くも帰るも、お前次第だ」
「……そんな」
己の手に掛かっている。
文字通り、あの集落に住む魔物たちの命が、青年の両手に掛かっている。
生きるも死ぬも青年次第。それを齢十九の青年に委ねると言うのだから、酷な話なのだろう。
実際、そう言われてから青年には更に迷いが見える。
手はカタカタと震え、歯もカチカチと鳴っている。嫌な汗も掻いていることが分かる。
それでもマクラギは、黙して青年の選択する未来を待っている。
どれだけ時間が経っただろうか。
辺りには闇の帳が落ち、頭上の月だけが辺りを照らしている。
守り神様は依然として光っていたが、月の光にさえ負ける光量のため、よく見なければわからない。
平静を失っている青年には、気付くはずもない。
やがて、青年は押し潰された。
「じ、自分には無理であります!」
それは本心に違いない。
誰が、罪の無い者たちを殺すことを良しとする者がいるのか。
誰が、青年にこんなことを強いるのか。
誰が、少女が愛した土地を壊せと言うのか。
殺す謂れは無い。
ここで見逃したって、罪は無い。
そんな考えに、青年は辿り着いたのだ。
「国にはもう集落は跡形も無くなっていたと報告するであります!」
「……それで、どうするんだ?」
「そ、そうすればここの魔物たちは生きていくことが出来るであります! そして、魔物として生きていくのであります!」
「その本人たちが、魔物で生きることも、人間として生きることも、出来ないと判断しているんだぞ」
「それでも! 自分たちが殺して良いわけがないであります!」
余計な殺生はするな。
それは遥か子供のころに学んだことであり、一般的教養のある人ならば必ず学ぶ道徳。
命を労わり、感謝し、時には食す。人としての常識。それを、青年は忘れていなかった。
この場では、それが正解なのだろうか。
数ある正解のうちの一つなのだろうか。それは青年にはわからない。
しかし、世界で見れば正解なのだろうが、ゲームでは正しくない。
そう、このシフトワールドでは。
「そうか、なら、それで良い」
「っ、で、では!」
「ならば、代わりの誰かが、彼らを殺すだろう」
「へ……?」
それが、設定。
それが、イベント。
それが、シフトワールド。
台本通りに進まなければバグとなる。
バグを回避するには台本通り進まなければならない。
もっとも、システム上……バグが発生するルートなど、この世界にありはしない。
ここで、青年が手に掛けなければ代わりの誰かが手に掛ける。
そうすることで結末を迎える。集落が滅ぶという結果に。元々、集落が残る結果は無いのだから。
「何故でありますか!?」
青年には理解が出来なかった。
それはそうだ。それを知らないのだから。
だが、目の前に知るマクラギは違う。知っている。
全て知っているからこそ、そう言える。
心を鬼にして、そう言う。
「どう足掻いたって死ぬ。滅ぶ。そう決まっているから」
「な、なんでそんなことを言うでありますか!」
「決まっているからだって、そう言っているだろ」
「そんなの、分からないであります!」
「分かる分からないじゃなく、決まっているんだ」
「……っ……英雄殿ぉ! 見損なったであります!」
青年からしてみたら、自分の尊敬する師からそんなことを言われるとは思っても見なかったのだろう。
いや、自分の師だからこそ、青年の味方をしてくれる。きっと、賛同してくれる。
そう一方的に信じていたからこその、落胆。失望。絶望。
だから、怒りを露にするのか。
「お前はそれを抜く。抜かざるを得なくなる」
「そんなことにはならないでなります!」
「ハナちゃんと約束したんじゃないのか?」
「ハナ殿は生きるであります! そう約束したであります!」
「そうだよな。ハナちゃんは生きる。そして、お前以外の誰かに殺される!」
「口を閉じるであります! 幾ら英雄殿であろうと、赦されないでありますっ!」
「決まっているんだ」
「誰が決めたでありますか!」
半ば掴みかかるようにマクラギへと迫る青年。
その頬には涙が流れており、とても苦悩しているのが見て取れる。
反対に、マクラギは無表情だった。
そんな能面みたいな表情から、こんな言葉が聞こえた。
「この世界を創った奴が決めたんだ」
「……そんな」
青年はそれを否定しようとしたが、否定できなかった。
青年は知っている。この世界では創生神が決めた理があることを。
スキルや職業。努力値や魔法など色々なこと。それらはこの世界を創ったものが決めたと言われている。
そんな理を創った者が、シナリオを作らないと誰が決めた。
「村長はその決まりを知っていたんだ。だからこそ、逃げなかった。逃げたとしても、直ぐに何かしらで死ぬことを知っていたから」
「そんな……そんな……」
そんなことは魔族でさえも知らなかったこと。
それはマクラギが吐いた嘘だが、あながち嘘ではなかった。
魔族は感付いていた。自らが滅ぶことを。ストレスで自害するにしても、何らかの作用が働いていることを。
「俺は、お前に“任せる”と言った。ハナちゃんのことを。この集落のことを。村長は、俺たちを待っていたんだ」
「……英雄殿も、知っていたのでありますか」
「……あぁ」
「そうで、ありますか」
「……後は、お前が選べ。ここでアイツらが魔物として、誇りを胸に死ぬも。ここで生き延びて、済し崩しに死ぬも。お前次第だ。俺はその選択に、なにも文句は言わない」
「……」
「じゃあな」
マクラギは項垂れる己の弟子を尻眼に、そこを後にする。
彼の言っていることは間違っていなかった。ここで青年が殺さなくとも、魔物たちは近いうちに死ぬ。
それでこの品色は終わりを迎える。それが決まったことだから。
それを、飲み込めと言われてもできることではない。
普通の人ならば耐え切れずに、立ち尽くしてしまうことだろう。
普通の人ならば。
しかし、青年は普通ではない。
シナリオに組み込まれ、光が当てられた者。
彼はそれを抜くことが出来る。抜くしかないのだ。
抜くことも、イベントのうちなのだから。
「……ゴメン、ゴメンであります……」
青年は、守り神に手を掛けた。