次元を越えた再会
「う、あ……」
酷い吐き気と頭痛で目が覚める。
目の前はブラウン管に磁石を近づけたような景色……否、自分の眼が正常に機能していないのか空間に赤黒い穴が空いているように見える。
平衡感覚も薄れ、自分が立っているのか寝ているのか、はたまた逆さになっているのかさえ分からない。
口内は涎で満たされ、絶え間なく口から垂れている。また、閉じることも叶わない。
声を出そうにも、か細い声すらも出ない。
それどころか、口の中にある涎で満足に呼吸も出来ない。苦しい。
視界の端に何か移るが、それが何なのか認識できない。人型なのか、だとしても人型はそんな形なのか、他の形とはいったい何なのだ、そんな調子である。
「気が付きましたか?」
何か音が聞こえた。
音とはそんなものだっただろうかと疑問に思ったが、激しい頭痛により考えるのを放棄してしまう。
そもそも言葉にするのに考える必要があると今気が付いた。何を考えれば良いのだろうか。
それすらも、放棄した。
俺はいったいどこにいるのだろうか。
自分のことが分かるが、そのほかのことが一切わからない。
思考することにより、脳内で言葉を作ることは出来るが、それを言葉にするにはどうすれば良いのか分からない。
言葉とは何なのか。俺が知っていることなのだろうか。
常識的とは知っている。しかし、常識とは何だ。
「ら、う、ら……」
「死に戻り、ですか。それも、かなりダメージが残っているようで……無理もありません。私のあのスキルを真っ向から受けたのですから」
また、音が聞こえた。
とても艶やかで、雑音が混じった音だ。今のは音なのか。
いったい、耳に入ってくるこれ何なのか。音、音なのか。音ってこう言うものだったか。
もっと別の何かではなかっただろうか。
「うべっ」
「大変! 気道確保しませんと!」
突如、喉が固形の混ざった液体で満たされた。
そのためか呼吸が出来なくなり、苦しくなる。目の前の闇が、さらに広がる。
そのすぐ後に頬に触れる柔らかな何か。唇にも感触を感じ、口や喉の中にある物が吸い出される。
そのおかげか、直ぐに呼吸が出来た。
口の中に酸っぱい味が広がる。
どうしたんだ。もしかして俺は吐いたのか。気持ちが悪い。
もしかしてってどうしてだ。なんでもしかして吐いただなんて思ったんだ。
頭が痛い。
「み、みず……」
「水? 水ですね。はい、少しずつお飲みください」
「あぶっ!」
「あぁ! そのような体勢では飲みにくいのですね? では、私の方に掴まり下さい」
喉が潤う。
器官に入ったような気もするが、そんなことはなかった。
下顎の辺りが酸っぱい感じも無くなった。なんだ、やっぱり俺は吐いたのか。
なら、なんで吐いたんだ。腹でも殴られたのか。
いや、この気持ち悪さだ。
気持ち悪い時には吐く時もあると思いだしたよ。
酒を飲み過ぎた時には……あぁ、思い出しても気持ち悪い。
「あ?」
「っ。見えますか? 私が見えますか?」
「あ、あ? ひめ、様?」
「えぇ、私です。死に戻りの混乱から立ち直ったのですね。思ったよりも早いお戻りで」
肺に新鮮な空気がやっと注ぎ込まれる。
目の前の景色も徐々に鮮明に映るようになり、女性の姿も見えた。
相も変わらずな気持ち悪さだが、正気を保てない程ではない。俺はここにいる。
頭が痛い。思いだそうとすると頭痛がするが、癪なので無理やり思い出そうとする。
あぁ、そっか。
姫様と戦って玉砕覚悟の作戦を決行して、玉砕したのか。
んでさ、目の前に何で姫様がいるんだろうね。
「姫様……」
「憶えていますか? 貴方は私と戦い、そして……死にました」
「あ? 死ん、だ?」
何を言っているんだ。俺が死んだだって?
あの戦いはHPが無くなる寸前で保たれるはずだ。
死ぬことが無い様に結界だって張ってるはず。それなのに死んだとはどういうことだ。
いや待てよ、この気持ち悪さは“死に戻り”か?
それならば説明がつく……が、そんなことはありえないはずの設定。
これ以上考えてみても分からないので姫様を見つめる。
今の体勢は姫様に上体を抱えられている状態なので、結構密着している。
ちなみに、今の姫様はドレスのような服を着ている。よく分からないが、シルクとかそういうものなのだろう。
そして、彼女の頬が少し赤く染まっている。チークでも塗っているのだろう。
「従来ならば、歴代の栄戦を近くで観ていた結界で命が保たれるはずなのですが……その、お恥ずかしながら溶かしてしまいまして……」
少し口を濁して語る姫様。罰が悪そうな表情は、彼女の侍女でさえ見る機会は少ないであろう。
しかし、言っていることは何とも物騒。口振りからして太古の昔に結界が張られて以来、一度も張り替えられることなく機能していたのだろう。
それほどまで強固な結界を、年が経つにつれて弱まっているとしても自身の焔で溶かしてしまったという。
それがどれだけめちゃくちゃなことか。
だが、それ説明がつく。
しかも、その熔けている光景をこの目で見たじゃないか。
確かにあの時、結界を熔かしていた。それでもあの時はその先のことについて頭が一杯だったから大して気にしていなかった。
そうか、だから俺は死んだのか。そして、初めての死か。金輪際御免だ。
死に戻りなんて二度と味わいたくない。
そもそも、かなりの大事件だと思うんだが。
恥ずかしいで済むのか、それ。
「で、ここは……?」
「ここは王宮内にある病棟です。私も、父も、兵士もここで診てもらっております」
「王宮……って、マジかよ」
その言葉に頭の中で記憶が廻る。
なんとここは王宮内にある病棟だという。この際病棟は重要ではない。
王宮にはあるイベントをこなせないと入ることが叶わないのだが、そのイベントがかなりめんどくさい上に、そのイベントを進めてしまうと他のイベントが優先できないという事態に陥る。
そのイベントというのはメインシナリオの赤の国富国強兵イベントだ。
それを進めるとなれば、他のメインシナリオは進めることが出来なくなるために、この王宮内に入るには相当の覚悟が必要になる。
そのイベントを無視して入ることが出来ているのだから、滅多にないチャンスだといえよう。
ちなみに、王宮内には宝物庫があって、そこにはユニークアイテムの“王家の指輪”がある。
もちろん、富国強兵イベントを勧めなければ入ることが叶わない。この機会だ、是非ともいただいて行こう。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、話を進める姫様。
心なしか姫様の体温が高いような気がする。
「そ、それでですね、実は私も……あの時、私と全く同じスキルを使った貴方によって、死にました」
「……は?」
一瞬言葉が理解できなかった。
比喩でも何でも無く理解できなかった。俺が姫様を殺したと言ったのか。
……そうか、あの時の《カウンター》で受け返した《竜神撃》で姫様のHPを削り切ったのか。
姫様の最強のスキル。耐え切ることはレベル百五十程度では出来ずに燃えカスとなるスキルを、さらに二倍にして受け返したんだから、当然とも言える。
…………あれ、これってかなりの重罪なんじゃね?
王族を殺すってその国では赦されざることなんじゃないのか?
え、もしかして俺、磔刑にされるの?
ゴルゴタの丘を十字架背負って上ることになるの?
「この、私が死んだのです!」
「ちょ」
姫様は掴みかかる勢いで俺の顔へ近づける。鼻先が当たりそうだが、本人は全く気にする素振りを見せない。
まるで今まで我慢していたのが我慢できなくなって爆発した様な変わりようだと思った。
目を見開かせ、興奮のためか少し息が荒い。頬は上気し、口端は弧を描いている。
何が彼女をそこまでさせるのか。姫様の興奮が冷める様子はない。
「今まで、私を負かすことが出来た者は【勇者】ただ一人。ですが、【勇者】も私を殺すことは出来ませんでした。ですが、ですが! 貴方は、私を殺すことが出来た……」
「は、はぁ」
なんでこうなっているのか分からない……いや、分かろうと出来ないが、一つだけ分かったことがある。
この女、少しじゃなくおかしい。自分が殺されて興奮しているなんて、どんな性癖だ。
「そのような方を私は……私が間違った道を進もうと、その道を止めてくれる。私が叶わぬ魔物が現れたその時は、私の代わりに退治してくれる。そのような方を……!」
いつまでも興奮が冷める気配の無い姫様を強引に離し、距離を取る。
そのことに気付いた姫様は、自分がしたことを顧みることが出来なのか再び罰が悪そうな表情をする。
少しその表情のそそるものがあったとは口が裂けても言えない。
「も、申し訳ありません。女性がこのようなはしたない真似を……」
ここはこのまま気持ちを落ち着かせてもらった方が良い。
姫様はホントに美人だから、近くにいるだけでかなりドキドキする。
とてもきれいでまるで絹のような金髪は、思わず手で梳いてみたい衝動に駆られる。
それほど開いてはいないが、大きな胸元はそれだけで視線が向いてしまう。
ハッキリ言ってこんな淑女、他に類を見ない。どういうわけか、俺の周りにいる女性は変人ばかりだからな。
「そういえば、戦っている時と随分印象がちがうような……。それに、口調も柔らかい」
「え? あぁ、それは私が騎士団長としての時だけですから。今の私は一国の姫。それ相応の身なりと礼儀は必要ですわ」
うん、知ってた。
もちろん富国強兵イベントを最後まで進めたことがあるから、姫様が公私を分けていることくらい知っている。
戦っている時の姫様はとても勇ましく、隣で歩いている時の姫様は可愛らしい。そんなことを忘れるほど年を食っちゃいない。
ゲームの中では結婚までしていたからな。
「そう、今の私は一国の姫」
そう自分に言い聞かせるように呟くと、姫様の眼が据わる。
何かを覚悟したような、失うことを決めたような、そんな表情をしている。
いったい、何を覚悟したというんだ。予想は出来るが、それは避けたいので考えたくない。
それともあれか、何かしらの注意事項でもあるのか。
「お願いがございます」
彼女の喉が動き、唾液を飲み込んだことが分かる。
「なんでしょうか?」
思わず手汗がにじむ。
「私の、私のために生きてはもらえないでしょうか?」
暫時の沈黙。
「……それは、兵士として、ですか? それとも」
沈黙を破ったのは俺。
もちろん、彼女の言葉の意味なんて知っている。
知っているからこそ。
「私の伴侶として」
繋いだのは姫様。
「……っつー。それは、それは……お願い、ですよね?」
「はい」
残酷な質問。
「俺は、白の国へ行こうと、思っています。ですので……」
「どうしても行かなければならないのですか?」
食い下がる目の前の別世界の婚約者。
涙を湛えた瞳に映るのは、困った顔をしている男性。
「そもそも、なんで俺なんか――」
「理由なら、先ほど申しました」
退路が一つ断たれる。
なお、困った表情になる彼女の瞳に映る男性。
「だとしても! あれは! あの戦いは! 貴女より強い者を見つけ出し、結婚相手を決める戦いだったはずです! 俺はドーピングで底上げして、貴女の驕りとスキルを利用してようやく相打ちに――」
「どうして、知っているのです?」
再び近づく彼女の顔。
女性特有の香りか、甘い匂いがする。
花のような、甘美で艶やかな香り。
「その話は、ベズワルを含め、王族にしか伝わらない秘密です。なぜ、知っているのです?」
「うっ。それは風の噂で」
「噂にしては、随分と自信に満ちておりましたが……」
退路が断たれていく。
彼女の瞳が俺を見て離さない。目が離せない。
綺麗な、青い瞳だ。
そんな状況で、もはや嘘を吐くしかないところで、俺が絞り出した嘘は。
「……み、密偵、だから?」
更に退路を断つ嘘だった。