世界一美しいゴキブリが存在する
一旦控室に戻る俺。
そこには今や負けた選手たちの姿は見えない。早々に帰ってしまったのだろうか。
長椅子に座り、浅い息を吐く。ゆっくりしている時間はない。
直ぐ様四次元ポーチの中を確認する。アイテムは充分に潤っている。
武器を確認する。全て揃っている。
作戦を確認する。穴がありまくりだ。
「……はぁ」
深い溜息。
「うわぁーやべぇー逃げたいー」
久しぶりに感じるプレッシャー。
かかる重圧から早くも逃げ出したいと俺が叫ぶ。
大事な時になって逃げだしたくなるのは人間として間違っていないと思うが、かかる重圧が違い過ぎるだろう。
現に先ほど姫様を目の前にして膝が笑っていた。ガクガクと大笑いしていた。
泣き言を外に出さないように素っ気ない返事しか出来なかったのは赦してほしい。
今になって感じる絶望感。
ゲームの中でも低レベルで高レベルに相手に勝てた試しなんてない。
いつも安全に勝てるレベルまで押し上げて戦っていたチキン野郎だ、震えるのも無理はないと思う。
いつも舗装された道を歩いてきた奴の大冒険、篤と御覧あれ。
「おんやぁ、随分と縮こまっている英雄がいますなぁ」
「いまちょっとそのテンションはきついですわネヒトさん」
「はっはっはっ! いやはや、随分と中てられてますなぁ」
「おかげさまで」
来る未来を怨みながら気持ちを落ち着かせていると、誰もいない控室に声が響く。
とても低く、腹の底に響き渡る様な声だ。その声の持ち主を、俺は一人しか知らない。
俺はその声に振り返らず応える。当然、相手も応える。豪快な笑い声で。
いつも頼もしいその笑い声は、どこか背中を後押ししてくれているような気がした。
「そんな臆病風にこれ一本!」
「……おぉ! これはネヒトさんがいつもくれる特性ジュース!」
「なんと、力が漲る果実と体力増加のエキス配合の特性中の特性です」
背中に当たる感触。
観念して振り返ると、そこにはにこやかに笑いながら熊手のような手で二つのガラス瓶を持つネヒトさんの姿があった。
その手に持っている瓶の中身は俺が何度かお世話になったネヒトさん御手製の果実水。
更に、その性能はぶっ飛んでいるのでこれ程力になる激励はない。
だがしかし、同時に疑問も浮かぶ。
「危ないものは入っていないでしょうね」
「なんと! 私に作る物は常にホワイトです」
「幸せの白い粉が入っている落ちじゃないんですか?」
「おっと、これはいけない」
「ちょっと!」
そう言って泣く子も黙る笑顔を俺に向けるネヒトさん。
俺の緊張をほぐそうって言う魂胆が見え見えだが、今はその好意が嬉しい。
だがその笑顔はいけねぇ。俺がちびりそうだ。
ネヒトさんからもらった果実水を四次元ポーチにしまい、先ほどよりも早くなった鼓動を落ち着けるように左胸を叩く。
ダメだなぁ、こんなに俺を勇気付けようとしてくれているのに、全然効果無いや。
ドラゴンの時とはわけが違う。ドラゴンの時は勝算があったから一歩前へ足が出た。
けれど、今回は完全に運任せ。少しでも予想がずれると勝てない。
当たったら負け。当たらなくとも上手くいかないと負け。
そう見てみると成功確率が如何に低いかが分かる。やっぱり無理なんじゃないのか?
賞金は手に入ったんだから、別にもう良いんじゃないのか?
うん、そうだ。
これさえあればもう一度やり直せる。
今度は白の国に拠点を置こう。白の国の方が治安も良いし、何より住みやすい。
そうと決まれば帰ろう。
「じゃ、俺はこれで……」
「ん……? どこへ?」
「やっぱり帰ろうかと」
「ここまで来ておいて、ですか!?」
もうここには用はないと思い、この場から去ろうとネヒトさんに挨拶をすると、当然のごとく俺を止めるネヒトさん。
やっぱり、はいそうですかとはいかないか。というか俺は何を律儀に帰るって言っているんだ。
ここは緊張で尿意が近くなったからトイレにでも言ってくると言えばよかったんじゃないか。
俺はバカか。
「冗談ですよ。緊張のせいか小便がしたくなったんですよ」
「なんですかもう……びっくりして心臓が飛び出るかと思いましたよ」
「ははは、まぁ、ネヒトさんはそれでもピンピンしていそうですけどね」
そんな冗談を交えつつ、俺は控室を後にする。
後は帰るだけだ。帰ったらさっそく荷造りをして白の国へ行こう。
白の国でも鍛冶屋は構えられるし、何も問題は無い。白の国で起こるイベントは粗方覚えているしな。
白の国についたら、まずは首都から少し離れた商都へ向かおう。
これから起こるエキシビションマッチを見るためか、廊下やロビーには人がいない。
辛うじて受付嬢がいるだけ。それでも、受付嬢は手元にある投影の魔法が組み込まれたカラクリで決闘場内を見ているため俺には気付いていない。
俺は短剣を装備してスキルの《隠密の影》を使って決闘場を後にする。
お天道様が祝福してくれているかのように輝いている。俺のこの先がそのようにありますように。
「人が少ねぇな」
やはり一年に一回のイベントとあってか、いつもより人通りは少ない。
いつもは繁盛している店は軒並み揃えて休業している。そんなにこのイベントって人気あったのな。
レベルは低いのに。
俺ですら優勝できるんだから、他の人でも余裕で優勝できる。
とんだ英雄様だよ。
中級区を抜け、下級区に入るとそこそこの人の往来が増えてきた。
相も変わらず無駄にやる気のある衛兵はどこか上の空で、行き交う人々はみすぼらしい浮浪者の割合が高い。
まぁ、俺もその中の一人なんだけども。
迷わず我が家(段ボールハウス)に辿り着くと、さっそく中に入って荷造りを始める。
俺が決闘場内にいないとなったら、また副騎士団長が探しに来るだろうから早くテキパキとやろう。
荷造りと言っても、着替えやら日用品を四次元ポーチの中に突っ込むだけなので案外早く終わる。
大事なものは四次元ポーチに常時入れているので盗まれる心配はない。
「あまりかさばっても探しにくいからな。どれか置いておこう」
大事な書類などでも持っていてはかさばる場合もある。
幾ら四次元ポーチが半無限的に物が収納が出来るとは言っても、中から取り出すのに凄い時間がかかってしまう。
頭に四次元ポーチの中を浮かべて、その中から探すだなんてかなり手間だからな。
ピッケルもこんなにいらない。
鉱石はまとめて一枠だからいいとして、武器と防具が邪魔だな。
資金源として強化済みの武器と防具をそれなりに保持しているが、今は邪魔なだけ。早いとこ換金しないと。
建物の権利書は、その建物がないから捨てて良いとして、ダンジョンで見付けた古文書とかはコレクションとして持っておきたいな。ユニークアイテムだし。
ロボ娘の契約書も捨てて、白紙の台紙も捨てて、ティッシュは持っておきたいな。
「やはりここでしたか」
「……なんのようだ?」
手持ちの物を色々と整理していると、背後から聞こえる声。
普通にびっくりして肩が跳ねる俺。もう、追手が来たのかと振り返った先には意外な人物、いや無機物が立っていた。
白く短めの髪が隙間風で靡き、光の無い二つの瞳が俺を映している。その瞳に映っている俺は、怪訝な表情をしていた。
俺は平静を取り繕い、あくまでも一個人としてそれに話しかける。
知らない中ではない。知らないふりをするほど、やぶさかではない。
「ロボ娘、もう一度言うぞ。何をしに来た?」
「いえ、ここに来たら、貴方がいるような気がして」
御主人様、ではなく、貴方、か。
ロボ娘はチラリと俺の足元に乱雑している物を見た後、再び俺の眼を見る。
その瞳は相も変わらず何を言っているかが分からない。意図が籠っていないのか、それとも人の眼ではないからか。
俺がここにいるとして、これがここに来るメリットはなんだ。
俺に会いに来るためではない。今までもそのチャンスは幾らでもあった。今に始まったことではない。
それとも……いや、一つしか思い浮かばない。
俺が逃げようとしていることを察したんだ。
さすが、俺のことは何でも知っているというだけのことはある。
そして、そんな俺に会いに来てこれがどうするか。残念ながら、そこまで頭が回らない。
「質問の答えになっていないぞ」
「……そうですか。では、こう言いましょう」
一拍。
「私も連れて行ってください」
「……なるほど、そう来たか」
そうかそうか。そこまできて言うことはそれだったか。
なるほど、予想出来ていたことだったな。こりゃ。
俺が逃げることを察していたんだから、その行動を予想していなかったとは言わない。
参ったな。ここで突き飛ばすしか選択肢が浮かばないや。
「俺が、了承すると思うか?」
「いいえ。思いもしません。ですから、無理やりにでも着いて行くことにします」
真っ直ぐな偽物の瞳を逸らさずに、それは言う。
肉声では無いため、言霊だなんて大層な物は宿っていない、その声で。
けれど、これの言葉は確かに言葉。俺の耳に届いた。
「隣に嫌でもいます。無視しても着いて行きます。機械油をもらえなくとも、自分で調達します」
「俺が、お前を壊さないとでも?」
「壊せませんよ、貴方には。甘ちゃんですから」
「そうかよ」
一つ、深い溜息を吐く。
ホントに参ったな。無駄なことをしないでさっさととんずらこくべきだったな。
「じゃあな」
強化済みの槌で振り下ろすと、金属音と共に潰れる無機物。
ついでに振り抜いて外へ弾き出すと、俺は真っ直ぐ首都と外を隔てる門へ向かった。