夢だと思いたい
「おおぉおおおおぉぉぉぉおおおおお!?」
落ちる。
真っ暗な空間の中を、重力に逆らうことなく真っ逆さまに落ちていく。
中学生の頃、橋の上から海に飛び込んだことがあったが、その比ではない。
アレは海面という目的地が見えていたから……見えていたとしても怖いものは怖いのだが、この落下は真っ暗な闇に落ちていっているために、余計に恐怖を感じる。
そこが見えないところに落ちていくのがこんなにも怖いものだとは思わなかった。
轟々と鳴る風鳴。
昔、友人に轟音を聞かせ続ける拷問があると聞いたことがるが、確かにこれは拷問だ。
もう気絶してもいいんじゃないかと思い始めてきた。
どうやらどこか達観しているようで、もう死ぬんだから気絶して知らないうちに死にたいと思えてきた。
目の前なんてとっくに見えていない。目も開けてられないほどの風。もしかしたら目下にはもう既に地面が見えているのかも知れない。
そうだとしたら、いつ来るのか分からない死に恐怖が増えてしまう。
あ、ダメだ。本当に怖い。
「ぬぐぅお!?」
唐突に叩き付けられる躯。
しかし、躯のどこも痛くなく、至って正常。
目を開いてみると、そこは俺が先ほどまでいた街中ではなかった。
一言で言い表すのなら、俺は光の中にいた。頭上から光が降り注いでおり、辺りを優しい光で包んでいる。
どうやら俺は屋内にいるようで、パルテノン神殿を彷彿させる造りの建物の中にいた。
規則正しく建てられた柱。その柱と柱の間から見える草原。その草原は平和そのものの景色だ。
そこで疑問を感じる。
天井があるはずなのに、光が真上にある。
見上げてみると、別に天井に穴が開いているわけでもなく、ただそこから光が降り注いでいた。
太陽のように眩しくはない。だったら、これは何だ……?
「……マジ?」
「っ!?」
どこからか聞こえて来たそんな声。
俺は辺りをキョロキョロと見渡してみるが、人なんて見当たらない。
とりあえず、地面に伏せている状態から立ち上がり、もう一度辺りを見渡してみる。
「あなた、村の人……ではないようね」
もう一度聞こえて来た声。
どうやら頭上から聞こえてくるようだ。
急いで見上げてみれば、そこには更に驚く光景が広がっていた。
幾世代か前の魔女の格好をした女性が、箒に跨ってフヨフヨと浮かんでいたからだ。
紫一色のローブに茶髪の髪の毛。青い瞳に日本人らしからぬ顔立ち。そんな人が俺を見て驚いた表情をしていた。
そしてなにより、成人しているだろう女性が魔女っ娘の格好をしているのに、俺は驚きを隠せない。
「えーっと……先に言っておくわ。ごめんなさい」
「はぁ?」
突如俺に向かって頭を下げる年増魔女っ娘。
けれども、俺より高い場所で頭を下げているため、正直頭を下げられている実感がわかない。
そもそもどうやって浮かんでいるのか?
どこぞのステージのように何かで吊り下げているのだろうか?
まさかその箒で浮かんでいることは無いだろうし、随分と手の込んでいることをしていると思っておこう。
「自己紹介がまだだったわね、私はヨグ。この世界の……分かりやすく言えば管理者よ」
「あ、俺は枕木智也です……って、そうじゃねぇ!」
お互いに自己紹介をして少し穏やかな空気が流れたような気がしたが、そんなことはなかった。
この年増魔女っ娘、なんかとんでもなく痛い発言をしたぞ。この世界の管理者だとか……今時の小学生も言わねぇよ。
俺は未だ頭上で浮かんでいる年増魔女っ娘を睨むが、当の年増魔女っ娘は俺がなんで怒っているのか分かっていない様子。
それどころか「今時の子って怒りやすいのね」って呟いている始末。その物言いが癪に障る。
「管理者ってなんだよ。それに、他人様と話す時ぐらい降りてきてもいいんじゃないのか?」
「それもそうね、気が利かなくてごめんなさいね」
しかし、俺ももう成人している立派な大人。
怒鳴りたいところをグッと我慢して、平静を装って年増魔女っ娘に言い放つ。
すると、意外にもすんなりと俺の目の前まで降りてきた。
近くで見て見ると、その恰好が如何に変なのか改めて思わされる。
コスプレの人たちが切る様な原色カラーのような服ではなく、年季の入ったローブという手の込みように思わず顔をしかめる。
というか、ここはどこなんだ?
俺は落ちてきたが、実際に考えてみればおかしい。おかしいことしかない。
まず、第一に地面がいきなり消え去ったこと。次に落下している時間の長さ。地面に叩き付けられたのに生きていること。最後にこの年増魔女っ娘。
ほうら、おかしいことしかない。
「えっと……大前提の話なんだけど、ここはアンタがいた世界ではないわ」
「……なに?」
俺の耳がおかしくなきゃの話なんだが、ここは俺が元居た世界ではないらしい。
なんだそりゃ、俺がいたサークルでもそんな話は挙がらない。異世界ものなんて話され過ぎてもうお腹いっぱいだ。
どうやら、本当に頭電波な人に会ってしまったらしい。
「私は【副王】に仕える身なんだけど、本当は別世界から【勇者】を呼ぶはずだったのよ。でも、間違えてアンタを呼んだみたいなの」
呼んだみたいなの、じゃねぇ。
聞いているうちにイライラしてきた。しかし、俺は大人。
ここは大人の対応で、少し頭がぶっ飛んだ子を諭す様に語り掛けなくては。
「あのさ、あの……なんていうか、そう言うのはちょっと俺は分からないんだ。そういうのはさ、仲間内に話してくれないか? 周りの人を巻き込まないでくれ」
「私の話を信じていないわね。頭の固い人」
さすがに俺は怒っていいはず。
「あのよ! 他人を巻き込まないでくれ! そういうのは漫画かアニメの中だけで充分なの! 異世界? 連れてきた? 信じるわけないだろう!」
「そう、それなら……」
思いの丈をぶちまけると年増魔女っ娘の眼が据わり、まるで可哀想なものを見るような眼で俺を見始める。
その眼に更にイライラしてくる俺。いい加減無視して帰った方がいいと思い始めてくる。
そんな中、年増魔女っ娘は俺に向けて右手を伸ばしてきた。
手のひらは開いた状態。傍から見たら人の行動を制するポーズに見える。
「これならどう?」
「のぉおっ!?」
その手のひらをジッと見ていると、いきなり手のひらから吹き出す炎。
その炎は俺の隣を余裕をもって通り過ぎていき、少し進んだところで自然消滅した。
その光景を見た俺は当然驚く。
「危ないな! いったい何がしたいんだよ!」
「“魔法”よ。私は今、魔法を使ったの」
「まほうだぁ?」
更なる痛い子発言にもはや構う気力すらなくなった俺。
マジックを見せて魔法だと信じる年齢でもない。そう言うのは大概、タネや仕掛けがあってそれらしく見せているだけであって魔法なんかではない。
おそらく、あの右腕の袖の中に何か仕込んでいるに違いない。
この年増魔女っ娘は自分を本物だと言いたい様子。
ここはもう信じたことにしてやったことにして、早く立ち去るのが賢明なのかもしれない。
しかし、そんな俺の思いとは裏腹に右手から雷やら光やらを次々と放出する年増魔女っ娘。
その光景は、どうやったって理解できるものではなかった。
「ほら、アンタを浮かせることだって出来る」
「お? おお!?」
目頭が痛くなり、頭痛までしてきた頃だ。
散々そこらじゅうに自称魔法を使っていた年増魔女っ娘は、次の標的を俺にした。
その右手を俺に向けると、徐々に俺の体が浮いていく。地に脚が付かない状況で俺の気分は最悪。
吐き気を催してきた。
「お、降ろせ!」
「信じてくれたら降ろすわ」
「良いから! 吐いても知らねぇぞ!」
「……はぁ、いい加減にしてくれないかしら」
降ろすように言えば、年増魔女っ娘は信じてくれたら降ろすと言う。
当然、俺はそんなことは知ったこっちゃないので喚き散らすと、年増魔女っ娘の声色が変わる。
怒りの感情を露にしたその声は、俺の心にダメージを与えるには充分すぎるほど。
「ただ喚き散らす子供じゃないんだから、分かりなさい」
「し、信じられるはずないだろう!」
「だったら、アンタはここにどうやって来たの? 自分の常識だけで尺度を測って、自分が理解できないものは喚き散らして否定する。バカじゃないの?」
「ぐっ……」
上から目線での物言いに、思わず怒鳴りそうになる俺。
しかし、そこで思いとどまって考えてみる。現実にはとてもありえない経験をしている自分。明らかに現実離れしている場所。
俺が今立っている場所はどこかの神殿。
俺が知る限りでは、こんな場所は知らないし、聞いたことも無い。
落ちてきたにしろ、液状化現象が起きたにしてはおかしい。地震なんて起きていないし、そもそも地震が起きる場所ではない。
さらに、俺は地面に叩き付けられたはずなのに、その衝撃はまるでベッドから落ちた時みたいな軽い衝撃。
何もかもが非現実的。
俺は理解しようとしないで、ただ喚き散らしていただけ。子供みたいに。
それもそのはず。そんな話は聞いたことも無い。ましてや現実に起こりうるはずがないから。
そのことに、ようやく気付いた俺。
だからこその確認。
「本当なのか……?」
「最初からそう言っているじゃない。ここはアンタがいた世界じゃない。私が連れてきてしまったんだけど……ややこしくなったわね」
改めて言われたその事実。
本当に俺はこの女性に連れてこられて、目の前で魔法を見せられたらしい。
そのことに愕然とするのが普通の反応だと思いたい。自分の常識だけで世界を決めつけるのがどれ程酷いものなのか知っているはずなのに、それを自分がしてしまったことにも愕然。
「でも、私が間違えてしまったことも事実。ごめんなさい、巻き込んでしまって……」
「えっと、それで……俺は帰れるのか?」
「それなんだけど……」
口ごもる彼女。
どことなく言い難いと言っているかのような口振り。
最悪な結果を予想してしまうほどに不安そうな顔。視線は泳いでおり、俺と目を合わせようとしない。
まさか本当に最悪な結果になってしまうのか?
「……直ぐには無理なの。この私たちがいる神殿が、世界と世界を繋ぐ扉みたいな役割をしているんだけど……」
「だけど?」
「その扉を開くには多くのエネルギーが必要なの。そのエネルギーは自然に溜まるのだけれど、時間がかかるのよ」
どうやら、帰れないという最悪な結果は避けれたみたいだが、直ぐには無理らしい。
俺としては直ぐにでも帰って大学に行かなければならない。今日は単位を落とせないやつがあったはず。
それも、今日明日にエネルギーが溜まるわけでもないらしいから困ったものだ。
「それって……どれくらい?」
「えっと……三年?」
「三年って。しかも何で疑問符!?」
ここで三年も待たなくてはならないのか!
しかも、どこの世界と知れないところで暮らすのがどれだけ大変なことか。何もない状態で暮らすサバイバルより質が悪いぞ。
今こそ俺は怒っていい。絶対。
「どうしてくれるんだよ!」
「ごめんなさい! その代わりと言っちゃなんだけど、アンタに三つの選別を! まず、一つ目は言語の境が無くなる指輪を」
「俺の右人差し指に指輪が……」
「次は特別な魔力が宿った剣を!」
「俺の腰に剣が……」
「最後に、アンタが慣れ親しんだ衣服を!」
「俺の服が勝手に……って、学生服かよ!」
彼女が、お詫びと渡してきたのは三つの代物。
一つは俺の右人差指に銀細工が施された指輪が現れた。その指輪には女神らしき女性が彫られている。
二つ目はゲームとかでよく目にする一般的な剣が俺の腰に現れた。特別な何かが宿っているらしい。
最後は俺がよく慣れ親しんだ衣服。なぜだか高校生の頃の学生服(夏仕様)なのにツッコまざるをえない。
そして、どことなく彼女が急いでいるような気がした。
声が上ずっているし、冷や汗らしきものも掻いている。平常心ではないことは確かだ。
「さぁ! 早く行くのよ!」
「え?」
「早く! 私の上司が今ここに来るのよ! 連れてきたのがアンタだと知れたら、もうこの扉を使えなくなるかも知れない!」
「えぇ!?」
それが意味するのは、もちろん俺が帰れなくなると言うこと。
そういうことなら、直ぐ様ここから立ち去ろう。
「ということで、アンタを近くの街まで送るわ。良い? 目立つこととか、余計なことはしないこと! 絶対よ!」
「へ?」
彼女が俺に向けて右手を突き出したと思ったら、次の瞬間には景色が変わっていた。
赤レンガで作られた建物と建物の間に立っているようで、少し暗い。少し奥から喧騒が聞こえてくる。
呆気に取られている合間に、無意識的にその喧騒へと向かっていた。
そして、建物と建物の間から抜けて見えた光景は、
「…………」
どこかで見たことのある光景だった。