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アルヴァンティア3


20××年.05月02日.火曜日.夕方



僕は【オカルト研究会】の活動が早めに終わったから、学校の図書室に来ていた。

蜃気楼の資料を探しに来たのだ。

今までは頭の中でひたすらに考えてみたり、パソコンの資料を調べたりしてみたのだけれど、これといった成果は無かった。

頭の中に残っている記憶は桐矢 礼奈さんという少女が普通に日常を過ごした十数年間と、

蜃気楼の先に迷い込んだ時の記憶と死ぬ寸前の記憶のみ。


昨日の夢で見たあの景色は?

炎の中で緑の何かが黒い何かを倒す光景を…

桐矢 礼奈さんは見ていたんじゃなかったのかな。

僕が思い出せないだけで、もしかしたら本当に蜃気楼の先には何かがあって、

桐矢 礼奈さんは何かを見たんじゃないかな。


僕はそれに関する資料がないか、ダメもとで図書室に足を踏み入れた。

図書室の中は閑散としていて、図書委員の男子生徒と思われる生徒が受付に座っているだけで他に人は見当たらない。

しかも図書委員の男子生徒は寝ているみたいだった。

幸せそうによだれを開いたままの本に垂らしているのをみて笑ってしまったのだけれど、仕方ないだろう。

図書室の備品の本をよだれだらけにしてるんだから、後で説教を受ける事は確定だ。

図書委員の男子生徒に手を合わせて、僕は蜃気楼の事が書かれている資料を探す。


どのジャンルから調べれば良いのか、そういった事から始めなければいけなかったので随分と手こずったけれど、30分程探し回ってやっと2冊の本を見つけた。これ以外に蜃気楼に関する資料は見当たらなかった。

本棚に刺さったままの本の背表紙にはお目当てのタイトルが書いてある。


僕はまず、【蜃気楼について】と書かれた本を手にとった。



『海岸越しに異国の景色が(壮大に)見える』、『砂漠の蜃気楼』、『富山の蜃気楼』などといったイメージがある蜃気楼。


だが、情報で知っていても、実際に蜃気楼を観られた方が極めて少ないためにイメージが先行して自分の頭の中での蜃気楼像があることと思います。なかには、間違った理解も少なくない。

 ここでは、蜃気楼について簡単触れようと思う。

Ⅰ.蜃気楼にも種類がある

蜃気楼は大気中で光が屈折することで起こる現象。

光は同じ密度の中では真っ直ぐ進む。

密度の異なるところでは屈折や反射を起こす。

密度差のあるところでは、光は密度のより高い方へと進路を変えていく。

その結果、曲線を描いて進むことに………


要するに今までインターネットで調べてきた事と同じ、蜃気楼の事についての記述しか無かった。

要するに見た事のない景色やあるはずのないものが見えたりする事は無いという事だ。

そうなると桐矢 礼奈さんという少女の記憶は否定される事となるのだけど、僕は否定する事ができなかった。

あの景色が、昨日の夢が桐矢 礼奈さんという少女が見た幻覚でしか無かったのか、

それ以前に桐矢 礼奈さんという少女は存在していたのか。

もしかしたら僕の妄想でしか無かったのか。

前世の記憶。

今思えばなんとも希咲先輩の好きそうなネタだった。

僕が前世の記憶もろとも全ての存在を諦めようとした時、ふと手にとっていたもう一つの本の背表紙に目がいく。


背表紙には【Mirage】と書かれていた。

僕は今までの思考を全て置き去りにしてその本を開いた。


『世界各地で観測される揺らぎを、

この場ではアルヴァージュと仮称する。』


ドクン。僕のものではない鼓動が跳ね上がるのを感じた。

僕はページをめくる手が自然と早まっていく。


パラパラパラパラ………


『アルヴァージュは蜃気楼の先に見える別の空間………』


『不適合者の死……』


『死後24時間の猶予…記憶の譲渡…』


『会話は不可……24時間後……活動の…』


『停止』


様々な単語が頭の中に吸収されていく。

そして停止の単語が視界に入った瞬間、昨日の夢で見たような景色が再び浮かび上がった。


森の中で一部だけ歪んだ場所。

そこを振り返って某然とする僕。

いや、桐矢 礼奈さんの記憶を見ているのだから僕は桐矢 礼奈さんの記憶を思い出しているのかもしれない。


隣には、僕達と大して歳の変わらない女の子がいた。

桐矢 礼奈さんが酷く狼狽えているのが分かる。

記憶によれば歪みを通って見知らぬ森に来てしまってからというもの、隣にいる女の子、ヒカリの様子がおかしいようだった。


視界がブラックアウトして、次に映ったのは顔が真っ青になり、明らかにしんでいると分かるヒカリの顔。

桐矢 礼奈は呆然とし、イキナリ津波のように押し寄せる非現実的な状況に対応できないでいる。

ヒカリは桐矢 礼奈の友人、いや親友と呼べる関係で、僕の覚えていた前世の記憶でも頻繁に登場していた。

崩れ落ちた桐矢 礼奈。だけど暫くすると重力を無視したような動きでヒカリがのそりと立ち上がった。

怪しい足取りで歩き出したヒカリを呆然と見つめる桐矢 礼奈は震える声ではなしかける。『ヒカリ…?』

でもヒカリはその声は聞こえていないのか、無視して突如現れた歪みに倒れこむようにして消えていった。

辺りには桐矢 礼奈の慟哭が響き渡り、そこで桐矢 礼奈と僕の重なっていた視線がほどけた。


「はぁっ!!!ハァ…ハァ…ハァ…ッ!」


止まっていた呼吸が再開され、酸素を求め空気をとりこむ。

全身に酸素が行き渡り、頭が次第に落ち着いてくる中で…

案外僕という存在は何事にも鈍感なようだと感じた。

ヒカリという女の子が死んだ光景は確かに吐き気を催したけれど、お婆ちゃんの葬式には立ち会ったことがある。

それと同じだと強く考えれば気持ちはいくばかおさまった。


そしてその全てを置き去りにするような事実も見た。


「あれって…ゾンビ…だよね…」


ヒカリは確かに死んでいたのに、見間違えでもなんでもなく、起き上がった。

その顔や動きは、【オカルト研究会】で見たゾンビと酷似していたのだから。

そう思うと、羅列していた単語の一つ一つの意味が真実味を帯びてくる。

全てに意味がある筈なのだが、僕の未成熟な脳ではまとめ切ることができず、僕は疑問を抱えたまま帰路についた。



20××年.05月02日.火曜日.夜



ゆらゆらと自転車を漕いで帰り道を進んでいく。

公園を横切っても、時間が時間なので遊んでいる子供はいない。

じゃいあんが公園にいたとしても自転車のライトに映って目が光らない限りはいる場所を特定することはできないだろう。


頭の中は随分と落ち着いてきて、冷静な考えができるようになってきた。

家に着いて、いつも通り車庫に自転車を置いて鍵を抜く。


「ただいまー…」


『おかえりー』


僕は制服のままで廊下を歩き、そのまま二階に続く階段を上がった。


「おにぃ…どうかしたの?」


リビングから顔を出したフユが心配そうに僕の背に声をかけてくれたけれど、僕に満足な返事を返す事はできなかった。


「ん。少し眠いからもう寝るってお母さんに言っておいて…」


「う、うん」


フユの声が捨てられた子犬と重なったような気がして心がズキっと痛んだけれど、僕はそれを振り切るようにして階段に足をかけ自分の部屋の扉を閉めた。


僕はベットに仰向けに倒れこみながら天井を見上げる。

シミのない白い天井。

周りは鉄骨と断熱材が覆う普通の僕の部屋。


「…アルヴァージュ……」


僕の中の君は何を見たの?


君は…誰?


君に何があったの?


僕の疑問は波に飲まれ、意識も沈んでいった。



20××年.05月03日.水曜日.昼



僕はこの記憶の事を他人に話した事がない。

小さい頃は自分の事を桐矢 礼奈と認識していたし、違うと理解してからはこの異常性に辛うじて気がつく事ができた。

親に話しても、先生に話しても変わらない。

そう思ったし、事実それは間違えていなかった。

そうして僕は16年を生きてきたのだけれど、

今までは知らない記憶がフラッシュバックしたり、妙な夢を見たりなんて事は無かった。

それが何をきっかけに起こったのかは分からないけれど、僕はこの事を誰にも話さないようにしている。

話す事で僕と同じ境遇の人が見つかるかもしれないけれど、別に僕は困っていないし、

これからも困る予定はないと思う。


午前中の授業をチュッパチャプスの薄塩味を舐めながら消化し終え、お昼の時間になった。

今日は久しぶりにお母さんがお弁当をもたせてくれたのでトモと校庭の端っこにあるベンチで食べる予定だ。

お弁当を持ちながら廊下に出ると、既にトモは待っていた。


「よぉ、ハル。昼休みが終わる前に行こうぜ」


「まだ30分はあるって」


「メシ食って喋ったら30分なんてあっという間だぜ?」


「なら早めに行こうか。ベンチで取られちゃうかもしれないからね」


僕とトモは並んで階段を降りていく。

食堂へは向かわずに外に出ると、春の日差しが心地よかった。

桜はとうに散ってしまったけど、まだまだ夏には程遠かった。

視界にかかる前髪が太陽の光を透かして茶色くなっている。

その髪の毛を息で持ち上げたりして遊びながら校庭の周りのアスファルトの道の上を歩く。


「なぁ、ハル」


「ん?どうかしたの?」


トモはベンチを探しているのか、時折遠くの方を見たりしながら僕に話しかけた。


「彼女と喧嘩でもしたのか?」


「え?…いや、まず僕に彼女が居ると思う?」


僕に彼女がいたら多分天地はひっくり返るんじゃないかな。

欲しくてもこんな貧弱で女々しい僕の顔や体躯では女の子も寄ってこないと思うんだけど。

たまにチュッパチャプス取られたりしていじめられてるし。

そんな事を説明するとトモは大きな溜息をついた。


「あのなぁ…もうちょい自分の顔に自信もてよな」


「…え…うん…」


「こりゃダメだ」


僕の返事がお気に召さなかったトモは二回目の溜息をつきながら苦笑した。


「あれ?俺は何話してたんだっけ?」


どうやら話がそれているうちに本題を忘れてしまったようだ。

多分僕がいつも違う事に気がついたのだろう。

僕とトモはその後、適当なベンチに座りお昼に雑談の花を咲かせた。

何故かいろんな教室の窓から視線を感じたんだけど、視線を向けても誰もいないので勘違いだと思う。


友平はチュッパチャプスを咥えながら教室の窓の方を不思議そうに見ているハルを見ながら心配そうな顔をしていた。

ハルは隠し事をするのが苦手。

それが他人の表情に敏感な友平の感じた事だったけれど、明らかに友平の心配を避けたのに話を掘り返すのはあまり良くないだろうと思ったのだった。



20××年.05月03日.水曜日.放課後



僕は6時間目の授業が終わると同時に教室を出て、部活棟に向かって歩き出していた。


『キヤァァァァァ!!!!』


『ジャスティスブレイカァァッ!!』


『残存兵力3!!撤退を!!』


『まだだぁ!粘れ!後5分は粘れぇぇ!!』


【混沌の2階層】と呼ばれる場所は相変わらず賑やかだなーと思う。

女の子のキンキン声だったり漢達の雄叫びだったり、いつも色んな声が聞けるので退屈しない。

そんな【混沌の2階層】の突き当たりに僕の所属する【漫画同好会】はある。

といっても今週に入ってからは一度も【漫画同好会】としての活動はしていないのだけれど…

部室に取り付けられた扉をスライドさせると見慣れた希咲先輩と美波さんがいた。


「こんにちはー」


「やぁ、我がしもべは今日も……フッ……」


「…こんにちは…」


個性的な返答が左右から聞こえるのを軽くスルーして今日はどちらの活動するのかと聞いた。


「ならば今日は我々の表向きの顔である【漫画同好会】の活動をしようではないか!」


「…やだ…今日はトイレのキャサリ…「却下ァァ!!」…ん…」


渋る美咲さんを縛って拘束した希咲先輩の独断で、今日は【漫画同好会】の活動となった。


「今日はどれを読もうかなー」


この部室には大量の本がおかれている。

殆どは漫画や小説なのだけれど、それが結構面白いのだ。

この漫画の殆どは希咲先輩の私物らしく、マイナーな漫画が多いのだけれども結構僕の楽しみになっている。

[僕の熱いバベルを]、[君と僕とでジャスタウェィ]…確か僕が先週の活動で読んでいたのは何処にいったのか…

しばらく辺りをきょろきょろと見回していると、机の上のプリントの下においてあった。


「あったあった」


ポンポンと少しだけついていた埃をはたいて漫画を開く。

この漫画は青春漫画で、タイトルは[真夏の漢]という漢の友情を描いた学園ものらしい。

全部で50巻ある長編もので、ぼくはまだ20巻辺りを読んでいるところだ。

確か先週に読んでいたところが主人公のタカシーヌと親友のゴウが隣の私立曼陀羅学園の生徒と拳で熱く語り合う話だった気がする。


『タカシーヌ!後ろだ!』


『なにっ!!しまった!!』


『ふははっ!もう遅いっ!サイクロンフォーエバーアルティメットラリアットキーック!』


『ぐぁぁぁぁ!!』


『タカシーヌゥゥゥゥ!!!!』


この後は確か夕日を背にした土手の上で手を取り合いながらお互いの戦いを賞賛し合うなんてシーンがあった気がする。

そんなこんなで[真夏の漢]に想像以上にのめり込みながら放課後は過ぎ去っていくのだった。



20××年.05月03日.水曜日.夜



既に辺りは薄暗くなっていて、等間隔に灯りを灯す街灯には僅かに虫が集まっていた。

高校入学と同時に買い替えた青いボディの自転車に跨って駐輪場を出る。

美波さんは徒歩での帰宅らしく、希咲先輩は毎度お馴染みの中2病発言なので良く分からない。

今日も「私はこの城から出ると…うっ…これ以上は言えない…早く行くんだ…」

と言っていた。


自転車を漕いでいると急に黒い車が角から飛び出してきた。


キキーーーーーッ!!!!


車の黒いボディ、それが視界いっぱいに入った瞬間、僕は殆ど反射的にブレーキを握りしめた。

貧弱な腕に目一杯力を入れた結果、明日は筋肉痛になりそうだったけれど、死ぬよりかはマシだった。

結果的にブレーキがしっかりと効いたのか、僕の青い自転車は車と接触する寸前で止ま…


『ーーーー!!!!』


一気に景色が暗転し、暗闇の中を歩く桐矢 礼奈さんと視線が重なる。

そしていきなり目の前に何かが現れた。

暗闇よりも真っ黒で、不思議とその存在を視認できた何かは、あの時に緑の何かに倒された黒い何かと同じように感じた。


『キャァァァァ!!!』


飛び出してきた黒い何かを辛うじて避けた桐矢 礼奈さんは、状況を把握できずに反射的にしゃがんだことで一命を取り留めたようだけれど、叫んだことで完全にロックオンされてしまったのだろう。

既に黒い何かは桐矢 礼奈さんを貫こうと飛び出していた。

桐矢 礼奈さんが助からないと思った瞬間、

目の前に映っていた黒い何かが消え去って、

停止していた呼吸が再開された。


「ァ…ッ!!…こほっこほっ…うっ…」


「お、おい!大丈夫か兄ちゃん!!」


気がつけば目の前には黒い車から降りてきたおじさんが見えた。

森の中にいたような感覚は消え去っていて、僕はまた知らない記憶を見ていたのだと思った。

本当になんなのだろう。

最近は夢だったりいきなりだったり、なにかと忙しい気がする。

僕は落ち着いてきた事を確認して、おじさんの手を借りながら立ち上がり、ゆっくりと自転車を押しながら帰ることにした。


家に帰った僕は、ろくにご飯を食べずにまたベットで眠りについた。

フユや香瑠お姉ちゃんの心配そうな顔は心が痛かったけれど、今の僕にそこまで気を回す余裕は無かった。



20××年.05月03日.木曜日.朝



チュンチュンチュン……


窓越しに聞こえる小鳥のさえずりが耳に響き、窓から差し込む太陽の光がまぶたを焦がす。


「あぁーやばい…」


朝起きると、僕はベットから転げ落ちたのか、ベットの横の座布団に首から落ちていた。

目を覚ましたら視界が逆さになっていて顎が鎖骨にくっつきそうだった。

後でしっかりとストレッチしなければ大変なことになりそうだ。

ズルズルとベットから滑り落ちてカーペットに手と足を投げ出す。

辛うじて持ち上げた目線がデジタル時計を捉える。

時刻は【07:10】を示していた。

8時半までに登校すれば良いので、家を出るのは20分でいい。

と言うことは少なくとも一時間の猶予がある。

僕は着たままになっていた制服のポケットからランダムにチュッパチャプスを取り出して咥えた。


(ん…塩辛味か……)


塩辛味のチュッパチャプスを舌の上で転がしながらカーペットの上でゴロゴロしていた。

そろそろチュッパチャプスが少なくなってきたので今日辺りに補充しておくのもいいかもしれない。

そうと決まれば少し早めに家を出なければ間に合わない。

僕は足早に風呂を済ませて、髪の毛を乾かし終えてからリビングにいった。


「おはよう。最近なにかあったの?」


お母さんのいつもの陽気さはなりを潜め、僕の事を心配そうに見ていた。

二日も連続で家族の食卓に出なかったのだ。

心配もされるだろう。


「おにぃ…」


お父さんは仕事に出ているのか既に姿は見えなかった。

香瑠お姉ちゃんはまだ寝ているのか、いつも階段をギシギシと鳴らしながらおりてくる音が聞こえない。

お母さんとフユが心配そうな顔を向けているけれど、フユは僕がみると露骨に目を逸らす。


「いただきー」


僕は露骨に目を逸らすフユが箸で掴みっぱなしだった卵焼きを横から食べた。


「えっ…………」


「いってきまーす!」


「ハルーご飯代はー?」


「あ、頂戴!」


「ほーい」


動きが止まったままになってしまったフユを置き去りにした僕は、お母さんから500円玉を受け取る。

そしてささっと着替えて家を出る事にした。


『ぅ…ぁ………バ、バカおにぃー!!』


そんな声が聞こえた気がしたけれど、青い自転車に跨った僕には空耳に聞こえた。

水色の絵の具をとかしたように綺麗な空に白いパレットのような雲が浮かんでいて、この世界の何処かであの夢や記憶のような出来事が起こっているとは思えなかった。



20××年.05月03日.木曜日.07時51分



この時から、僕にむかって非日常が手を伸ばしていたのかもしれない。


自転車が公園に差し掛かった時、僕が入った公園の入口とは逆の方向から、酷くゆらゆらと上体を揺らした千鳥足の人が歩いてきた。


(ん……朝からお酒でも呑んでるのかな……?)


でも、その人に近づいていくほどに、異常性が見えてきた。

その人は無言なのか、声は聞こえてこない。

でも髪型や体型、それに顔から女の子と認識できた。

元々は整っていた顔をしていたのかもしれないその女の子は、ズルズルと両足を引きずるように歩いている。

瞳孔は開ききり、濁った瞳はあらぬ方向に向けられていた。


ゾンビ。


まさにゾンビと呼べる存在がそこにはいた。


「ぁ…ぁ……」


僕は喉から漏れ出る声の制御すらも出来ずに自転車に腰をかけながら突っ立っていた。

咥えていたチュッパチャプスのシメ鯖味が口から落ちた事も気がつけない。

ゾンビはゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。

でも、僕はそこで思い出した。


桐矢 礼奈さんの記憶の中で、ゾンビを見なかったっけ…


そこで思い出す。僕と同じくらいの背格好と歳の女の子を。


(そうだ……ヒカリっていう女の子だ…)


あの時、桐矢 礼奈さんと重なっていた視線で見たヒカリは、目の前のゾンビと同じような感じだった。

○○区に現れたゾンビも、数年前に現れたゾンビとも外見の特徴がほとんど同じ、

青白い肌、開ききり濁った瞳孔。


目の前のゾンビが近づいてくる。

後ろで丁寧に結われたポニーテールがゆらゆらと揺れていて、服装は上下ジャージだった。僕と同じくらいの歳に見える事から、部活かなにかをやっていたのだろう。


ドンッ


僕は自転車に跨ったまま、動けなかった。

そしてゾンビの身体が僕と当たった瞬間、また僕の中にある桐矢 礼奈さんの記憶がフラッシュバックした。


黒い何かが迫る。

桐矢 礼奈さんに触れる瞬間…

それは僕が前に見た光景の続きだった。


黄緑色のラインを引きながら、それは現れた。

メタリックな緑色の包まれた大きな人型の何か。

それは桐矢 礼奈の目からははっきりと見えなかったようで、それは僕も同じだったけれど、桐矢 礼奈の感じた事からは恐怖では無く、緑色の何か日頼もしさのような物を感じているような気がした。


(……味方……なのかな……)


よくわからないままに緑色の何かは黒い何かを殴り飛ばし、黒い何かを引きちぎった所で僕に流れていた知らない記憶は途切れた。


「…っぁ!………ううっ…こほっこほっ…」


僕は途切れそうになる意識をなんとか繋ぐ。

目の前にはまだゾンビがいるから油断は出来ないのだ。


「ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…」


呼吸を整えながら目の前の、今肩に顎をのせた状態で接触しているゾンビに目を向ける。

胸に両手を当ててゾンビを離して自転車を降りる。

バランスが取れなくなって倒れそうだったからだ。


"…タ…ケテ……"


「……え…………」


それは僕の単なる聞き間違えだったのだろうか。

この非現実的な状況の中で何処かおかしくなったのかもしれない。

でも、僕の耳には確かに…その声が聞こえた様な気がした。


いや、僕が両肩を掴んで対面しているそのゾンビは、確かに喋った。

その時、思い出す本の文章の一部。


『死後24時間の猶予…記憶の譲渡…』


僕の未発達の脳は、拙いながらも一つの結論を導き出した。


「君は…何を見たの…?」


不思議と最初に感じた恐怖は消えていた。

そして気がつけば、僕の目の前にはゾンビではなく、

ポニーテールを揺らした可愛らしい女の子が立っていた。

僕は話しかけようと思ったけれど、それを塞ぐようにポニーテールの女の子の口が開いた。


自己満足かもしれない。

その言葉は声にならなかったけれど、

口の動きは"ありがとう"だった気がした。

それと同時に流れ込んでくる言葉の羅列。

それはポニーテールの女の子が数日体験した記憶を文字に変換して、僕に送り込んでいるように感じた。


『名前は赤根(アカネ) 千尋(チヒロ)

…都立岸坂総合高校2年生』


『…部活の帰り……目の前が揺れた…』


『気がつけば森の中……黒い何かに襲われた……』


『足元から金属の何かが私を守るように出てきた……けれど、間に合わなかった……』


そこで、プツリと簡潔に伝えられていた情報は終わった。

多分チヒロさんはそこで死んでしまったのだろう。

岸坂総合高校はここから自転車で30分程度の所にある高校だ。

そうと遠くない。

しかも…ヒカリという女の子がゾンビになったのを見た桐矢 礼奈の記憶を証明するように、チヒロさんから似た記憶が送られてきた。


景色を伴って伝えられたそれは、数秒の言葉のやり取り以上に僕に臨場感を与えた。


目の前が揺れたと言っていた時にチヒロさんが見た光景は、桐矢 礼奈さんがみた揺らぎと同じように感じられた。


森の中の景色は、場所は違かったけれど、

桐矢 礼奈さんの記憶にあった森と殆ど変わらなくて、見た事のない木や見た事のない花は2人の憶の中で一致した。


チヒロさんの足元から出てきた金属の何かは…塗装されるまえの金属みたいだったし、どこかメタリックな緑色の何かと似ていた。


「っぁ………」


情報の密度にやっと頭の処理が追いつく。

僕は、気がつけば膝に手をついて肩で息をしていた。

そして顔を上げた時、その場にはゾンビだったチヒロさんも、可愛らしかったチヒロさんも、もういなかった。


たった数分、会っただけ。

しかも死んでいた人だったのに、僕の心には悲しみが溜まっていた。

そしてそれが容量をこして溢れ出した時、僕の二つの瞳からは涙が零れ落ちた。

それは訳もわからず殺されてしまったチヒロさんの悔しさを感じたからなのかもしれないし、痕跡も残さずこの世から消されたチヒロさんの怒りを嘆いたのかもしれない。


僕は気がつけば時間など忘れ、チヒロさんのいた所をぼーっと眺めていた。

頭の何処かでは学校に間に合わない。

チュッパチャプス落としたよ。

なんて思っていても、僕の頭は違う事を考えていた。

珍しくフル回転している僕の脳は、今までの情報を必死に整理していた。

【Mirage】という本に書いてあった事。


『世界各地で観測される揺らぎを、

この場ではアルヴァージュと仮称する。』


揺らぎ。それは桐矢 礼奈さんやチヒロさんの記憶に残っていた物と同じ。この世界になんらかの理由で現れる時空の揺らぎなのかもしれない。


『アルヴァージュは蜃気楼の先に見える別の空間………』


さっきの疑問はこれで晴れた。

揺らぎをこえた桐矢 礼奈さんやヒカリ、チヒロさんは不思議な森の中に放り出された。


『不適合者の死……』


不適合者とは、何らかの形で揺らぎの先にある世界に適合できなかった人?

ならゾンビは?

チヒロさんは黒い何かに殺された。

ヒカリは…適合できなかったから死んだ。

でも、2人ともゾンビとして蘇った。

だったらその世界では殺されるのと世界に適合しないのでは同じ?


『死後24時間の猶予…記憶の譲渡…』


これはチヒロさんが証明してくれた。

僕の世界ではゾンビの先入観があり過ぎて普通は接触する前に殺されていたであろうチヒロさんは、僕が恐怖で動けなかった事で目的を達成したんだと思う。


『会話は不可……24時間後……活動の…』


チヒロさんは話したと言うより、

喉の奥から無理やり絞り出した感じがしたし、それでも話す事は出来なかった。

"助けて"の言葉は頭の中に直接流れ込んできたような気がした。

あとは記憶が流れ込んできただけ。


『停止』


活動の停止とは美波さんや希咲先輩が言っていたゾンビは24時間経つと何故か動かなくなるといった事だろう。

それが他人に記憶を渡すタイムリミットなのかな…

情報が少なくて、しかもその情報も断片的。

そんな僕にはこのくらいの推察しかできなかった。


桐矢 礼奈さんを助けていた緑色の何かの事も、チヒロさんを助けようとしたけれど間に合わなかった金属の何かも。

2人を襲っていた黒い何かも…どれもわからない事ばかり。

積み重なるように増えていく謎が脳に疲労を溜めていく。

僕はランダムにチュッパチャプスをポケットから取り出して咥えた。

味は麺つゆ味で、カツオの風味を再現したそれを舐めているうちに無性にうどんが食べたくなった。


(今日は学校休もうかな…)


空は真っ青で、時刻は8:35分を過ぎていた。


僕はその後、公園から動く事なく、ただ何となくブランコを漕いでいた。


ギーコー。ギーコー。ギーコー。


空は相変わらず青くて、僕の悩みなんか気にしたそぶりはなかった。

アイプォンにはトモやクラスの女の子達からメールが来ていたけれど、僕は返す気にはならなかった。

明日学校で謝らなくちゃいけないな。


気がついたら何処からかやってきていた黒猫のじゃいあんと戯れながら、僕はぼーっとしていた。

じゃいあんはもう一つのブランコに乗って手足を投げ出して寝ている。


「に"ゃぁ〜…」


「にやーぁー」


なんとなくじゃいあんの鳴き声を復唱したりして僕のサボりの時間は過ぎていく。


「に"ゃッ!?!?…フシャーーーーー!!」


そんな時、僕の横のブランコで寝ていたじゃいあんが毛を逆立てながらブランコから飛び降り、ある一点を睨みながら威嚇し始めた。

僕はその突然の出来事に対処出来ずに呆然とブランコに座ったままだ。


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