夜陰の章
月も出ない夜だった。小姓にも下がるよう命じたため、寝室周辺には誰一人いない。自分以外には。
「……こうして話すのは久し振りだな」
少し高めの男性の声が響く。誰かに話しかけているようだが、ここには彼一人しかいない。
――――何の用だ。
しかし、反応は確かにあった。男が左手を広げると、そこに小さな藍色の炎が燃え上がる。
「相変わらずつれない態度だな」
――――お前に愛想よく振る舞う必要などないだろう。
炎から聞こえる声は、男性とも女性ともとれる声色をしていた。
「それもそうか。親しい間柄ではないからな」
――――お前も相変わらず分からない人間だな。
この人間の言動は常に理解できない、理解しようとも思わない。ただひたすら、面倒な輩だという事は分かる。
「お褒めにあずかり光栄だよ」
男がそう言うと、褒めていないと言いたげに、炎は揺れた。
――――さっさと要件を話せ。
炎から聞こえる声は、これまでにない程無愛想だ。どうやら男と無駄話をするつもりは皆無らしい。
「いやなに、大した用ではない。近々また水勢を離れるから、別れの挨拶をしようと思ってね」
――――そんな事のためにわざわざ我との対話を求めたのか。
炎の中の声はひどく呆れかえっていた。
「そんな事って言うけどな、大事なことだろう? 俺は一年の間、話ができないんだ。これは非常に不便だと思わないか? ともかく俺がいない間は、神社に関する用は全てあいつに任せるから、そのつもりでいてくれ」
――――あの男は、嫌いだ。
名前を口にしたくもないと、炎は今までで一番感情を露わにする。嫌悪という負の感情だ。
――――あの男は我の領域を侵そうとしている。何故あのような輩をお前は野放しにしているのだ。
抗議の声とともに炎が一層強くなる。寝室ごと燃やす事も造作ないと脅しているように感じ取れたが、男は微動だにしない。
「あの役にふさわしいのはあいつの他にいない。俺が判断したんだ。俺の目に狂いはないよ」
脅しに屈しないどころか、むしろ余裕さえ感じられる様子で、男は言い放った。
――――まあいい。我の領域を侵すのであれば、その時は迷わず八つ裂きにするまでだ。
「おお、怖い。それが水勢の守り神の発言とはひどいな」
――――白々しいぞ。監視者よ、お前は我が何者かを知っておろう。
「無論、分かっておりますとも、焔之神様」
飄々とした語り口だが、決して見下していない。「自分は従者だ」と自覚している分、余計に達が悪い。
炎の声の主――すなわち焔之神は、忌々しげに舌打ちを漏らした。
――――理解しているならばよい。一年後、この地に戻った暁には必ず報告を寄越せ。それまで養生することだな、火連正斉。
一方的に言い切ると、焔之神は自ら炎を消した。
辺りには再び静寂が訪れる。
「さて……参勤交代の準備を急がねばな」
今度こそ他に誰もいなくなった寝室で、火連正斉はぽつりと呟く。そして一つだけ咳き込むと、床に就いた。