夢想の章
【注意】ちょっとえっちぃよ!
――――何が、どうなっている。
有り得ないという単語が、陽貴の脳裏によぎった。
極力冷静になって、状況を整理する。刻限は夜。空には下弦の月が浮かんでいる。場所は、焔神社の拝殿。何故、日が完全に沈みきった時分に此処にいるのか、陽貴自身も分からない。
そして、
「陽貴、様…………」
目の前には、瞳を潤ませて自分を見つめる朱希。
「朱希、殿……?」
陽貴が呼び掛けると、朱希は手を伸ばし、陽貴の小袖に縋り付いた。明らかに朱希の様子がいつもと違う。有り体に言ってしまえば、おかしい。
いつもの朱希ならば、斯様な所作を見せるはずがない。しかし、そこにいるのは朱希に他ならない。一体、彼女に何が起きたのだろうか。
「私の願いを、聞いて下さりませんか……」
「…………言ってみろ」
朱希を促しながら、陽貴はある種の予感を感じていた。無意識のうちに、ごくりと生唾を飲み込む。
「して……欲しいです…………」
――――果たして、その予感は的中した。
ひどく小さな声で、それでも真っ直ぐに陽貴を見つめながら、朱希は「お願い」を口に出す。
「な、に?」
その瞬間、陽貴の全身に血が駆け巡り、身体が一気に熱を帯びた。
「お願いです。して、頂けないでしょうか……」
落ち着け、自分は何を想像しているのだ。目の前にいるのは水勢の巫女だぞ。決して穢しては、ならない。
「やめろ、震えているぞ。…………無理をするな」
赤子をあやすかのごとく、陽貴は朱希の髪を優しく撫でた。そして同時に、自分自身の感情を必死に抑える。
水勢の巫女に手を出せばどうなるか。それは昔から伝え続けられている。すなわち焔之神の怒りを買い、水勢の土地を、ともすれば日ノ本を焦土と化す事を意味する。いくら水勢の巫女自身が望んだからと言っても、決して許される事ではないのだ。
朱希の気が治まるのを、陽貴はただひたすら祈っていた。
「いや、いやです……! 私は、陽貴様に、陽貴様じゃないと…………!」
ところが陽貴の意に反して、朱希は陽貴の胸に抱き付いた。瞬間、微かな嗚咽が漏れる。
同時に、陽貴の忍耐が限界を迎えた。
「っ!」
陽貴は朱希を強くかき抱く。
「朱希殿が後悔しないのならば…………朱希殿が、望むのなら………………」
――――俺は、何と醜い人間だろうか。己の欲望を満たすために、全てを朱希に押し付けた。
自分自身には何も責任がない。そう言いたいのか。
「はい……………陽貴、様………………」
朱希が顔を上げる。陽貴は彼女の後頭部に手を回すと、深く口付けた。
「んっ…………」
思った以上に朱希の唇は柔らかかった。朱希からくぐもった声が聞こえ、陽貴はそれに煽られて更に唇を貪る。
もう躊躇いはない。たとえ焔之神に罰されようとも、朱希をこの手で抱けるのならば、後悔はない。
口付けたまま陽貴は朱希の白衣に手を這わせ、中へと滑り込ませた――――
* * *
「陽貴、起きろ!」
その瞬間、陽貴は目を覚ました。
目の前には朱希ではなく、火連正斉――水勢藩・第六代藩主がいた。幼い頃から仕えている主は、心底呆れた様子でこちらを見ている。
「あ、き、殿は………?」
「阿呆。寝ぼけるな。今は執務中だぞ」
「は、執務中? えっ…………」
執務中という言葉に反応して、陽貴は勢いよく顔を上げ、左右を見る。
確かにここは、水勢城の執務室だ。どうやらこちらが現実で間違いないらしい。
「何だ。朱希殿の夢でも見ていたのか。お前は本当に朱希殿以外頭にないのだな」
「ち、違っ……そのような事は、決して!」
「名門・宮代家の次男が身分違いの恋に耽るとはねえ。お熱いのも大概にしないと、」
「殿! おやめください!」
にやにや笑いながら話を続ける正斉に、陽貴は羞恥に耐えられなくなって反抗した。
「いつもそうやって拙者をからかっては楽しんで……殿も他になさる事があるでしょう!」
「つれないなあ。此方には陽貴しか遊び相手がいなくて、寂しいんだぞ? だのにお前と来たら水勢の巫女に骨抜きにされて、ああ孤独の何とつらいことか」
「だから! 朱希殿とはそのような関係ではございませぬ! 朱希殿は水勢の巫女。色恋沙汰などもってのほかにございます!」
このような正斉と陽貴のやり取りは日常茶飯事だ。正斉が陽貴をからかい、陽貴がそれに反抗する。ムキになって返せば、ますます正斉が面白がる一方なのだが、それを分かっていても陽貴は反抗せざるを得なかった。
「ふうん……まあ、それを分かっているなら問題はないが」
すると、正斉の表情が打って変わる。ふざけている顔ではなく、真剣な顔――――藩主としての顔だった。それにつられ、陽貴も姿勢を改めた。主君の公私の切り替えは、いつ何時来るのか分からない。小姓の時から十年以上の付き合いになるが、陽貴はいまだに正斉を掴めていなかった。
「陽貴、忘れるなよ。水勢の巫女とは何たるか。焔神社が、そして焔之神が、何のために存在しているか」
「…………承知いたしております」
分かっている。口ではそう言っても、感情の制御が難しいのは確かだ。現にこうして夢の中で朱希と事に及ぼうとした。憧憬を感じているのは認めなければならない。
朱希が水勢の巫女でなければ。いっそのこと、自分が焔之神であったら。そんなどうしようもない幻想を抱えながら、陽貴は再び筆を手に取った。