出逢の章
――――奇妙な幼子だ。
目の前で佇む姿を見て、陽之介は思った。
陽之介は、水勢藩家老・宮代義直の次男である。上流階級の武家である宮代家は代々、重臣として藩を支えてきた。
陽之介は次男であるため、家督を継げる立場にはないが、元服し、やがては水勢藩の家臣となるべく、勉学に励み、剣の腕を磨いていた。
今日は昼過ぎまで、剣術の稽古があった。稽古を終え、家に着いたかと思った矢先、家の前に、見知らぬ幼子が立ち尽くしているではないか。
肩ほどで切り揃えられた黒い髪に、明るく白い肌、そして赤い着物。手には、大事そうに毬を抱えている。
以上の特徴からは、幼子が普通の人間であるかのように思える。だが、それとは決定的に違うものが、幼子にはあった。
幼子の瞳は、紅に染まっているのだ。
陽之介が奇妙だと思った原因はそれだけではない。幼子の、何の感情も伝わってこない表情もまた、いっそう奇妙だった。動じる事がない、と言えば聞こえは良いかもしれないが、年相応の無邪気さを、幼子から感じ取る事ができないのだ。
「……そこで、何をしている?」
どれほどの間、幼子を見つめていただろう。陽之介はようやく口を開き、彼女に声をかけた。
「…………なにも」
対する幼子も、返答する。今にも消え入りそうな、か細い声で。
「そこにあるのは、俺の家だ。お前がいると、中に入れないのだが、避けてはくれぬか」
幼子はおもむろに後ろを振り向く。そこには、見覚えのない家が建っていた。
「ここは、どこ?」
「城下町の北側、武家屋敷の並びだ。もしかして、迷子か?」
陽之介の言葉を聞いて、幼子は黙りこくる。そして、少し経ってから、ゆっくりと頷いた。
「……どこから来たのか、分かるか?」
「………………あっち」
幼子は、歩いてきたと思われる方向を指さした。
「一人で帰るのは危ないだろう。送ってやる」
年相応に泣きじゃくるなど、他に反応があるだろうに、幼子は表情一つ変えずに、自身の状況をのみ込んだらしい。
幼いにしては非常に冷静ではあるが、それでも一人で家に帰すのは、いささか不安が残る。陽之介は、この幼子を家まで送る事にした。
「いいの?」
「ああ。手を貸せ」
陽之介は、空いている手を幼子に向かって差し出す。すると、幼子はおそるおそる、自分の手を乗せた。
* * *
歩き出してすぐに、陽之介は周囲から奇異の目で見られている事に気付いた。
「あの瞳、見たか?」
「一緒に歩いているのは、宮代家の次男よね……」
「あの娘、よく平気で隣を歩けるものだ」
大人とは、つくづく立ち話というものが好きらしい。行き交う人々は自分達を――――特に、幼子を見ては、ひそひそと何かを話している。あまり良い意味で噂されているわけではない事は、大人たちの表情を見れば分かる。陽之介にとっては、不快以外の何物でもなかった。
一方の幼子は、何を言われても無表情で淡々と歩いている。気にならないのか、聞こえていないのか、それとも、幼い故に大人達の会話が理解できないのか。気にならないのか、と尋ねたところで、幼子を傷つけてしまってはいけない。気を遣うあまり、幼子に話しかける事もできなかった。
「うわっ、物の怪だ!」
その時、近くを横切った子供が数人、幼子をに向かって騒ぎ立てた。物の怪というのは、紅の瞳を見て言っているのだろう。陰でこそこそと話す大人も質が悪いが、思いの丈をそのまま表現してしまう子供もまた、煩わしい。
「……行くぞ」
物の怪と言われた瞬間、幼子は肩を大きく震わせ、立ち止まった。おそらく、この様子だと何処にいても幼子が後ろ指をさされ続けるだろう。それは幼子のためにはならない。陽之介は幼子の手を引っ張り、先を急いだ。
* * *
「あっ」
「どうした?」
「わたしのお家、ここ」
「なに?」
幼子の小さな声を、危うく聞き逃しそうになった。陽之介は、一瞬立ち止まってから、行き過ぎてしまった数歩分を後戻る。
幼子が指さす家は、中流の武士の家だった。
幼子もまた、武家の子供だったらしい。自分の家をはっきりと覚えているあたり、記憶力は悪くはないようだった。
「無事に着いて良かったな。もう迷子になるなよ」
陽之介は幼子から手を離すと、その手で頭を優しく撫でた。元来、小さい子供の世話は年長者のする事であり、次男の陽之介は、あまり慣れてはいない。しかし、もし自分に妹がいれば、このような感覚なのかもしれない、と思った。
「ありがとう」
幼子は心地良さそうに目を細める。初めて、幼子に何らかの感情が現れた瞬間だった。
「お前は、何とも思わないのか?」
陽之介は思い切って、気になっていた事を尋ねた。しかし幼子は、何の事か合点がいかなかったらしく、首を傾げる。
「……物の怪呼ばわりされて、平気なのか」
物の怪、という言葉を、本当は口に出したくはなかった。質問してしまった事を、陽之介は少し後悔した。
「…………いつものこと、だから」
幼子は、無表情に戻って、返答する。
ああ、やはりそうなのか。年端もいかぬ幼子ゆえ、周囲は何を言っているか理解できないと思っているのだろう。
だが、幼子は明らかに傷付いていた。今までずっと、周囲からの中傷を、幼い体で受け止めてきたのだろう。
「でも、かあさまがね、いってくれるの。あなたはもののけじゃないのよ、って」
だから、平気――――陽貴には、幼子が暗にそう言っているように聞こえた。
「そうか。良い母上なのだな」
「うん」
幼子は頷くと、再び和らいだ表情を見せた。
「ああ、そうだ。名は何と言う」
別れ際に、陽之介は幼子に問う。
「あき。なまえは、あきだよ」
「あき、か。……では、またな、あき。いずれ会う事があれば」
「うん。ありがとう、さよなら」
幼子が家の中へ入るのを見届けると、陽之介は今度こそ帰路についた。
これ以上、幼子が傷付く事がないよう、祈りながら。
* * *
それから、七年の後。
宮代家では、陽之介の元服の儀が執り行われていた。
「元服おめでとう、陽之介。いや、陽貴」
「ありがとうございます、父上」
「宮代家の名に恥じぬよう、立派なお勤めを果たすのですよ」
「はい、母上」
宮代陽貴。幼名を陽之介。
元服したばかりの彼は知らない。あの日に出会った幼子との再会が、もうすぐ待ちうけている事を。