逢瀬の章
水勢藩の城下町から、南南西に三里ほど下った位置に、焔神社はあった。敷地はあまり広くなく、参拝客も毎日訪れるものの、細々と姿を現すのみである。しかし祭神の焔之神には、水勢藩との関わりを断ち切ることができないほど多くの伝承が残されており、一部の民からは深く信仰されている。
神社の歴史は古く、伝承によれば、帝が南都におわした頃から存在していたとされている。現在は、藩主である火連氏の手厚い保護をうけ、毎年十月になれば、盛大な祭が行われている。
その焔神社に向かう街道を、宮代陽貴は馬で駆けていた。浅葱の小袖と紺の裃が、向かい風になびき、一つに結い上げた総髪が左右に揺れる。
陽貴は、藩主・火連正斉の名代として、祈祷を受ける事になっていた。正斉は、参勤交代で江戸に赴いている間に藩内で祈祷が行われる時、必ず陽貴を向かわせている。
それは、陽貴が寺社の保護方針を決定する役に就いている事に起因するのであろうが、せめて重要な祈祷の際ぐらい、上の者を向かわせるべきではないのだろうか、と考えた時期もあった。
だが今では、陽貴の中に、その考えは微塵も存在していない。確かに、往復で六里の距離を移動するのは、少し骨は折れるが、それでもやはり、他の誰かが焔神社に向かうのは、耐えられない。
陽貴には、どうしても焔神社に行きたい理由があった。
* * *
道中で馬を休めながら、一刻ほどで焔神社に到着した。馬を縄で適当な木に括り付け、陽貴は境内に続く階段を上る。石段を一段一段上るにつれて、ザッ、ザッと、箒で地面を掃く音が聞こえてきた。境内に着いてみれば、一人の巫女が掃き掃除を行っていた。
「精が出るな、巫女殿」
「こんにちは。本日も良い天気ですね、陽貴様」
陽貴が声をかけると、巫女は顔を上げて、彼を見遣る。
「正斉様は、もう江戸へご到着されましたか?」
「ああ。あの人……殿から、先日文が届いた。奥方様共々、元気にお過ごしのようだ」
仮にも藩主の名代として参上したのに、その藩主を人前で「あの人」呼ばわりなど、いくら何でも失礼だ。陽貴は咄嗟に「殿」と呼び直した。
「それは何よりです。先月、お会いしたばかりですけれど、また一年はお会い出来ませんから」
およそ一月前、正斉は陽貴を連れて焔神社を訪れていた。それは、その数日後に控えた参勤交代の道中、何事も起らぬよう、無事を願うためであった。
一年の間、正斉は水勢藩にいない。という事は、焔神社へも、一年間訪れない事を意味する。
「来年、再び正斉様のお姿を拝見できますよう、この社からお祈り申し上げております」
ささやかながら、巫女は遠く離れた地に赴いた藩主の無事を祈る。
「……では、そろそろ拝殿へおいでください。ご案内いたします」
「ああ、よろしく頼む。朱希殿」
朱希と呼ばれた巫女は、陽貴を先導しながら、本来の目的のために拝殿へと向かった。
* * *
今回は、正斉の正室の安産祈願のため、朱希が祈祷の舞を奉納する。いよいよ、水勢藩待望の嫡子が生まれるか、という事もあり、藩全体が浮足立っていた。
「それでは、只今から正斉様の御正室の安産を祈り、祈祷の舞を納めさせていただきます」
朱希は、陽貴に一礼すると、祈祷の舞を始めた。陽貴もまた、そちらに集中する。
――これが、水勢の巫女の舞か。
巫女舞の細やかな動き、その一挙手一投足に、陽貴は魅入られていた。
水勢の巫女は数百年に一度生まれる女子を指す。その証は瞳にあり、巫女の瞳は代々、真紅に染まっていた。朱希も例外ではなく、円らな瞳の色は真紅である。初めて朱希の瞳を見た時、まるで音に聞く紅玉のようだと、陽貴は思った。
陽貴は、朱希の詳しい出自を知らない。朱希は幼い頃から、この社で過ごしてきたと聞いている。両親はいるのか、今も会う事はあるのか、と尋ねるのは酷であろう。
そんな朱希が、安産の祈祷を行っている。親をほとんど知らぬ朱希の心中は、如何ばかりだろうか。
考えていても仕様がないと思いながら、陽貴は朱希の生い立ちについて、思考を巡らせていた。
* * *
「お疲れ様でした、陽貴様」
「朱希殿こそ、ご苦労だった」
祈祷は無事に終わった。陽貴と朱希は拝殿から離れ――朱希が居住する館――に移動した。陽貴は客間に通され、暫くして朱希から緑茶が差し出される。
陽貴は湯呑を受け取ると、まだ熱い緑茶を一気に口へ運んだ。
「御子は、もうすぐお生まれになるのですか?」
「俺も詳しい事は知らないが、殿の文によれば、奥方様のお腹も随分と大きいらしい。生まれるのは時間の問題であろう」
「そうですか……立派なお世継ぎがお生まれになるといいですね」
「ああ、そうだな」
陽貴が湯呑を置くと同時に、会話が途切れる。
「……羨ましい、のか?」
一瞬の沈黙の後、先に口を開いたのは陽貴だった。
「…………えっ?」
「顔が、そう語っている」
陽貴の指摘を受けて、朱希は言葉に詰まる。朱希自身は、全く気付いていなかったのだが、どうやら無意識のうちに、感情が顔に現れてしまったらしい。
「分かりません…………羨ましいのではなく、寂しいのかもしれません」
朱希は、自嘲的な笑いをもらす。
「寂しい?」
「はい。両親と別れ、五歳からこの神社で暮らすようになり、大神主様に育てられましたが、その大神主様も一四の時に亡くなりました」
陽貴は、朱希の台詞を一字一句漏らさぬよう、静かに耳を傾けていた。
「大神主様は、時に優しく、時に厳しく、躾や礼儀作法を教えてくださりました。親代わり、とも言うべき存在です。ですが、私は、本当の親というものをよく知らないのです。親がいるという、普通の人生を、送ってみたかったと、そう考えることもあります」
送ってみたい、ではなく、送ってみたかった。
その言葉だけで、朱希が何を思っているのか、陽貴には察することができた。
「私は、水勢の巫女ですから。一生をここで過ごさなければなりません。与えられた使命を果たすために」
「………………ああ、そうか」
朱希は覚悟を決めていた。そして同時に諦めていた。
そんな彼女に、これ以上声をかける事はできない。
「……長居し過ぎた。そろそろ帰らせてもらおう」
陽貴は立ち上がり、客間を後にする。朱希の笑顔を見るのも、今はただ、つらいばかりだ。
「陽貴様」
突然の退出に、朱希はあわてて陽貴の後を追いかける。
朱希の歩幅で陽貴に追いつくのはなかなかに時間がかかり、陽貴が石段を降りようとした時、ようやく朱希は彼に追いついた。
「ま、待ってください!」
朱希は陽貴の小袖を掴む。それにつられ、陽貴は歩みを止めた。
「あの……またの来訪をお待ちしております」
「ああ。近いうちに、また来る事になるだろう」
後ろを振り向き、それだけ朱希に伝えると、陽貴は朱希の手を離れ、石段を駆け降りた。
* * *
「陽貴、様…………」
一人きりになった神社で、石段を見つめたまま、胸元で手を握り締めた。
次に会うのは、いつになるだろう。それまでに、心の中で燻る思いが、大きくならないよう、朱希は静かに願った。