08 アウルと巨人とルクレツィア
腕を三本、斬り飛ばした。
筋肉に鎧われた腕が、秋空の自然公園に舞う。見様によっては随分とシュールな光景だ。
多腕巨人はそれでも怯まず、残った腕を振り下ろしてくる。伝説の様に百の腕があるわけではないが、それでも三十以上の腕から繰り出される攻撃は避けるだけでも一苦労だ。
思わずバックステップで距離を取る。
「結構手強いですね」
「そうでもないさ。少し堅いが、倒せない相手じゃない」
強がりではない。伊勢崎に<祝福>を掛けて貰いながら、俺はヘカトンケイルの動きをつぶさに観察していた。俺が片方の腕ばかり切り落とすので、奴の巨体は徐々にバランスを崩し始めている。元々動きの速い眷属ではないが、これなら大技が決められそうだ。
七不思議研に加わって三日、いや、もう四日目になる。
昨日の夕方に請けた依頼は単なる偵察だけのはずだった。予想される脅威度もほぼ最低。ところが俺の予想は外れ、今こうして強敵と戦う羽目になっている。予期せぬ宵越しのミッションだ。
元は天使の支配領域から少し距離のある地方都市で眷属の目撃例があるから、念のために確かめるというミッションだった。こういう場合、住民が不安で勘違いしていることが多い。戦闘がなさそうなので俺は渋ったのだが、七不思議研としてこの依頼を請けることになった。詳しくは知らないが、久藤には久藤なりの基準があって依頼を選んでいるらしい。一体どこからの情報なのかは知らないが、なかなかの確度だそうだ。そして今回も久藤の予想は大当たり、ということだ。
「さて、あまりもたもたもしてられねぇか……」
地面を蹴り、一気に敵の巨体に肉薄する。相手の死角になるように、後ろ側に回り込んでいく。
銃声が響いて敵の腕がまた一本、爆ぜた。久藤だ。
ヘカトンケイルには魔法が利きにくいので、牽制から援護まで、射撃は今回全て久藤の役割になっている。ルクレツィアは上空から全体の様子を監視する、という分担になっていた。連携は、完璧だ。
「久藤さん、アシスト!」
「はいよ。ワタセさんのアシストは遣り甲斐あるからねぇ、いつでもOKだよ」
少し離れた敵側面の木陰で伏射姿勢を取っている久藤から返事が聞こえる。そして、銃声。
アサルトライフルとは思えない精密射撃で、ヘカトンケイルの眼が撃ち抜かれる。やはり久藤は大した腕だ。驚いて傾いだ敵の隙を見逃さず、俺は跳躍して胸板に両刃剣を突き立てた。分厚い筋肉の層を貫くが、しかし手応えが無い。
「しまった……失敗か?」
傷口から噴き出す体液の量が明らかに少なかった。こういう人型の眷属の場合、胸部に心臓の代わりとなる体液の循環を司る器官が据えられていることが多いのだが、見誤ったらしい。胸腔は空っぽ。必殺を狙った渾身の一撃は空振りしてしまったわけだ。
巨人が不気味に口元を緩ませる。剣が、抜けない。隆起した筋繊維が絡み付き、締め付ける。敵の胸で両足を踏ん張るが、ぴくりとも動かない。
「ちっ!」
舌打ちしながら、剣を一度ペンダントに収納する。剣は抜けるが、タイムロスが痛い。もう一度出現させるまでの間、徒手で敵の攻撃を躱すことになる。一発貰うだけでもダメージが大きいので、慎重にならざるを得ない。
久藤の合図で上空に待機していたルクレツィアが敵の目の前に急降下して注意を逸らしてくれる。その隙に俺は久藤が伏せているのとは反対の木立に場所を移した。そのまま下がれば伊勢崎を危険に晒すことになる。防禦力の低いあいつを矢面に立たせるわけにはいかない。何事も役割分担だ。
樹々の隙間から、鏃に成型したアウルを飛ばして挑発し、多腕巨人の敵意をこちらに向け、おびき寄せる。天魔の侵攻からこっち、手入れの行き届いていない公園や緑地は樹木が繁茂してちょっとした森の様になっていることが多い。ここもその御多分に漏れず、身を隠すのにいい具合に茂っている。俺は幹の陰に身を隠しながら、武器を再出現させた。動き回って上がりかけた息を整える。
俺を追って森に突っ込んできたヘカトンケイルは邪魔な木を薙ぎ倒しながら真っ直ぐにこっちへと向かってきた。眷属の視覚や嗅覚、聴覚がどの程度生きているかは創った天使次第だが、こいつはそのどれかが随分と発達しているらしい。
がむしゃらに腕を振り回し、根こそぎ木を叩き潰しながらの突進はかなり迫力がある。片方の腕を重点的に斬り飛ばしたから動きは多少鈍くなっているが、それでも突進の威力は健在だ。早めにケリを付けないと、一撃でも貰うとダメージが大きい。
「渡瀬さん!」
いつの間に後ろに回り込んだのか、長柄槍を抱えた伊勢崎が木立の間で息を切らせている。俺が七不思議研に加入してから、伊勢崎の役割は完全に回復役に固定されていた。その方が効率的だし、何より四人全員の生存率が高まるからだ。高度に専門化した部隊編成では、一人欠けると役割の補填がしにくい。特に伊勢崎の回復スキルは貴重だ。夜通しの探索行の後でも疲労なく戦えるのは伊勢崎の回復のお陰だった。
「おい、何でこんなところまで! あいつの突進は見ただろ?」
「だって回復役ですよ、私。一番怪我しやすい前衛の後ろにいないと意味がないじゃないですか」
何か言い返そうとして、止めた。
言葉が見つからない訳じゃない。逆だ。言葉が見つかり過ぎる。次から次に頭に浮かぶ言葉は全て珪が俺に向けてかけてくれた言葉だった。大して強くもないくせに先走る俺のことを、珪はこういう風に見ていたのか。歯がゆい。何としても押し止めたい。でも、尊重してもやりたい。
「……勝手にしろ」
辛うじてそれだけ呟き、伊勢崎に背を向ける。
不思議と、気分が穏やかだ。
背中を預けるのではなく、背中にいる誰かを守るというのも案外良いものなのかもしれない。そう思うと、身体の底から力が湧いてくるような気がする。胃の腑の辺りにあった重苦しい何かが、ふっと消えてしまったようだ。
横一文字に構えた両手剣にアウルを籠めた。今までよりも刀身が軽く感じる。膂力ではない。アウルが強くなっているのだ。今なら、何でも斬れる気がする。
「これなら……いける、か」
臍下丹田に意識を集中し、体内を巡るアウルの流れを整える。
落ち葉や枯れ枝を踏み散らしながら迫る多腕巨人に正対し、剣を構えた。迸る剣気に気付いたのか、巨人が足を止め、低く唸り声を上げた。身長はざっと四メートル。人の躯を無理矢理組み合わせた偽りの巨神は深く静かに力を溜めている。
風が、吹いた。
舞い散る落葉の中を、一気に跳躍する。身体が、羽毛のように軽い。
巨人と馳せ違った。狙うは、膝。
多頭多腕の巨神の名を冠した眷属の膝頭に、両手剣の柄尻を叩きつける。骨の砕ける鈍い音が響き、敵の巨体が崩れ落ちた。
† † †
「お主、魂の色が変わったのぅ」
戦闘終了後、ベンチに座る俺にそんなことを言ってきたのはルクレツィアだった。
弁当に持ってきたカツサンドを頬張りながら横に座る。倒したヘカトンケイルの死体を地元の撃退局と保険所の防疫課の役人が見に来るというので、久藤と伊勢崎はそっちの応対をしている。単純な戦闘要員の俺とルクレツィアは手持無沙汰、というわけだ。
はぐれ悪魔にもいろいろいるが、ルクレツィアは<暴食>を本質とする悪魔に分類される。
要するに、食い意地が張っている悪魔だ。四六時中何かを食べているのは本来のエネルギー源である「人間の魂」が摂取出来なくなったということもあるが、それだけではない。そもそもルクレツィアが人間側に裏切った理由が、「美味しいもの食べたい」だったというのだから堂に入っている。それだけこっちの食べ物がお気に召したらしい。
「魂の色?」
「ああ、お主らの言葉で言えば、アウルの質が変わった、とでも言えばいいかの」
「どういうことなんだ? さっぱり話が見えない」
アウルには謎が多い。
魂や生命の力だと言われているが、そもそも魂とは、生命とは何なのか。
アウルを纏った人間は天魔と戦うことが出来る、ということで世界中で研究が進められているが、あまり芳しくはないようだ。物理学よりも宗教学や神学で扱うべきものだ、と自嘲気味にコメントした物理学者もいるらしい。
「此方も悪魔では下っ端じゃったからな。詳しいことは知らんよ。だが、お主の魂は色が変わった。熟成された、というか何というか」
「歯に物が挟まったような言い方だな。はっきり言ってくれ」
「あー、つまり、じゃ。今のお前さんの魂は、“とても美味そう”に見える」
背筋に冷たいものが走った。
ルクレツィアの眼は、捕食者の眼ではない。あくまでも仲間の眼をしている。
だが、その本性は「魂を喰らう者」としての、悪魔だ。そのことは変えようがない。そのルクレツィアが俺の魂は美味そうだ、と言っている。ということは実際に彼女らにとっては美味いのだろう。
駄目だ。
思い出してはいけない。
記憶の奥底に沈めておいた忌まわしい何かが、意識の表層に浮かび上がろうとしている。
駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。
『君の絶望は実に素晴らしいよ、ホモ・サピエンスの少年』
重々しい、それでいて嘲弄するような口調。耳朶の奥にあの天使の声が蘇る。
悪魔と天使では、食べるものが違う。
悪魔は生きとし生けるものの魂を。
そして天使は感情を。
二つのものは違うものとして捉えられているが、その関係は不鮮明だ。
「……一つ、聞きたい」
「なんじゃ。此方に答えられることなら答えてやろう」
「俺の……俺の魂が、その、美味そうだっていうことは分かった」
「ふむ、そうじゃな」
「例えば、その、本当に例えばなんだが……俺の“感情”は、天使には美味そうに見えると思うか?」
ルクレツィアの口元から、笑みが消える。
食べ掛けのカツサンドを弁当箱に戻し、小さく溜息を吐いた。その様子はいつも黙々と食糧を食べ続けている可憐な少女悪魔の表情とは違って、どこか荘厳な近寄り難ささえ秘めた、悪魔のそれだった。
「お主、どの天使から狙われておる?」
「狙われている、というか、前に“美味そう”だって言われたことは、ある」
「じゃから、それは誰から言われた? 言った奴はもう斃したのか?」
「いや、まだ死んでない、と思う。俺もずっとそいつを探してて、名前も分からないんだ。白髪で、筋肉質の男の天使なんだが……」
久藤め、とルクレツィアが小さく呟いたのを俺は聞き逃さなかった。
形のいい眉根を寄せ、明らかに表情が険しくなる。
それからルクレツィアはまるで隣に誰もいないかのように腕を組み、独り言を言い始めた。それは悪魔の言葉なのか、俺には聞き取ることさえ出来ない。ただ、何か意味のあることと言うよりは、呪詛や恨みつらみのような響きだった。
一しきりそうやって呟いた後、俺の方に向き直り、
「とりあえず、お主。なるべく夜道は一人で出歩かんことじゃな」
「それは、俺が今も狙われている、ということか?」
「そんなことは此方には分からん。専門外じゃ。用心に越したことはない、という忠告じゃと思ってくれればよい。ただ、お主の“魂”も“感情”も、実に美味そうに見えるということだけは事実じゃな。此方も人間の食事に宗旨替えしてなければ、少し味見をしてみたいと思うほどには美味そうに見えるぞ」
そう言って冗談めかした舌なめずりをして見せる。
知らなかった。悪魔でも人を気遣って冗句を言うことがあるのか。
「魂の味が……じゃのぅて、色が変わった理由にお主は何か心当たりがあるか?」
「いや。戦ってる途中に、急に武器が軽くなったように感じただけだ」
「ふぅむ、それだけではよく分からんのぅ」
「よくあることなのか?」
「さてな。生き物としての在り方がよほど大きく変わらぬ限り、魂も感情も根底から変わってしまう、ということはないと思うがのぅ。お主の今までのアウルの色が、<凍てつくような灰色>だったとすれば、今は<包み込むようなオレンジ>と言ったところか。これほど色調が変わる、というのはな」
「そういうもんか」
<包み込むようなオレンジ色>と聞いて思い出したのは、あの中華料理屋の照明だ。
店内から路地にこぼれる光の色にはその表現がしっくりくる。そう言えばあの次の朝から、色んな事が少しずつ変わっていた。普通の食事を摂るようになったし、気に入った依頼の無い時は授業にも出るようにしている。
まだ一週間経っていない、と考えると随分と変わったものだ。
公園を、ぬるい風が吹き抜けた。
空は晴れているが、今朝から風が強くなってきた。海水を含んだ風は、べったりと重い。予報では明日の早朝、台風が関東に上陸することになっていた。 カツサンドを口に運びながらルクレツィアは遠くを見ている。はぐれ悪魔の表情からは、何も読み取れそうにはない。
「嵐がくるのかのぅ」
ルクレツィアが、言った。