07 図書館と図面とおやつのバナナ
まるで秘密基地みたいだ。
円筒形のエレベーターは奇妙にゆっくりとしたスピードで地下に潜っていく。ここは久遠ヶ原学園附属学生図書館の新館で、俺たちは立ち入り制限のある地下書庫に向かっていた。
鋼線の入った強化ガラス張りの窓からは膨大な量の資料が収められた書架が並んでいるのが見える。「現代のアレキサンドリア図書館」をキャッチフレーズにしているだけあって、蔵書数は膨大だ。日本国内でも有数の規模だという話だ。
戦闘の合間にだけ調査を手伝うという約束は早速反故にされてしまった。久藤に言わせれば「昨日戦闘をしたんだから、今日は合間になるんじゃないかね」ということになるのだが、そんな都合のいい話があるだろうか。朝の日課の途中で呼び出されたかと思えば、そのまま図書館に連行されたという具合だ。
地下三〇階に到着し、エレベーターが停止する。空調が低く唸る音以外は何も聞こえない。
この階層を利用している学生はほとんどないのか、とても静かだ。
書庫の中は暑くもなく、寒くもない。書籍の保管に最も適した温度・湿度に保たれている。
紙を傷めないようにわざと弱くされている照明の中を、俺と伊勢崎は久藤の先導で奥に進んでいった。ルクレツィアは留守番だ。はぐれ悪魔の彼女はまだ、日常で使う以上の文字が読めからしょうがない。
「にしても、こんなところ、はじめて入るな」
最初は渋ったものの、来てみるとこういうのも結構楽しい。
普段見ることのない場所を見るのは新鮮だ。本を読むのは嫌いではないが、これほどたくさんの本が並んでいるのを見たことはなかった。子どもの頃、親に連れて行ってもらった本屋で「この世界の全ての本をいつか読んでみたい」と思っていたのが馬鹿馬鹿しくなるような光景だ。
「ここはセキュリティがしっかりしてるからねぇ。地下一〇階以下は図書委員会の許可が無いと入ることさえ出来やしない。他ではちょっと見かけない稀覯本も多いから」
「魔術書とかもいっぱいあるんですよね」
天魔に通常兵器が通用しないと分かった時、次善の策として駆り出されたのは世界各地に伝わるオカルティックな退魔術、祓魔術の類だった。神智学や黒魔術、魔女術にカバラ、方術、道術、密教、神道、陰陽道、修験道にブードゥー、ムガンガまでありとあらゆる知識が総動員され、試行錯誤された。
もちろんインチキも多かったが、玉石混交の中から本物だけを選り出し、整理統合して現在の撃退士の戦闘術の基礎が作られている。
「国際撃退士養成機構、ってところに長野っていう爺さんがいるんだけどね。ウソかホントか先祖が武田信玄とやり合ってたっていう家系の人なんだけど、この人が学園の設立に深く関わっててね。大した剛腕で世界中から無理矢理掻き集めてきた本が、ここにはたっぷり詰まっているんだ」
久藤が楽しそうに衒学を披露する。こういう所で饒舌になるキャラだとは思わなかった。
「レメゲトンや黒い雌鳥みたいな有名どころの魔術書は勿論のこと、本物の萬川集海、天書大中祥符、ヴォイニッチ手稿のオリジナル、ホツマツタヱの完本、怪しげなところでは山海経の原典とされる螺湮城本伝の写しなんてものまで収蔵されてる。ビブリオマニア垂涎の図書館だな」
「で、七不思議研がそんな所に何の用があるんだ? 本のページに封じられた悪魔でも襲ってくるなんて噂は聞いたことないけど」
「私たちの探してるのはそんな怪しげな本じゃないですよ。島の地図です」
「島の地図ならいくらでもあるだろ? 確かに新しい建物とかどんどん増えてるから分かりにくい所もあるけどさ」
「ワタセさん、私らが見たいのは、普通の地図じゃない。地下の奴なんだ」
スペースを省く為に人が入れない狭さで並べられている書架を手動のハンドルで動かす。
つんと鼻にくる古書独特の匂いが通路に立ち込めた。目当ての本はこの書架の中にあるはずだが、背表紙も黄褐色に変色していて読み取りにくい。
「昨日渡瀬さんにもお話した、呻き声の話を覚えてます?」
「ああ、ケーソン工法とかいうので沈めた函に空気を送り込んでる、って奴だろ?」
「はい、そうです。その呻き声の正体になっているコンプレッサーを実際に見てみたいな、って」
「保守点検用の通路が使えれば楽なんだけどねぇ。こんなことあんまり大きな声じゃ言えないが、島には破壊工作をしようとする奴もいうっていうんで、生徒会が重要な通路には通行に制限を掛けている。七不思議の調査に来ましたっていう理由じゃちょっと通してもらえそうにないんだよね」
スパイや破壊工作についてはよく聞く。
力を持っているものの扱い方を間違った元撃退士や、寝返ったと見せかけてこちらの内情を探っているというはぐれ悪魔と堕天使。各国の情報機関の密偵が紛れ込んでいるという噂もある。
「その為に地下の地図が要る、ってことか」
「島の地下には旧日本軍が要塞化した時の名残で地下壕とそれを結ぶ地下通路が走っています。一部は埋め立てられたり、この図書館みたいに再利用されてはいるんですが、これを上手く辿れば、呻き声の頻発している島の外縁部、潜函の埋まっている場所まで通じているはずなんです」
「それをここから探せばいいんだな」
三人で手分けをして一冊一冊確認していく。俺の分担が下の段なのはこの中で一番身長が低いことを考えると理に適っているのだが、少し悲しい。
こういう作業をする時に人の性格はよく現れる。久藤と伊勢崎は流石に手慣れたものだが、俺はどうしてもこういう作業が苦手だ。珪ならきっと難なくこなすんだろうが。
そんなことを考えていると、ペンライトで照らしながら背表紙をなぞっていた伊勢崎の指が一冊の本のところで止まった。
「ありました、これです。戦時中の久遠ヶ原島要塞化計画の図面!」
禁帯出の資料なので、同じ階に設えられている特別閲覧室に慎重に運び込む。
右上に大きく朱色で「秘」の印が捺してある書類は保存状態が悪かったのか、紙が激しく傷んでいた。判読は出来るが文字も霞んでいるので骨が折れそうだ。
「隅の方が焦げてるなぁ。終戦のどさくさで燃やそうとしたんだろうけど、残ってて良かった良かった」
「こんな資料があるってよく分かったな。防衛省とか、国会図書館とか、そういうとこにありそうなもんだけど」
「まぁ、ここにあるって調べるのにはちょっと苦労したけどね。餅は餅屋って奴さ」
「で、この図面に書いてある坑道を通っていくとして、どこまで潜っていけばいいんだ?」
「それはですね、これを見てください!」
嬉しそうに微笑みながら伊勢崎がナップザックからプリンタ用紙の束を取り出した。
「ここに印刷してきたのは、これまでに呻き声を聞いたという噂の資料です」
「へぇ、そんなの全部聞き取りしてまとめたのか?」
「ワタセさん、流石に七不思議研だけでそんなに大規模な調査は出来ないよ」
禁煙パイポを咥えた久藤が苦笑する。それもそうだ。学園の学生はそれだけで六万弱。五〇〇もあるという七不思議を聞き取り調査するだけでも大変だ。しかも聞かなければならないのは七不思議のように曖昧なものだ。ちゃんとした結果が得られるとは思いにくい。
「そこで部長にお願いして、学園内のBBSから七不思議に関するトピックだけをピックアップしてデータベース化して貰っているんです」
「そんなに簡単に出来るもんなのか?」
「大層なことじゃあないよ。一度設定してしまえば偶にメンテナンスするだけで自動的にやってくれる。いやぁ、便利な時代になったもんだね」
紙の束の一番上には、久遠ヶ原島の詳細な全景がある。
「この、ところどころに打ってある赤い点のあるところが、噂の地点ってことか?」
「はい、ご明察。ワタセさんの言う通り、これが例の呻き声を聞いたポイントを図示したものだね。来週にでも地下に調査に入ろうと思っていてね。今日はその為の下準備、というわけだ」
「来週? さっさと入ってさっさと調べれば良さそうなもんなのに」
そこで伊勢崎が新聞の切り抜きを手帳から取り出した。週間天気予報の部分だ。週末の天気は全て傘マークが付けられている。
「今週末は台風16号が来ます。かなり強いみたいなんで、地下には入れません」
「なんで台風が来たら地下に入れないんだ?」
「豪雨の時には島の地下に雨水を逃がす仕組みになっているからね」
七不思議研として調査したい潜函に行くには、島の地下に埋設された外郭放水路を通らなければならない。台風が関東を直撃するとそこが通行出来なくなるから、来週まで待つということだ。
伊勢崎と久藤の二人が図面を丁寧に描き写していく。久藤は相変わらず見た目に似合わない几帳面な筆致だ。
「ここからここまでが二〇〇。で、こっちが一五〇、と。ははぁん、ここで地下倉庫と隣接してるのか」
「地下倉庫?」
「学園のガラクタ置き場みたいなところですね。研究の失敗作とか保管しておく所です。前に別の七不思議の調査で見に行ったときは戦車もあったんじゃないかな」
「戦車なんて学園にあったんだ」
「二〇〇〇年に退役した最後の61式だよ。当時の防衛庁に無理言って学園が譲って貰ったって話だ」
戦車を含めた通常兵器の重要性は年々低下しつつある。
眷属を含めた天魔にはダメージが与えられないし、彼らからの侵略を受けながら他国と紛争をする余裕のある国がほとんどないからだ。
治安維持や、天魔との戦いのその後を見据え、軍隊が解散されることこそないものの、日本でも自衛隊は随分と冷や飯を食わされているらしい、というのが専らの噂だった。
「天使にも悪魔にも威力のある砲弾の研究、っていうのを各国が競っていた時期があってね。透過を防ぐ阻霊符ってのがあるでしょ? アレの応用をしようといろいろ試行錯誤みたいなんだよね」
「成功、したのか?」
俺の問いかけに久藤は曖昧な笑みを浮かべて肩を竦めてみせる。
失敗した、ということなのだろう。当然だ。そんな実験が成功していれば大々的にニュースになるはずだし、制式採用されないはずがない。技術的な問題があったのだろうか。
戦えるのは、やはり撃退士しかいない。今は、そういう時代だ。
「よし、出来た」
「こっちも終わりしました!」
二人の作業が終わったのはほぼ同時だった。
元の図面から必要な部分だけ描き写した地図。これを頼りに地下深くまで潜っていくらしい。直接入れるわけではないので、行程は意外と長い。入り組んだ地下通路を、最低五キロは移動する計算になる。途中通れない個所があれば迂回することになるので、もう少し伸びるかもしれない。
「ま、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』みたいなもんだ。こっちはリーデンブロック教授と違って予め地図まで用意出来てるけどさ」
「あとはこれを人数分コピーして……買い出しにも行かないといけませんね」
「買い出しって、まさか、おやつとかか?」
「ロープやヘルメット、サバイバルキットに懐中電灯なんかは部長が放出品を人数分用意してくれることになってるんで、確かにおやつが中心になりそうですね。遭難するといけないんで、カロリー高めのものが良いです。バナナも買っていいですけど、皮は責任もって持って帰って下さいね」
まるで遠足だ。
だけど、ちょっとだけワクワクしている自分もいる。
流されている、という自覚はあるが、いまさら俺だけ行かない、と駄々をこねる気分にもならない。
「渡瀬さんも一緒に……来てくれますよね?」
少し不安そうに伊勢崎が俺の顔を覗き込む。
「……しょうがないな。付いてってやるよ」
「いやぁ良かった。戦闘になるかもしれんからねぇ」
戦闘?
たかだか学園の地下に潜るだけで、一体どこに戦闘の要素があるというのだろう。穴に潜るだけなら探検家でなくても配管工でも出来る。
「何と言っても他でもない久遠ヶ原学園の地下だからね。ちょっとした迷宮みたいなもんさ。アミュレットを探しに行くわけでもないが、眷属くらいなら出るかもしれないからね」
「冗談だろ? そんな風に戦闘に無理矢理絡めなくても俺も行くさ」
「そう言って貰えると嬉しいです」
決行は、来週月曜日。
それまでは約束通り戦闘にも付き合って貰う。
少しだけ、ほんの少しだけ、月曜日が待ち遠しく思えた。