04インターミッション
報酬は思ったよりも多かった。
斡旋所には相変わらずルイ・アームストロングのトランペットが響いている。
マスターが手渡す封筒はずしりと重い。と言っても中身は日本円ではなかった。久遠ヶ原学園の中だけで使える、“久遠”という地域通貨だ。日本銀行券と同じく偽造防止に楮と三椏を原材料に使い、久遠ヶ原の校章の透かしまで入っている。
日本政府はこの治外法権の島にあまり多くの富が流れ込むことを嫌っているらしい、というのは珪の受け売りだが、そうしなければならない理由には思い当たる節がある。つまり、天魔襲来後の日本経済は控え目に言ってもあまり上手く行っていないのだ。撃退士という身分に就いている、実態としての学生たちの銀行口座に貴重な現金を滞留させたくないというのが本音なのだろう。
「それにしても最後の渡瀬殿の獅子吼よ。思い出しただけでも胸が震えるのぅ」
茶封筒から早速久遠の札束を取り出したルクレツィアが扇子のように広げ、嬉しそうに頬ずりする。はぐれ悪魔や堕天使には最低限の生活費は支給されているはずだが、それでは足りないのだろうか。
悪魔や天使が人類に寝返る理由は色々だ。悪魔の中には物欲を満たすために仰ぐ旗を変える奴までいるという。ルクレツィアもその類なのだろうか。
「いやぁほんとに。ワタセさんは優秀なルインズブレイドだねぇ。もし一緒に来てくれてなかったらと思うとぞっとするよ」
久藤はよれよれのズボンの尻ポケットに茶封筒をそのまま突っ込む。あまりにもイメージ通りで、そのままワンカップ大関片手に競馬場にでも行ってしまいそうな風格がある。戦闘の時に見せた冴えはどこへ行ってしまったのだろう。
「渡瀬さん、本当に助かりました。ありがとうございます!」
頭に包帯を巻いた伊勢崎だけは、久遠ではなく日本円で報酬を貰っていた。生活の苦しい実家に仕送りをするらしい。両替のレートが低いので額としてはかなり目減りするが、それでも貴重な現金収入だ。母子家庭だという実家には有難いだろう。
あの後、俺はまるでバーサーカーのようにアラクネーを血祭りに挙げた、らしい。
らしいというのは記憶がないからで、記憶がないからには久藤やルクレツィア、そして伊勢崎の証言を信じない訳にはいかない。
とにかく負傷者一名を出しつつも戦闘は終了し、後にはアラクネーのミンチと鯖缶が残った。帰りの高速艇の中で意識を取り戻すまでのことを、俺は何も覚えていない。
覚えていないが、今何を言わなければいけないかは分かっている。
「伊勢崎」
「はい、何ですか?」
紅茶色の頭に巻かれた包帯の白が痛々しい。傷は軽く、痕は残らないというのがせめてもの慰みだ。
「お前、自分一人も守れないなら、撃退士なんか辞めてしまえ」
伊勢崎が息を呑むのが分かる。選ぶ言葉を間違えた。もう少しソフトに言うことも出来たはずだ。ただ、言ってしまったものはしょうがない。
久藤もルクレツィアも、黙っている。無理もない。はじめて一緒に戦った人間がこんなことを言いだすなんて、どう考えても馬鹿げている。
手酷い叱責、というレベルではない。これはもう、罵倒だ。
泣くか。泣いたら面倒だな。そんなことを考えながら、伊勢崎の顔をじっと見つめる。
形のいい唇がぎゅっと噛み締められ、そして、開いた。
「嫌です」
紡がれた言葉は、明確な拒否。
それはそうだ、と思いつつ、この反応を予想していなかった自分に呆れる。思ったよりもこの伊勢崎愛海という少女の、いや撃退士の芯は強い。
「辞めませんよ、私」
自分に言い聞かせるように、伊勢崎はもう一度呟いた。
眼鏡の奥の凛とした眼が、清冽な決意の光を湛えている。
綺麗だな、と間抜けにも俺は感心した。
「そこで私から解決策を一つ提案します!」
解決策、とは何だろうか。
俺は伊勢崎に辞めろと言い、伊勢崎は俺にそれが嫌だという。AとBの主張は真っ向から対立していて、間を取ったり代替案を出したりする余地があるようには見えない。
斡旋所にいる全員の注目が伊勢崎に集まる。
「渡瀬さんも、七不思議研に入っちゃえばいいのです」
「……はぇ?」
声帯から絞り出されたのはそんな間抜けな振動だった。
予想外、という言葉の限界を超えている。
「私が怪我をしたのは確かに自分の力不足です。でも、根本的な問題はチームの役割分担の不徹底にあると思います。七不思議研の戦力不足、と言い換えてもいい。なら、それを解決しちゃえばいいのです」
久藤とルクレツィア、それに斡旋所のマスターの方を振り返るが、みんなニヤニヤしているだけで何も言わない。ちょっと待て、俺はしがらみなんて作りたくはない。
確かに、久しぶりに誰かと一緒に連携して戦うのは楽しかった。充実していた。でも、それとこれとは話が違う。俺は珪の為に仇を討つ。この力はその為のものだ。
何を馬鹿な、と声を荒げようとする。が、それを遮るように、伊勢崎は続ける。
「それに、渡瀬さんは言ってくれましたよね?」
小悪魔のように小首を傾げ、上目遣いに見つめてきた。
トランペットの音が、だんだん遠くなる。
駄目だ、それ以上、言わせてはいけない。撃退士としての俺の経験と勘が危険を告げている。
「……年下は、年上が守ってくれる。私、あれを言われた時、嬉しかったなぁ」
退路は、完全に断たれた。