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夏の嵐  作者: 蝉川夏哉
第一章 久遠ヶ原モノクローム
2/15

01角砂糖とペンダントと斡旋所のブルーマウンテン

 自分の絶叫で目を醒ました。

 シャツもトランクスも汗でぐっしょりと重たく濡れている。

 時計はいつもと同じ朝の四時五十九分。鳴り始める一分前の目覚ましを止め、俺は悪夢を振り払うように頭を振った。


 窓の外はまだ寒々しい黒一色だ。夏が終わりに近づき、段々夜が長くなる。

 明りを点けるとLEDの白い光が殺風景な部屋を照らし出した。私物らしい私物は何もない。黒のスチールベッドと、白い冷蔵庫。それが全てだ。テレビは棄てた。これだけさっぱりすると、学生寮の狭い部屋も広々と感じられるから不思議だ。


 毎晩毎晩、同じ夢を見る。

 五月の京都、あの戦いの最後の局面だ。何度もうなされ、何度も飛び起きた。最近は夜明け近くまで眠ることが出来るようになったが、それもこの時間までだった。

 冷蔵庫から珈琲のペットボトルを取り出し、味も素っ気もない透明なグラスに注ぐ。

 角砂糖型のブドウ糖を塊のまま二つ口に含み、流し込む。睡眠中に脳が消費したエネルギーを糖の形で可及的速やかに補給してやるためだ。

 朝食は温野菜と炙った鳥のささみだけ。今の俺にとって、食事とは効率のいい燃料と栄養の補給であり、それ以上の意味はない。


 汗で汚れた下着を替えると、そのままストレッチと筋肉トレーニングを始める。

 腹筋、背筋、腕立て、スクワットにはじまり、身体中の筋肉を絞り上げるようにノルマをこなす。

 身体能力が元々高い撃退士(ブレイカー)だが、トレーニングの効果まで倍加するわけではない。適度に補水しながら、身体を苛め抜くように動作を繰り返す。

 収縮、弛緩、収縮、弛緩、収縮、弛緩。超回復で筋力を高めるために筋繊維を痛めつける。単調な繰り返しだけが、珪を失った事実を忘れさせてくれた。




 あの日、早良珪(さわら けい)は帰って来なかった。

 珪だけが、だ。

 ケルベロスの阻止に向かった撃退士は俺、渡瀬開(わたせ かい)も含め、ほとんどが気絶した状態で発見された。天使を見た者も数人いたが、何をされたか分からない内に意識を刈り取られてしまっている。

 珪はMIA(Missing In Action=作戦行動中行方不明)の扱いになっていた。死体さえ見つからなかったからだ。生存について学園には諦めのムードが濃い。捜索もとっくに打ち切られた。葬儀こそなかったものの、諸々の扱いは殉職者に近い扱いになっている。つまりは、そういうことだ。

 今回の戦いで久遠ヶ原学園は殉職者を出し過ぎていた。京都市街における天使の支配領域を狭めるという一応の成果は上げていたものの、完全な勝利と手放しでは喜べない。


 俺はあの日以来、人間らしく生きることを放棄した。

 自分を責めるようにただひたすら身体を鍛え、あの天使を追う。


 もしもあの時、自分にもっと力があれば。自分を守り、珪を守れるだけの。

 そして、もしもあの時。

 もしも、もしも、もしも。

 戦いにIFはない。

 済んでしまったことは取り返しようがないということは、自分でも分かっている。

 それでも、半身を失ったような、心を抉る痛みは癒えない。自問自答に意識を支配されないように、ただひたすら筋肉に血流を送り込む。負荷を掛け、自分の限界を超え続けることでしか、今は孤独を紛らわせることが出来ない。


 時計の横で、珪のペンダントが鈍い光を放っている。たった一つ、行方不明の珪が残した遺留品だ。調査の手掛かりになれば、と学園に預けていたものが、親友である俺の手元に戻ってきていた。


 強くなる。そして、珪の敵を討つ。

 それが今の俺のたった一つの生きる目的で、存在意義で、贖罪だった。



                              †  †  †



 夏の終わりには珍しい鉛色の空の下、俺は学園の正門から海に向かって坂を下っている。

 長い夏休みが終わり今日から新学期が始まるはずだが、授業を受けるつもりはなかった。元々成績は悪い方ではない。戦闘に必要な技術は、十分に習得している。久遠ヶ原学園は撃退士を要請する機関なのだから、既に授業を受ける必要がないくらいに強ければ、授業を受ける必要はないはずだ。


 坂の途中に、殉職者の慰霊碑があった。軽く手を合わせ、また道を下り始める。ここに珪は入っていないし、もし入っていたとしてもここで手を合わせることを珪は望まないと思ったからだ。


 人類が地球における万物の霊長の座を追われたのは、一九八〇年代も後半のことだ。

 当時はまだ合衆国を中心とした資本主義陣営とソヴィエト連邦を盟主と仰ぐ共産主義陣営が冷戦を続けていた。一時期より幾分緩和したとは言え、全面熱核戦争の危機は未だ現実味のあるものとして考えられていた時代だ。地球を数十回滅ぼせるだけの反応兵器を抱えての睨み合いは限界に達しつつあり、人々は対立に倦み始めていた。


 そこに突如襲来したのが、天使と悪魔だ。

 神話の怪物を従えた知性体の出現。それは世界の破滅を象徴するような出来事だったらしい。まだ生まれてさえいなかった俺には想像することも出来ないような思想の混沌が全世界を覆った。宗教、倫理、哲学。その全てが現実に翻弄され、拠り所としての価値を大きく減じさせた。


 天魔、という纏まった一つの勢力があるわけではない。

 天使と悪魔。

 二つの対立する勢力がほぼ同時期、一九八五年前後に地球への攻撃を開始した。世界各地にゲートと呼ばれる門を開き、並行世界から続々と現れて橋頭堡(きょうとうほ)を築く。この侵略者に対し、人々は抵抗する有効な手段を持ち合わせていなかった、とされている。実際には(少なくとも欧米では)積極的な反撃をしようとしなかったのではないかというのが最近の通説だ。


 黙示録やノストラダムスの予言に記された終末が訪れたのではないか。

 それはある意味で自然な発想だったらしい。

 神を(ないがし)ろにして傲り昂ぶった人類への裁き、というのは信仰を持つ者にとっては受け入れやすい解釈だった。長引く冷戦に疲れた人々の心の中に機械仕掛けの神様デウス・エクス・マキナを渇望する欲求が無かったとも言い切れない。

“熱核兵器を使った最終戦争(ハルマゲドン)で死ぬのは嫌だから、神の最終審判(ハルマゲドン)で死にたい”という、歪んだ希死念慮(きしねんりょ)の感情が、天魔に対抗する貴重な初動の時間を奪った原因ともされている。


 ともかくヴァチカンやメッカ、カンタベリーやラサで無意味で空虚な議論が繰り広げられている間に、天使と悪魔はそれぞれ別々に橋頭堡を築くことになった。現在までに地球上にかなりの数のゲートが開かれているが、公式には奪還出来た場所は一ヶ所しかない。


 天魔に対して人類が無抵抗とも思える負け方をしたのには原因がある。天使と悪魔はありとあらゆる物質を透過してしまうからだ。

 一九八七年十一月のニューハンプシャー州での合衆国陸軍第一〇山岳師団を基幹とする第十八空挺軍団の敗北、次いで一九八八年二月九日に行われたソヴィエト連邦戦略ロケット軍による閉鎖都市トムスクのゲートに対する戦術核攻撃の失敗。この二つの戦訓によって人類は通常兵器での天魔への抵抗をまるっきり諦めざるを得なかった。



 撃退士(ブレイカー)というのはそんな人類に残された最後の希望だ。

 天魔と戦うことの出来る力であるアウルを操る才能を持った子どもたち。全国から集られた彼らを人類の尖兵を養育する。それが久遠ヶ原学園だ。

 茨城県沖に浮かぶ島に存在するこの学園では、現在も多くの子どもたちが明日の撃退士として日夜訓練に励んでいる。俺たちは正に人類の矛であり、盾というわけだ。


 だが、そんなことは俺には関係がない。

 多彩なカリキュラムの授業も、戦闘訓練も全てサボタージュを決め込んで、商店街の裏手にある小さな建物の扉を(たた)く。太平洋の潮風に曝されて白ペンキの所々剥げかかった扉には楷書体で大きく「斡旋所」と書かれた看板が掲げられている。


「邪魔する」


 古い床板がギシリと軋む。

 斡旋所の中はそこだけ時間が止まったように穏やかで静かだ。天井でゆっくりと回る天井扇(シーリングファン)以外には動くものは何もない。ルイ・アームストロングの有名なナンバーが気にならない程度の音量で流れている。喫茶店のような内装だが、壁中の到る所に貼り紙がしてあった。

 依頼書だ。


 久遠ヶ原学園が二〇〇七年に開校されて五年が経つ。

 社会に巣立った撃退士も徐々に増えているが、それでもアウル能力を持った人間一番多く在籍しているのはこの学園だ。自然と天魔関係の厄介事は学園に持ち込まれる仕組みが出来上がった。学園の生徒にとってこうして持ち込まれた依頼を処理するのは社会貢献であり、貴重な収入源であり、修行の場でもある。


 口の悪い評論家はこれを欺瞞だと罵る。“大人”では天魔と戦えないから“子ども”に押し付けているのに、あたかも“子ども”が自由意思で戦うことを選ぶように仕向けているのだ、と。そういう側面は確かにあるのかもしれないが、実際に戦えるのは撃退士だけなのだし、命令という形で戦いを強制されるよりはこちらの方が精神的に楽ではある。

 楽しみながら戦えるという境地に達した生徒の真似は出来ないが、俺は夏休みの間、毎日この斡旋所に通っていた。学園内の斡旋所は一ヶ所ではないが、ここに集まる依頼は粒よりだからだ。


「いらっしゃい」


 店の奥から声を掛けてきたのは丸眼鏡を掛けた初老の男だった。

 すっかり白く染まった頭を丁寧にオールバックに整え、フォーマルベストに身を包んでいる。石の狸のように身動ぎしないが、表情は柔らかい。子どもによる自治の権限が強いこの学園では珍しい、教師以外の“大人”の一人だ。斡旋所を利用する者からは親しみを込めて、マスターと呼ばれている。


「マスター、いつもの」


 無表情に告げる俺に、眼鏡の奥でマスターの眼が瞑られた。

 常連にしか分からない呼吸だが、これは“お望みの依頼はありません”、ということを示している。これはとても珍しいことだ。


「……一件くらいあるだろ? 天使絡みの依頼」


 俺は依頼を自分からは選ばない。この斡旋所に集まる依頼の中から天使絡みのものだけをマスターに選んでもらっている。珪と自分を襲ったあの天使に復讐する為だ。

 しかしそれも今のところ全て空振りに終わっている。名前すら名乗らなかったあの天使の正体は分からない。各地で出現している天使の情報とも、特徴が一致しない。天使や悪魔を裏切って人間側に付いた者からも、有力な情報は得られていない。完全に雲隠れしているのか。下手をすると、自分たちの世界である天界に帰ってしまったという可能性さえあった。


「残念ながら。月曜の朝ですので」


 この時間、普通の学生は授業に出席している。サボっている奴がいたとしても、俺のように斡旋所にくる奴はほとんどいない。そういう奴は部活に精を出しているか、デートを楽しんでいるか、いずれにしても青春を謳歌しているというのが相場だ。


「そう言って、いつも幾つか依頼を隠し持ってる癖に」

「渡瀬さんに今ご紹介出来る依頼の中には、ございません」

「……これだけの数の依頼書が貼ってあるのに?」

「はい」


 マスターは流れるような所作で珈琲を淹れはじめた。二人の間に、会話はない。

 ブルーマウンテンの香りが鼻をくすぐった。ジャマイカのキングストンに天使のゲートが開いてからめっきり手に入りにくくなったこの豆を、マスターはまるで魔法のように入手し続けている。

 俺の分と、マスターの分。二杯の珈琲を注ぐ。悪魔のように黒く地獄のように熱い。それを二人とも無言で啜る。たまにしか味わえない、貴重な味だ。

 先に口を開いたのは、マスターだった。


早良(さわら)さんのことが、忘れられませんか」


 俺は、応えない。応える必要もない。ただ、黙ってカップに口を付ける。


「他人の生き方に口を挟むのは傲慢だと承知していますが……渡瀬さんは少し生き方を変えた方が良いと思います」

「……例えば?」

「そうですね、例えば……恋をするとか」


 思わず()せ返った。俺は口元を拭う。


「そんなつもりはない」


 恋に(うつつ)を抜かしている暇があれば、一体でも多くの眷属(サーヴァント)を倒し、あの天使の手掛かりを見つける。それが今の俺が出来るただ一つのことだ。


「そうですか。それは残念です」

「俺が恋をすると、マスターは何か得をするのか?」


 問われてマスターは柔らかく微笑む。


「損得の問題ではありません」そこで言葉を切り、ボーンチャイナのカップで唇を湿らす。

「斡旋所の主人というのは、顧客の求める物を提供するのが仕事です。渡瀬さんが現状を乗り越えるには、そういう別方向からのアプローチも一つの手段だと思ったのですがね」

「……俺はまだ、珪のことを諦めていない」


 振り絞るように呟く。

 俺がここで諦めてしまったらその瞬間に珪は“MIA”ではなく本当に“死者”になってしまう。そんな気がするのだ。無駄なことをしている、というのは理解している。それでも俺は戦い続けなければならない。

 俯く俺の姿を見て、マスターは既決済みの文箱から一枚の依頼書を取り出した。


「……これは?」

「請けるか請けないかは、ご自身で判断して下さい」


 A4の依頼書には、「眷属(サーヴァント)の捕捉と撃滅」という依頼名が記されている。

 想定される敵の数は八体と多いが、危険はそれほど大きくない。ひとりで請け負うには少し荷が勝ち過ぎるが、特に珍しい依頼ではない。

 いつもの依頼と違うところを強いて挙げるなら、既に俺以外にこの依頼を請けている撃退士がいる、ということだけだ。


「……七不思議研?」

「はい。請けて頂けるのであれば、彼らとの共同作戦ということになります」


 聞いたことのない部活だが、久遠ヶ原では別に不思議なことではない。

 小中高大合わせて六万以上の生徒が在籍するこの島では無数の委員会、部活動が割拠し、百家争鳴の様相を呈している。公的には一〇〇以上と言われているが、それは学園側に届けてあるものの総数だ。実際にはそれを遥かに上回る数の部活が存在することは間違いない。

 七不思議研、という名前からしてオカルト趣味の部活動だろうか。

 天使や悪魔を相手にしているからか、そういう方面に関心を持つ学生も少なくはない。どちらにせよ、あまり進んでお近づきにはなりたくない連中だ。


 断る、と言いかけてそこで言葉を飲み込む。

 今の俺は基本的に一人で請けられる依頼だけをこなしていた。修行の為だ。血を吐きながら続ける哀しいマラソン。

 土は土に、灰は灰に、塵は塵に。

 天使と眷属の(むくろ)を賽の河原に積み上げるような、そんな戦いに身を置きたいのだ。


 とは言え、ある種の限界も感じ始めている。戦闘についてというよりも、制度の問題だ。

 この四ヶ月で俺は強くなった。一人で請け負うことの出来る依頼では簡単過ぎて修行にならないのだ。身体は相変わらず戦いを欲していて、それはもう筋トレでも素振りでも満たせなくなりつつあった。



 請けるべきか、請けざるべきか。

 今日請けなければ、明日。明日請けなければ、明後日。

 マスターは必ず俺に問いを投げ掛け続けるだろうし、それが“大人”として正しい行為だということはとてもよく分かる。この斡旋所から離れる気がない以上、俺が折れるのが早いか遅いかの違いしかない。


 珈琲の底をスプーンで掻き回しながら考える。

 一人で戦う、というのは俺にとって優先すべき事項だ。でも曲げること能わざる条件というわけでもない。そこを譲りさえすれば今までよりももっと多くの依頼を請けることが出来るし、危険の大きな戦いに身を置くことも出来るだろう。



「……分かった。この仕事、請ける」


 マスターが頷いた。最初から請けることは分かっていた。そんな表情だ。

 人が好さそうに見えて、なかなか食えない。


「では、転移装置にお急ぎ下さい。先方には私から連絡を入れておきます」

「ありがとう、マスター」


 黒電話にマスターが手を伸ばすのを横目に見ながら、俺は斡旋所を飛び出した。


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