12 angel strikes
その声を聴いた瞬間、身が竦みそうになる。全身の細胞が、振り返ることを拒絶しているようだ。
記憶の奥底に封じた、あの声。
「サワラケイは、君の身代わりになったのだよ、ホモ・サピエンスの少年。覚えてはいないだろうが」
振り向いた先には、天使の形をした絶望が立っていた。
再び激しく降り始めた雨の中を、天使が悠然と歩いてくる。
京都で見たあの姿と何も変わらない、恐ろしいまでの威圧感。
まるで日向を散歩しているかのような足取りで歩いてくる姿に目を凝らせば分かる。この嵐でさえ、奴にとっては自身の躰を透過していくものに過ぎないのだ。
震え出しそうになる膝を叱りつけて、天使に剣を向ける。向けようとする。
四ヶ月、この瞬間を待っていた。天使に一矢を報いる為、日夜研鑽に研鑽を重ねてきた。自殺願望ではない。勝つための鍛錬だった。……そのはずだ。
伊勢崎も何も言わずに立尽くしている。珪が頭を掻く仕草は極まりが悪そうだ。
「久しぶり、だな。ホモ・サピエンスの少年」
稲光が走り、天使の横顔が照らされる。以前見たままの、穏やかな微笑み。
叫び出したくなる衝動を抑え、柄を握る手に力を篭め直す。ここで、こいつと戦う。逃げ出すわけにはいかない。そう覚悟を決め、天使を睨みつける。
「良い目だ。絶望の苦味と怒りの辛味が程よく混じり合っている」
天使が歯を見せて笑った。
全身を分厚い筋肉に鎧われた姿は、一種の神々しささえ漂わせている。
「君の“物語”を私は興味深く鑑賞させて貰ったよ。失われた友を取り戻す為の物語。涙ぐましい努力というより他ない。感動的ですらあった」
「覗き見とは天使らしくない趣味だな。品性を疑う」
俺の挑発を天使は一笑に付す。
「家畜の観察は肥育者の義務だ。勘違いして貰っては困る。折角の絶望の持ち主に変な雑味が混じってはかなわないからね。無論、その行為自体に愉しみを見出していないと言えば嘘になるが」
「何でそんな面倒なことをする? あの時、さっさと絶望でも何でも食っておけば良かったじゃないか」
「ホモ・サピエンスの真似をしてみたのだ。調理、というのかな。他愛ないごっこ遊びだ」
ごっこ遊び。その言葉が胸に突き刺さる。
俺と珪の人生を狂わせたのが、単なる遊びに過ぎなかった、というのか。この四ヶ月の苦しみは、こいつの娯楽の種に過ぎなかったのか。
「ホモ・サピエンスの家畜化というのは大変なように見えて実は退屈な仕事でね。君たちのような、何と言ったか…… そう、撃退士の妨害を排除して門さえ開いてしまえば、後はほとんどルーチンワークになってしまう。そんなことをこれから何十年も何百年も続けるわけだ。娯楽の一つも見い出したくもなろうというものじゃないか」
「そんな下らないことなんかどうでもいい。珪が俺の“身代わり”になったってのはどういうことだ」
「そのままの意味だよ。サワラケイは、私のおもちゃになったのだ。全てを差し出してね」
天使はそこで一拍、間を置く。
「つまり、契約を結んだわけだ。“ワタセカイの命を救う為、私の命に従う”とね」
「契、約……?」
呟きは激しい風雨に掻き消された。
珪がいなくなったのは、珪が天使の手先として俺と戦っているのは、俺の所為だというのか。
「君もさっき言っていたが、あの場で絶望を吸い尽くしても良かったのだ。撃退士の感情というのが美味だということは分かり切っていたからね。だが、傷だらけのサワラケイはどうしても君を助けたかったようでね。私と契約を結ぶことになったのだ。涙ぐましい友情、というのかな?」
珪が、俺の為に?
「いいね。今、君の絶望が少し深まった。何だろう、“手塩にかけて育てる”と言うのだったかな。こういう遊戯は知的な好奇心を刺激してくれる。ありがとう、君のようなサンプルを研究すれば、天使同胞の摂取する感情の質はより高品質なものとなるに違いない」
「馬鹿にするな!」
「おっと、駄目だ駄目だ。君の怒りは辛味が利いて実に美味そうではあるが、あくまでも隠し味だからね。絶望をより深めるべきだ」
剣の柄を握り締める手に痛いほどの力が入る。
許せない。こいつだけは、絶対に許せない。
「君にとって喜ばしいことなのかどうかは知らないが、私も随分と骨を折った。少年、君が何故か眷属退治に御執心だったようだからね。君の力量でちょうど倒せる程度の眷属を見繕って適当に暴れさせたりしたのだ」
「何だと? どういう意味だ」
「言葉の通りだよ。この四カ月間、君が修行のつもりで相手をした眷属のほとんど全ては私が用意したものだ。これがなかなか厄介でね。用意した眷属を相手にする依頼を必ずしも君が請けるとは限らないから、無駄も多かった。材料が足りなくなって、新たにホモ・サピエンスの死骸を補充する必要さえあった程だからね」
思わず吐きそうになるのを、必死に堪える。
胃酸の混じった吐瀉物が喉を灼くのが分かった。こいつに辿り着く為に俺が斃してきた眷属は、全てこいつの手配だった、ということだ。
屍肉蜘蛛のように醜く創り変えられてしまった人の亡骸を葬るつもり戦っていたのが、実は俺が剣を振れば振るほどに被害者を増やしていっていたのだ。
目の前が、真っ暗になる。俺は、俺はいったい何をしていたというのか。
「更に絶望が濃くなった。素晴らしい。これほどの逸品にはそうお目に掛かれるものではない」
絶望。
この天使の掌の上で踊らされている。そのことに対する、圧倒的な絶望。
怒りも悲しみも全て封じて天使に一太刀浴びせる為だけに費やしてきたこの時間の全てが、その仇敵を喜ばせることになっていたという破滅的な絶望。
「上質の料理には段取りが大事だそうだね。私は少年を極上に仕上げる為、ありとあらゆる努力を惜しまなかった。君は実に上手く振る舞ってくれたよ。しかし、一つだけ誤算があった」
「誤算?」
「そこの少女のことだよ」
視線を向けられ、伊勢崎が射竦められたようにびくりと肩を震わせる。あの時の俺と同じだ。絶対に勝てない者に睨まれた時、人間は硬直するしかなくなってしまう。
「私の筋書きでは、サワラケイはここで君に殺されるはずだった。使徒になっていない、と気付きもせずに、ね。その為に彼には洗脳すら施していない。優しい彼は、ここでもう一度死ぬはずだったのだ。今度こそ少年の手でね」
それで分かった。どうして珪はあれほど不自然に左足に隙を作ったのか。俺に、斬らせる為だ。憎しみを煽るような演技をしたのも全て、俺に殺される為だった。
陰湿で、巧妙で、芸術的なまでの絶望への筋書き。
「彼が死ぬ寸前、どうやっても助からないだけの失血を強いたところで私はおもむろに登場し、少年に注げる訳だ。“彼はまだ、人間だったのだよ”と。それで君の心は完全に毀れる。その、はずだった」
天使の眼光が鋭くなり、伊勢崎を睨みつける。
俺は彼女を背中に庇うように動き、天使に剣を向けた。
「伊勢崎は、俺が護る」
「大した鼻息だな、少年。だが、体は正直だ。足が震えているぞ」
指摘されるまでもなく、そんなことは分かっている。
足は竦み、呼吸は浅い。それでも、ここを動くわけにはいかない。俺は、伊勢崎を護る。
「そうだ。良いことを考えたぞ。少女の命と引き換えに、少年の命を助ける、というのはどうだろう? 京都では親友を、そして、ここでは女を売って君は生き延びる。それはそれで、滋味豊かな絶望が得られそうだ」
「断る!」
「君に聞いているのではないよ。少女に、聞いているのだ」
心が掻き乱される。胸が引き千切られそうになる。怒りと絶望と哀しみが綯い交ぜになった感情が、口から叫びとなって出ていきそうになる。
背中に、何か温かいものが触れた。伊勢崎だ。伊勢崎の温もりを、背中に感じる。
「……私、は」
駄目だ。その答えがどっちだとしても、聞きたくない。
酷く自分勝手な感情が、身体をバラバラに引き裂こうとする。
頭の中が、色々な感情で埋め尽くされる。
「さぁ、少女よ。どうするね」
天使の声は、何も強制していない。
疑問の色もない。ただ、伊勢崎の答えを確信している。
その強力な眼力で、非力な撃退士の精神など容易く操作出来てしまうのだろうか。
「……私、は」
肩越しに、伊勢崎の抑揚のない声が聞こえる。
駄目だ。それ以上、言ってはいけない。それは天使の罠だ。
たったそれだけの言葉が出ない。俺自身、天使の金縛りにあったように体が動かない。腕だけ、いや指先だけでも動かそうとするのだが、まるで石にでもなったようだ。呼吸さえも出来ない、濃密な圧力に身体が押さえつけられているようだ。
視界を、刺突剣が横切った。
珪だ。
珪の投げた剣はスローモーションのようにやけにゆっくりと天使に向かい、右腕に突き刺さる。
次の瞬間、俺と伊勢崎にかかっていた金縛りが解けた。
地面に座り込む伊勢崎を横目で見つつ、両手剣を手に跳躍する。
狙うは右腕。珪の刺突剣が刺さって動きの悪くなったところに、斬撃を叩きつけた。
手応え。
斬り落としは出来ないが、骨まで剥き出しになる傷だ。勢い余った剣先がアスファルトに触れ、裂け目を作る。
「ぐっ!」
天使に、手傷を負わせた。今まで泰然としていた天使が苦悶の呻きを上げる。
そんなことが出来るとは思ってもいなかった。ひょっとすると、最初に京都で出会った時から、あの眼力に心を取り込まれていたのかもしれない。
武器を投げてしまった珪と、目が合った。
言葉は要らない。視線の先には、俺が四カ月間ずっと付けてきたペンダントがある。すかさず首から外し、珪に投げ渡す。
「受け取れっ!」
「ありがとう!」
珪の“本当の刺突剣”が入ったペンダント。掌で握り締め、アウルを篭めると見慣れた細身の剣が顕在化する。天魔によってもたらされたオーバーテクノロジーの賜物だ。
「貴様らッ! 家畜の分際で図に乗るな!」
天使が吼え、腕を振るう。
その軌跡上にあった雨粒が一瞬にして凍りつき、襲い掛かってくる。人間が試行錯誤して模倣したものではない、真の魔法。その威力は絶大で、効果範囲は際限なく広がっていく。
触れた部分が一瞬にして凍傷になりそうな、凍てつく冷気。肺に入る空気さえ凍り付かせそうな魔法を、俺と珪は何とか耐え抜く。
「珪、アシスト!」
「任せろ、開!」
素早い動きで珪が翻弄し、その隙をついて俺が重い一撃を叩き込む。天使は空気中の雨粒を凝結させて即席の盾にする。触れるだけで剣が凍り付いて砕けてしまいそうな高度な防禦魔法だが、珪のフェイントのお陰て何とか間隙を縫うことが出来た。
天使の右腕が、落ちた。憤怒に目を血走らせながら、天使は低い唸り声を上げている。
隣に珪がいて、後ろに伊勢崎がいる。
背中を預けられる者、守るべき者がいることが、俺のアウルを何倍にも高めてくれている。今までにない身体の軽さだ。アウルを乗せた剣撃を、続けざまに打ち込み、追い打ちをかける。
「小癪なホモ・サピエンスどもめ!」
今までの荘重な雰囲気すらかなぐり捨て、天使が絶叫した。天を覆う乱雲さえも震わせるような大音声に、反応が一瞬遅れる。
俺と珪が気を取られたその隙に、天使は二人の間をすり抜けた。手負いながらもその飛翔は素早い。目当てに気付いた時には、全てが手遅れだった。
「伊勢崎!」
「少年、油断したな」
残った左腕に抱きかかえられるようにして捕らわれた伊勢崎は必死に暴れている。だが、流石に膂力に差があり過ぎるのか、全く脱出できそうにない。傍に立っていればあれほど大きく見えた伊勢崎が、今は小さく、か弱い少女に見える。
「渡瀬さん、私のことは良いですから!」
「いいわけがあるか!」
その様子を見ながら、隻腕の天使は満面の笑みを浮かべている。これまではとは違う、邪悪で、陰険な微笑に歪められた口元は、生理的な嫌悪感を催すものだった。
「形勢逆転。と言いたい所だが、このままでは君を十分な絶望に叩き落とすことが出来ない」
それだけ告げると、伊勢崎を抱えたまま、雷雨の降り頻る空へと飛び立とうとする。
「待て、逃げるのか!」
「逃げるのではない。何事にも準備が必要だ、ということだ」
なんだこれは。何の冗談なんだ。
天使に狙われたのは俺で、伊勢崎じゃない。伊勢崎はただ、俺のことを心配して探しに来てくれただけなのに。それがどうして、こんなことになってしまったのか。
「場所は、そこのサワラケイが知っている。早く来てくれることを願っているよ」
暗闇の中に飛び去る天使の背中が見えなくなるまで、俺と珪はその姿をじっと見つめていた。




