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夏の嵐  作者: 蝉川夏哉
第三章 夏の嵐
12/15

11 死に至る病

 潮の香りを含んだ重い風が、二人の間を吹き抜けた。

 空には白と黒で半分に割ったような半月が煌々と輝いている。

 今までに見たことが無いほど美しい微笑を口元に湛えて俺の方を見つめる珪は、まるで美術館に飾ってある彫像かなにかのようだった。


「開、君を迎えに来たんだ」


 ポケットに突っ込んでいた両の手を抜き、芝居のように大きく広げて見せる。俺に、飛び込んで来いということなんだろうか。とても穏やかな表情だ。

 珪のその友好的な動作に反して、俺は無意識に剣を具現化していた。


 首筋の毛が、逆立っている。戦いの中で培った撃退士(ブレイカー)としての勘が危険を告げていた。心臓が早鉦を打ち、呼吸が、浅く、速くなっていく。

 腰を低く落とし、どんな攻撃にも耐えられる体勢を取った。


「冗談はよしてくれよ。まさか親友の顔を見忘れたわけじゃないよね?」


 俺は応えない。

 いや、応えられない。ただ笑っているだけなのに、珪の剣気は俺の肌を粟立たせるのに十分なほど濃密に放たれている。その細い躯のどこにそれだけのアウルを秘めているというのか。

 珪が一歩進む。俺は、摺足(すりあし)で一歩下がる。


 距離は縮まっていないはずだ。それなのに、珪がさっきよりも大きく見える。

 大きく一つ息を吸い、ゆっくりと吐いた。それで少し冷静さが戻ってくる。慌てるな。落ち着け。状況を、正確に把握しろ。

 あれは、珪だ。それは間違いない。では、この禍々しさは何だというのか。


「だんまりか。悲しいよ、折角の再会だっていうのに」


 また一歩。珪が歩を進め、圧し込まれるように俺が下がる。

 向けられているのは、純粋な敵意だ。表情とは正反対の、圧倒的な害意。珪は勿論のこと、これほど濃密な感情をぶつけられたことはない。


「……一体、何があった」


「何も」珪が微笑む。「あの日、僕が消えて、今、ここにいる。それで良いじゃないか」

「良くない。良くなんてない」

「つれないね、開。君と僕の仲だろう。少しの間離れていたからって、何かが変わるわけじゃない。違うかい?」


 口ではそう言いながら、珪は背中から剣を取り出す。

 月の光を照り返すのは細身の刺突剣(エストック)だ。鎧の隙間を刺すことに特化した武器で、恐ろしく鋭く、そして、(はや)い。

 いつも通り、見慣れた所作で珪が半身に構える。フェンシングに似たその体勢は攻撃的で、それでいて守備にも配慮が行き届いていた。一対一では、分が悪い。


「さぁ、僕と一緒に行こうよ、開」

「……嫌だね」


 両手剣を、真っ直ぐに構えた。

 剣道でいう正眼の構えだ。間合いを測るのには適しているが、それでも珪の構えの方が射程はより長い。両手剣と片手剣。この場合の相性は、最悪だ。

 しかも相手は、俺の剣の癖を知り抜いている珪だった。


 遠くで防災無線が何かを怒鳴っている。多分、暴風雨がまた近付いているとか、海には近付かないようにしましょうとか、そういうことと言っているのだろう。

 頬に、冷たい何かが当たった。雨粒だ。台風の目が、過ぎ去ろうとしている。


「そう…… なら、力尽くだね」


 瞬間、珪が消えた。

 考えるより速く、身体が剣を振るう。刺突を、弾いた。下方からの掬い上げるような突き。一瞬でも遅れていれば、胸に風穴が開いていた。剣を打ち合わせた瞬間、微かな違和感を覚えるがその正体までは分からない。


「よく切り払えたね。前はこの攻撃が苦手だったのに」

「四ヶ月の間、俺が寝ていたとでも思うのか?」

「なるほど。でも、覚えておいた方が良い。僕との稽古で君は……」


 もう一度、珪が同じ構えを取る。


「僕に一度も勝ったことはないんだから、さッ!」


 上。今度は剣の軌跡が見えた。

 目が慣れた、という訳でもない。見せているのだ。緩急を付けた剣筋で相手を翻弄する。それが、珪の好みの戦術だ。俺は今までこれに勝てたことが無い。

 弾き、払い、躱す。刺突剣(エストック)が突くことに適した剣とは言え、それは比較の問題であって斬撃が出来ない訳でもない。直線かと思えば曲線、本命かと思えばフェイント。

 俺の剣が力の剣なら、珪の剣は速さの剣だ。こちらの剣先を巻き込むように弾きながら繰り出す突きを、バックステップで危うく避ける。


「避けるのは随分と上手くなったみたいだね」

「五月蝿い!」


 剣撃にアウルを載せ、一気に突っ込む。

 速さでは、向こうが上。まともに打ち合えば手数で勝てない。ならばそれを活かし切れないだけの打ち込みで封じる。

 斬り下ろし、そのまま振り切らずに横の斬撃へ。


 重さで叩き斬ることを主眼に置いた両手剣(グレートソード)は一撃一撃が重いが振り抜くと返しに隙が出来る。それを最低限にする為に編み出したのが、円の動きだ。

 手首と肘、そして肩、腰に負担が掛かるが、途中で制動を掛けながら曲線の連撃を叩き込む。四ヶ月の間、誰にも背中を預けずに一人で戦い抜く中で見つけた、俺の秘策。


「へぇ、この剣筋は始めて見た」


 一転して、珪が防戦に転じる。

 まるでダンスのステップでも踏むかのように軽やかに斬撃を受け流していく。半身(はんみ)になり、手を大きく伸ばした構えの珪には、我武者羅の攻撃も身体に届かない。


 この間合いが絶望的な距離感となって俺に重く圧し掛かる。こちらのスタミナ切れを狙っているのだ。急所である正中線を一切危険に曝さず、珪の剣はいつでも圧倒的に揺るぎがない。

 始めて見る剣筋を、目を細めて愉しんでいる。そんな戦い方だ。


「でもね……」


 刺突剣が不意に引かれ、珪が跳躍する。変則的な動きを、俺は追い切れない。


「遅いよ、開っ!」


挿絵(By みてみん)


 大上段より上、宙空から襲い掛かる一撃を剣の腹で何とか受け止める。

 決して重いわけではないが、逃れることは出来ない。これは紛れもなく珪の攻撃だ。こちらの押し返す力を巧みに逸らしながら、珪の刺突剣がじりじりと迫ってくる。


 鍔迫り合いに近い。一瞬でも気を抜けば、そのまま鋭い刃が肉を切り裂くことになる。力の均衡を崩さないように注意しながら、剣に纏わせたアウルを脚に逃がしていく。

 チャンスは、一度だけ。


「せいッ!」


 裂帛の気合い。剣を力尽くで押し戻し、その反作用の助けを借りて一気に後方へ飛ぶ。

 上手く行ったのか、それとも珪が見逃してくれたのか。

 肺から鉄臭い息が上がってきた。滴る汗を、そっと拭う。


 強い。

 掛け値なしの強さだ。四ヶ月剣を交えていなかったが、これは間違いなく早良珪の剣だった。

 背中を預けるにはこれ以上の相手はいないが、敵に回すと恐ろしく手強い。


「強くなったね、開。アウルの使い方が上手くなった」

「……一体、何があったんだ、珪!」

「天使と契約した、と言ったら……どうする?」


 使徒(シュトラッサー)、という言葉が脳裏を過る。

 天使に従属し、力を与えられた人間のことだ。気に行った人間を天使が隷属させることも、逆に人間の方からその身を差し出すこともあるらしい。

 盲目的に服従するわけではないが、その行動原理は天使への奉仕を最優先とする。撃退士からも「人類の裏切り者」と蔑まれ、優先的に排除の対象となるはずだ。

 ……そして、“一度使途になってしまった者は、元に戻ることが出来ない”という事実。


「まさか、そんな……」


 珪が小さく肩を竦める。

 その表情は、語っている内容の重大さと反比例するように涼しげだ。楽しそうですらある。

 ねっとりと重い風が吹き、小粒の雨が頬を伝う。


「あのままだったら、死ぬところだったからね」

「助かる為に、敵に魂を売ったのか」


 俺の問いに珪は応えない。

 微かな月明かりの残照が消え、辺りを照らすのは街燈だけだ。

 次第に強さを増しはじめた雨を確かめるように、珪が空いた掌を天に差し出す。


「また、嵐が来そうだね」

「珪ッ!」

「そんなにカッカするなよ」

「質問に答えろ、珪」

「……誰にだって、守りたいものはある」


 おどけて見せる珪は、稽古の後にいつもしていたように自分の頭を指差す。

“頭を使え”ということだ。繰り返し言われ過ぎた所為で、もう仕草だけで分かってしまう。色々と対策は考えても、いつも珪はその一歩先を行っていた。


「自分の命が惜しくなった、てことか? だから人間を裏切ったのか?」

「相変わらずせっかちだな」

「結局、そう言うことなんだろ?」

「死んだら開とも会えなくなるからね」


 冗談めかした口調で続けながら、珪が剣を弄ぶ。

 互いの間合いより離れているが、油断することは出来ない。リーチは向こうの方が圧倒的に長いのだ。


「……ふざけるな!」

「怒るなよ、開」

「怒らせているのは珪の方だろ! 何で……何でそんなことをした!」

「ネズミ取りに掛かったネズミでも、生きようと必死に足掻くだろう?」

「自分のことをネズミ程度だとでも?」

「ライオンに自分を喩えるほど自惚れてはいないつもりだよ」


 下らない冗句にも拘らず、珪の口調はどこか冷めていた。以前はこんなことを言う奴じゃなかった。

 記憶にあるよりも饒舌な珪に違和感を覚えながらも、俺は剣を構える。天使の軍門に降ると、性格まで変わってしまうものなのだろうか。


「お喋りは終わりだ。俺がお前の曲がった性根を叩き直してやる」

「偉く威勢がいいな。その意気だ」


 刺突剣を構える珪の体勢は、さっきと変わらず鉄壁だ。

 いや、鉄壁に見える、のだが。

 足にほんの少し、あるかなしかの隙がある。ように見える。フェンシングのように利き手と同じ側の肢を前に突き出すスタイルの珪の構え。その左足が、少しずれているのだ。


 誘っているのだろうか。

 武道の達人は怪我をしても、そこを狙いに来る相手の攻撃を予見することで勝ちに繋げるという。どこが狙われる、と分かっていれば確かに対処に必要な反応速度を速めることが出来るのは間違いない。


 罠だ、と理性は言う。

 珪は訓練を積んだ熟練の撃退士だ。不利を俺に気付かれるような失態を演じるはずがない。そういう欺瞞は珪の十八番(オハコ)だった。珪が本気で隠そうとすれば、怪我をしているのか怪我をしていないのかを見分けることは俺には絶対できない。

 だが、本当に足を負傷しているとしたら? そしてそれを、敢えて隠していないとしたら?

 それでも、今の俺が勝つためには、それに賭けるしかない。


 脇を締め、両手剣を八双に構える。

 珪は、動かない。口元が綻んでいるのは、自信の表れだろうか。

 やはり、左足に隙があるのは間違いない。誘いだと分かっていても、今はそれに賭けるしかなかった。跳躍し、珪の脚を斬り付けるイメージ。後のことは、臨機応変だ。脚に力を篭める。


 次の瞬間、珪が“真横”に跳躍した。

 今まで珪が立っていた場所にアウルによって成形されたナイフが突き刺さり、消える。精度が高いが持続性には難があるようだ。この癖には覚えがある。


「渡瀬さん、大丈夫ですか!」


 この雨の中、走って来たのだろう。振り向いた視線の先では伊勢崎愛海がずぶ濡れの学生服姿で長柄斧(ポールアクス)を構えていた。


「伊勢崎、お前、何で来たんだ!」

「何だか胸騒ぎがして…… 心配しちゃ、いけませんか?」


「おやおや、隅に置けないね。こんなに可愛らしいガールフレンドを作っていたんだ」


 体勢を整えた珪は相変わらず微笑のままだ。俺が一人で対峙していた時よりも表情に余裕がある。伊勢崎が俺にとって足手纏いになる、ということを一瞬で見て取ったに違いない。


「伊勢崎、下がってろ。これは俺の戦いだ」

「嫌です。私も渡瀬さんと一緒に戦います。戦わせて下さい」


 宣言をしながら伊勢崎は手早く俺に<祝福>を掛けた。身体に温かいアウルが流れ込むのが分かる。

 手際だけは、流石に久藤の下で連携を学んでいるだけのことはあった。だからと言って、珪との戦いに圧倒的に地力が足りていないのは間違いない。敵に回った早良珪という存在は、それだけの脅威だ。


「どうするんだい。僕はそのお嬢さんが参加してくれても一向に構わないよ」

「随分な余裕だな」

「余裕なんてないさ。ただ、撃退士が“人類の敵”と戦うのに、数は多い方が良いだろうと思っただけだよ。一般論の話さ」

「それが余裕だと言っている!」


 飛び込むように距離を詰め、剣を交えようとする。

 が、珪は乗って来ない。軽くこちらの攻撃を往なしながら、右へ左へと位置を変えるだけだ。付かず離れずの間合いを保ちながら、こちらを攪乱するような動き方をしてくる。


 伊勢崎も援護しようとしてくれるが、あのナイフ投擲の腕では良くて牽制にしかならないだろう。それでも遠距離攻撃しかしないのは、自分の得物の長柄斧と珪の刺突剣の相性が最悪だということを理解してのことだろう。ここ数日の戦いで、その程度の判断は出来る仲間だということは分かっている。


 それにしても、珪の動きは完璧だ。

 ナイフの射線が通らないように相対位置を変えつつ、俺の攻撃を誘っている。近接戦闘での間合いの取り方を教科書に纏めるなら取り上げられそうな動きだ。時折左足に隙を見せるのは、やはり罠だろう。


 一旦距離を置き、伊勢崎を背中に庇う。

 あまり好んでは使わないが、珪にも射程の長い技はあるのだ。それで伊勢崎を狙われるとこちらの行動は大きく制限されてしまう。


「伊勢崎、逃げても良いんだぞ?」

「足手纏いなのは分かってます。囮に使って貰っても構いません」

「馬鹿、何言ってるんだ」

「……言い難いんですけど、今日の渡瀬さん一人では、あの撃退士に…… 勝てません」

「……だろうな」


 剣を交えて、分かった。今の俺では珪には勝てない。

 以前ほど実力が懸絶しているわけではないのだ。この四ヶ月も、無駄ではない。ただ、ほんの少しずつ、何かが足りなかった。


「渡瀬さん、あの撃退士(ブレイカー)は、誰なんですか?」

「部屋で言っただろ? あの使徒(シュトラッサー)が、珪だ。早良珪。俺の親友、だった」


 伊勢崎が息を呑むのが分かる。

 さっき部屋で思い出を語ったばかりの人間が、敵になっているのだ。無理もない。

 俺自身、まだ整理なんか出来ているはずがなかった。

 その迷いが、剣に出ている。


「……渡瀬さん、その、ちょっと確かめたいことがあるんです」

「確かめる? 何を?」

「方法は問いません。一瞬だけ、早良さんの足を止めて欲しいんです」


 伊勢崎が俺の目をじっと見る。強い、決意を秘めた瞳だ。


「一瞬だけだ。それ以上は、約束できない」

「はい。私も、一度で決めます」


「相談は終わりかい? 続きを始めようか」


 水滴を払うように、珪が雨に濡れた刺突剣を払う。構えは、変わらず。

 対する俺は、両手剣を大上段に構える。薩摩示現流と同じ、次の攻撃を考えない一撃必殺の攻撃。速さに勝る珪と戦うには最悪の手だが、敢えてこれを選ぶ。


「どうしたんだ、開。まさか自殺願望じゃないよね?」

「まさか。珪を倒す為の戦法だ。そっちこそ怖気付いたんじゃないのか」

「面白い。安い挑発だけど、乗ってあげるよ」


 珪が前傾姿勢を取る。猫科の肉食獣を思わせるしなやかな身体が生み出すバネは、アウルの力も借りてオリンピック選手の域さえ超えていた。その一撃を、“何とか”しなければならない。それが、伊勢崎との約束だからだ。



 珪が、跳ぶ。

 小細工など一切ない、真っ直ぐの跳躍。スナイパーライフルから放たれた弾丸のように真っ直ぐ、俺の心臓を狙って飛んでくる。

 速い。が、迎え撃つ俺の心は恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。


「はぁぁぁぁぁぁッ!」

「何っ!」


 俺の剣は、珪を狙わない。

 放たれた矢のような珪が射程に入る一瞬前、限界にまで高められたアウルを纏った俺の一撃は、アスファルトの地面を砕く。激しい衝撃で割れた破片が飛礫のように珪を襲った。

 流石の珪も速度が落ちる。元々他の撃退士に比べて華奢な珪だ。盾を持つことを教師に勧められるほどの防禦の弱さを、速さを磨くことで補ってきた。だからこそ、こんな石の礫でも怯むことになる。


「今だ、伊勢崎!」

「はいっ!」


 ひょっとすると、彼女の専攻には使途を人間に戻す秘術でもあるのか。そんな筈はないと知りつつも、一瞬期待を抱いてしまう。使徒になった人間は元に戻れない。それは絶対に不変の法則だ。

 しかし心中密かに思っていたような大技ではなく、伊勢崎が放ったのはただのナイフだった。それも、たった一本。精度は高いナイフの投擲は、狙い過たず珪の足に傷をつける。


「ぐっ!」


 急所を外して珪の太腿を浅く傷つけたナイフが水たまりに転がり、波紋を作った。裂傷から流れ出た赤い血が地面に滴り、すぐに雨水で流されていく。

 傷口を押さえる珪の目は、観念したようでもあり、何故か嬉しげにも見える。

 水に落ちたナイフを拾い上げながら珪が微笑んだ。


「なるほど。そちらのお嬢さん、なかなか頭が切れるようだ」


 アウルで作られていればすぐに消えてしまうはずのそれは、珪の手の中でまだ形を保っている。見たところ、対天魔用に拵えられたナイフでもないようだ。どこにでも売っていそうな、肥後守(ひごのかみ)に見える。


「渡瀬さん、あのナイフにはアウルを篭めていません」

「アウルを? それじゃ」


 天使や悪魔、そしてそれに従う者には共通の特徴がある。物質の透過能力だ。

 撃退士だけが天魔を相手に戦える理由は、直接、間接的にアウルの篭められた攻撃でないと、透過を妨げ、ダメージを与えることが出来ないことによる。


 であるならば、アウルの全く籠っていない、何の変哲もないナイフで赤い血を流した珪は。


「はい、早良珪さんは使徒ではありません。人間です」



「珪が…… 人、間……?」

「はい。人間です。使徒にはなっていません」


 伊勢崎が、断定する。

 まるで昨日の天気でも聞かれて答えるように、はっきりと自信を持った声音だ。自分の出した結論に、何の疑いも持っていないという表情だ。


「賢いお嬢さんだね。どこで気が付いた?」

「最初から。渡瀬さんを誘拐(アブダクション)するにせよ……殺すにせよ、天使の側に付いたなら眷属(サーヴァント)くらいは用意するはずです」

「開を油断させるため、と言うことは考えられないかな?」

「“早良珪”が敵として出現した段階で、渡瀬さんの心的動揺は十分に誘えるでしょう」伊勢崎が小さく微笑む。「事実、今日の渡瀬さんは本当の実力を発揮出来ていませんでしたから」


 伊勢崎の言葉に珪が頷く。


「確かに。君は開のことをよく見ているみたいだね。今日の動きはお世辞にも褒められたものじゃない」

「傍で見てましたからね。コンディションくらいは分かりますよ、早良珪さん」



 二人の会話を見るともなしに見ながら、俺はずっと考え続けていた。


“一度使徒になった人間は、元に戻れない”


 それは、間違いのない話だ。

 人間側に寝返った堕天使たちからの証言でも、それは裏付けられている。

 使徒になるということは、単に寝返るのではなく、存在そのものを書き換えられるということだからだ。その人間の特徴に何かを書き加えるのではなく、上から全く新しいファイルを上書きしてしまう。それが使徒化というものだ。


「じゃあ、何で珪は……」


 頭が、痛い。

 珪は使徒ではなかった。その珪が、俺に剣を向ける理由は、何だ。

 脳に灼熱した鉄の棒を突っ込まれるような感覚。自分の奥底で何かが焼けるような激しい痛みに、視界が赤く染まる。


 どうして珪は、俺と戦うのか。いや、むしろ“戦わなければならない”のか。

 親友なのに。いや、家族のようなものなのに。

 心の奥底にどろりと沈殿した灰色の堆積物の中から、思い出したくないもの、思い出してはいけないものが顔を覗かせている。





「サワラケイは、君の身代わりになったのだよ、ホモ・サピエンスの少年」


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