10 月と紅茶と伊勢崎愛海
「珈琲が良いですか? それとも、紅茶? もちろんどっちも代用ですけど」
レモンイエローのバスタオルを投げて寄越しながら、私服姿の伊勢崎が聞いてくる。
「……じゃあ、紅茶を」
ロフトまでついた1DKの部屋は男子寮と違って小洒落た作りになっていた。殺風景な俺の部屋と違って、質素ながらもパステルカラーを基調に部屋のコーディネートが統一されている。俺はとりあえずゴミ袋と新聞紙を敷いたリビングで毛布に包まっていた。
「前に弟たちが遊びに来た時に置いてった下着、捨てなくて正解でした。まさかこんな風に役に立つとは思いませんでしたけど。あ、砂糖はどうします?」
「二個くれ」
「渡瀬さん、意外と甘党なんですね。そう言えば歓迎会でも角砂糖持ってましたっけ」
「アレは……まぁ、冗句みたいなもんだ」
モスグリーンのマグカップが湯気を立てている。最近出回り始めた「紅茶風飲料」のティーパックだ。有名産地の茶葉が手に入らないので、中国南部の茶葉に色々と混ぜ物をしているらしい。苦味があるので普段なら絶対に口にしないが、今は温かさだけでも有難い。風邪薬も、一緒に飲んでしまう。
「ところで、いいのか? 寮に男を連れ込んで」
「いい訳ないじゃないですか。バレたら退寮処分ですよ。不純異性交遊には煩いんですから、ここ」
冗談めかした口調で言いながら、伊勢崎も自分のカップに口を付ける。二人とも、何も話さない。雨の音をBGMに、ゆったりとした時間が流れていく。
部屋の中には写真が幾つも飾ってあった。兄弟や母親と写っているものがほとんどだが、一枚だけ、父親らしき男性と写っているものがある。写真の中のまだ幼い伊勢崎は、はにかみながら微笑んでいる。
また小さな停電があり、今度はすぐに復旧した。
「校舎ですれ違ったの、気付いてました?」
「ああ」
「サワラケイ、って人を探してるん、ですよね。私、部長に聞いてきました」
「ああ」
俺でなく、カップを見つめながら伊勢崎は続ける。
「部長、謝ってました。何言ったのか知りませんけど、渡瀬さんに悪いことをしたって」
「ああ」
「だから私、一発殴っちゃいました。部長のこと」
「えっ?」
驚いて顔を見ると、伊勢崎がにんまりとした笑みを浮かべてこっちを見ていた。どうやら冗談だったらしい。確かに伊勢崎が人を殴る所なんて、あんまり想像できない。
「……服、乾いたら、また探しに行くんですか?」
「ああ」
「熱があっても、ですか?」
「ああ」
「そんなに……そんなに、大事な人なんですか」
「……ああ」
それきり、伊勢崎は口を噤んだ。
彼女は、どこまでこのことを知っているのだろう。
久藤は伊勢崎のことを仲間ではない、と言った。それ自体がブラフという可能性もあるが、よく分からない。薬が効いてきたのか、痺れるような気怠さが脳髄をゆっくりと支配していく。
「その、サワラケイ、っていうひとは、渡瀬さんとどんな関係なんですか?」
両手で包んだカップを顔の前に持ったまま、躊躇いがちに伊勢崎が尋ねる。
「珪は俺の幼馴染みで、親友で、家族みたいなもんかな」
家族、という言葉に伊勢崎の肩が微かに震えた。自分の家族のことを思い出したのだろうか。確か彼女は母子家庭だと言っていた。写真に写る、父の記憶が蘇ったのかもしれない。
「俺と珪は海辺の温泉町の出身で、と言っても、その頃は全然面識が無かったんだ」
よくある話だ。
天使が襲来して、街が壊滅。生き残ったのは年端もいかない小さな子どもだけ。
当時すでに全国の孤児院は規定数を遥かに超える「戦災孤児」や「疎開児童」を抱え込んでいたから、俺と珪が引き取られることになったのは、天城の小さな寺だった。
「伊豆の山奥の辺鄙なところだったし、住職も歳が歳だったから、そこに預けられた子どもは俺と珪だけだったんだ」
「きょうだい、みたいなものだったってことですか?」
「まぁ、そんな感じかな。最初は仲が悪かったんだ。でも、たった二人だけしかいない子どもだったし、ありとあらゆるものが足りていなかった。食事も、おやつも、文房具も、遊び道具も。何でもかんでも分け合ったりしてる内に、いつの間にかそうなっていったんだ」
こんなことを話すのは初めてのことだ。ここで話を止めると薬の所為で眠ってしまいそうで、無理矢理に話を続ける。
「小学校の体力測定か何かの時に、俺と珪にアウルの適正がある、ってことが分かった。それで二人そろって久遠ヶ原に来たんだ。心細かったけど、二人なら何とかできる自信もあった」
「じゃあ、それ以来ずっと一緒に?」
「ああ。だから、京都の戦いから珪が帰って来なかった時は……信じられなかった。夢だと思った」
駄目だ。俺は今、話し過ぎている。
熱の所為か、風邪薬の所為か。それとも、はじめて女の子の部屋に来て舞い上がっているのか。
いずれにせよ、この話を切り上げないといけない。伊勢崎には感謝しているが、ここで身の上話をしている暇はなかった。少し休んで、服が乾いたら、珪を探しに行かなければならない。
「渡瀬さんは……」
伊勢崎が、机にカップを置いた。こつん、という澄んだ音が耳に響く。
気が付いた時には、伊勢崎の顔が目の前にあった。圧し掛かるような体勢で、伊勢崎は俺を見つめている。まつ毛の一本まで見える距離だ。吐息さえも肌で感じ取れてしまう。
例のチャイナドレス事件の時から、「女」としては見ないように見ないようにしてきたが、この距離感は反則だ。印象的で大きな瞳が俺を見つめて潤んでいる。石けんの香りに混じって、伊勢崎の匂いがよく分かった。
自然と、鼓動が早くなる。
「おい、伊勢崎……お前……」
柔らかい色のリップを引いた伊勢崎の唇が震えている。
「もう、止めて下さい。渡瀬さんが、ケイって言うひとのことを大事に想っているのは分かります。でも、そのひとの為にそんなに自分を苛めないでください」
「自分を苛めるだなんてそんな」
否定は出来なかった。
俺のしてきたことは伊勢崎の言う通り、自分を苛めることだ。珪を喪った悲しみを、自分の弱さを、自分を苛めることで、紛らわせてきた。過酷なトレーニングも、無茶な食事制限も、強くなるという目的ではなくて、その過程の辛さの方が目的だったと言われると、そうなのかもしれない。
「伊勢崎、俺……」
何かを言おうとして、言えなかった。
俺の唇を、柔らかいものが塞いでいる。
目を瞑った伊勢崎は、キスをしながら泣いていた。頬を、涙の筋がこぼれていく。その涙が、何だかとても綺麗だな、と場違いなことを考えていた。
歯の当たりそうな、ただ、押し付けるだけのキス。驚きと戸惑いが愛しさに変わるのに、それほどの時間は必要なかった。俺も目を閉じ、伊勢崎の、いや、愛海のことを受け容れる。
雨の音がだんだん遠くなり、やがて、鼓動しか聞こえなくなった。
永遠より少し短い時間が過ぎ、どちらともなくそっと唇を離した。
俯いた伊勢崎は耳まで真っ赤に染まっている。多分、俺もそうなのだろう。心臓はまだ高鳴っていて、真っ直ぐに相手の顔を見ることが出来ない。
「あの、伊勢崎、その……ごめん」
「渡瀬さん、謝らないでください。私の方こそ、すいませんでした」
気まずい、それでいてどこか緩んだ雰囲気が部屋を包んでいる。
空になったカップを弄びながら、伊勢崎は何もない天井を見上げていた。時計の音が、やけに大きく聞こえる。
「そうだ。私、もう一杯紅茶淹れてきますね」
「あ、ああ」
キッチンへ向かう伊勢崎の背中を視線で追いながら、俺はまだ事態を把握出来ていない。伊勢崎が俺にキスをし、俺もそれを拒まなかった。それは、どういう意味があるんだろう。
頭が混乱して、考えが上手くまとまらない。
俺は伊勢崎の部屋で伊勢崎とキスをした。それはいい。不意を突かれたが、今では俺も納得している。
これからどうすればいいのか。
俺より背がでかいとは言え、伊勢崎は後輩だ。年下の女が自分からキスをする、というのはとても勇気が要ったはずだ。その勇気に、俺はどう応えればいいんだろうか。
「お待たせしました」
「ああ、ありがとう」
運ばれてきた紅茶風飲料に、角砂糖を二つ入れる。まだ溶け切らない内に、マグカップに口を付けた。
唇にカップが触れ、伊勢崎の感触を思い出してしまう。
いつの間にか、悪寒も気にならなくなっていた。
「渡瀬さん」
「なんだ、伊勢崎」
伊勢崎は、こっちを見ていない。カップの水面に映る、自分自身と話しているようだった。
「……さっきのこと、やっぱり、忘れてください」
「えっ」
「私、渡瀬さんの気持ちも考えずに、勝手なことをして」
「いや、伊勢崎」
違うんだ、伊勢崎。
その一言が、何故か声にならない。
素直に、嬉しかった。
最初に出会った時、紅茶色の髪が風に揺れていたその時から、俺は、ずっと。
「雨、上がったみたいですよ」
立ち上がり、伊勢崎が窓を開ける。
湿った風が部屋に吹き込み、写真立てがカタカタと音を鳴らした。空には綺麗な半月が浮かんでいる。
台風の、目だ。
「渡瀬“先輩”が、元気になって良かったです」
良くない。ちっとも、良くない。
勝手に自分からキスをして、勝手に自分だけ納得して、勝手に呼び方まで変える。そんなこと、良かったと言えるはずがない。
「ケイさん、見つかると良いですね」
そう言って悲しそうに微笑む伊勢崎の頬を、両の掌でしっかりと捕まえる。
驚いて目を瞠るのも気にせずに、そのまま、強引に唇を奪った。
より強く、より貪欲に。
最初は強張っていた伊勢崎の身体から力が抜け、逆に手を俺の首に回してくる。
さっきより短い時間で、二回目のキスは終わった。
まだ頬を上気させてぼぅっとしている愛海の頭を優しく撫で、乾いた服に着替える。
マグカップに残った苦い紅茶風飲料を飲み干すと、まだ底に砂糖が溶け残っていた。
「じゃあ、行ってくる」
「えっと、はい、気を付けて」
ぺたんと座ったまま、愛海は小さく手を振ってくる。その仕草が堪らなく愛おしい。
女子寮の外は、嵐の前の静けさだった。切れかけた街燈が一つ、明滅を繰り返している。
風だけが強く吹いているが、雨は一滴もない。
それほど歩かない内に、俺は足を止める。
私物入れに使っている工員用ロッカーの前、少し開けた広場の真ん中に、珪は立っていた。
月明かりを背負って立つ姿は、あの日、京都で見た時の珪のままだ。
言葉が、出ない。
言いたいことは山のようにあるはずなのに、どうしても言葉にならない。
ずっと、ずっと待っていた。心のどこかでは諦めかけていたのが嘘のように、今は再会の喜びに満たされている。
「遅くなったね、開」
珪が笑う。
ずっと聞きたかった、珪の声。
懐かしいその響きはしかし、記憶にあるよりも少し硬質で、冷たい。
「やっと迎えに来れたよ」




