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夏の嵐  作者: 蝉川夏哉
第二章 ビターテイスト・メルティシュガー
10/15

09 雨と紫煙と久藤部長

 潜り込んだ五限の授業は前衛職向けの座学だった。

 本当はもう一つ依頼を請けようかとも思ったのだが、少し熱っぽいので大事を取ることにした。無理をしてもいいことはない。

 久遠ヶ原学園の校風は自由だ。高等部の授業も大学のように選択制で、何を受講するかは学生の判断に委ねられている。これは未だに撃退士を養成するカリキュラムに「正解」が存在しないこととも関係していた。自主性を重んじながら、同時に最適解も見つけようとしている、というわけだ。


 階段教室に集まった学生たちは思い思いの格好で白皙(はくせき)の老教師の授業を受けている。鶴のように痩せたこの眼鏡の教師はアウル能力を持たない一般人で、城南大学から招聘された学者だ。平板な声の調子で基本的な知識を繰り返すので、眠気を誘う。


「つまり、天使も悪魔も人間の死体を尖兵とする戦術は同じであるが、その扱いについては若干の差異があると言われており……」


 最後列の最上段、窓際の席で俺は授業を聞くともなしに聞ききながら、どうしてこんな心情の変化が短い間に起きたのかを考えていた。

 さっきまで晴れていた空が曇り、窓に小さな雨粒を叩きつけている。


 珪。

 珪のことを、忘れたわけではない。仇を討つ、という気持ちは今も変わってはいない。

 珪は俺の幼馴染みで、いいコンビで、親友で……そう言っていいのなら、家族だった。俺の中での優先順位が変わったわけでは、断じてない。

 ただ、捉え方は少し変わった、のかもしれなかった。


「で、あるからして、天使の軍門に生きたまま加わる人間もいる。これを使徒(シュトラッサー)と国際的には呼称しているわけであるが、これは強制的に支配されるだけではなく、自らの意思で隷属するばあいもある。ストックホルム症候群と似たこのような精神の働きを……」


 窓の外では段々、雨風が強くなってきている。

 なんとなく、晩飯にはコロッケが食べたいな、と思う。

 木がしなり、外を歩いている生徒たちが雨宿り先を探すために必死に走り回っていた。夜半からの台風はよほど強いのだろう。自転車置き場がドミノ倒しのようになっている。


 その時、俺は妙なことに気付いた。

 既に横殴りになっている雨の中で、一人だけ、学生が突っ立っている。傘や合羽は持っていないので、もちろんずぶ濡れだ。夏服のズボンのポケットに手を突っ込んで、こちらの方を見上げている。

 その顔を見た瞬間、俺は場所も考えずに絶叫していた。


「珪!」


 授業を受けていた学生たちがぎょっとした顔でこちらを振り返る。だが、そんなのは知ったことか。立ち上がり、上着を引っ掴んで教室を出る。


「おい君、まだ授業中で……」

「気分がすぐれないんで保健室に行ってきます!」


 健康そのものの声でそう言い放つと、俺は廊下を全力で疾走した。タイル張りの床を蹴り、階段を飛び降りる。すれ違う学生や教師が奇異の目で見て来るが気にもしない。途中、伊勢崎の紅茶色の髪を見たような気がする。何か声を掛けられたのかもしれないが、何も聞こえない。アウルで強化された筋肉が悲鳴を上げるほどに酷使し、校舎の出口を目指す。


 あれは、間違いなく早良珪(さわら けい)だ。

 俺が絶対に見間違うはずがない。京都であの天使との戦い以降、ぷっつりと姿を消した、いや、「死んだと思われていた」はずの珪が、何故、今ここにいるのか。


「珪!」


 いない。

 飛び出した先の広場には激しい雨でもう水がたまり始めている。さっきまで珪が立っていたはずの場所には、誰もいない。機銃掃射のような雨が煉瓦貼りの地面を叩きつけているだけだ。


「珪! 俺だ!」


 もう一度、叫ぶ。返事はない。聞こえるのは、雨と風の音だけだ。

 腕で顔を拭い、目を凝らす。校舎の陰に、歩み去る珪の後姿が見えた、ような気がした。

 全身が濡れるのも構わずに、影の後を追う。冗談じゃない。四ヶ月も姿を見せなかった珪が、今、そこにいるかもしれないのに。


「珪! 待てっ!」


 風が強い。顔を庇い、ひたすらに走った。指先から、感覚が失われていくのが分かる。

 珪に追いついたら、まず一発ぶん殴る。

 それから、「おかえり」と言ってやる。詮索や苦労話なんて後回しだ。美味い飯を食べて、珪の好きな漫画を読む。夜通し起きて、一緒に馬鹿なことを言い合う。七不思議研の連中を紹介するのもいいかもしれない。


 校門を出て、長い坂を下る。

 もう、目の前に珪がいるかどうかさえ分からないくらいに雨が強い。水が入って重くなった靴を脱ぎ、中身を捨てる。

 いつの間にか、商店街に入っていた。台風に備えてほとんどの店はシャッターを閉じている。倒れたゴミ箱から中身が散乱していた。


「くそっ!」


 苛立ちだけが募る。さらに激しくなった雨と夕闇のせいで、五メートル先のまともに見えなくなってきた。もう珪の姿は見えない。

 何か方法はないか。幻でもいい。珪に、もう一度会わなければならない。

 降りしきる雨に逆らって顔を上げる。目の前に、コーヒーポットを象った看板が見えた。



                              †  †  †



「こりゃまたひどく降られたねぇ、ワタセさん。色男が台無しだ」


 例の中華料理屋に、久藤はいた。客のほとんどない店内で何かの専門書を読みながら煙草を燻らせている。まだ夕方だというのに、円卓には青島ビールの瓶が三本転がっていた。


「ま、お座んなさいよ。何か温かいものでも食べるかい?」

「久藤さん、アンタに頼みがある。力を、力を貸して欲しい」

「力? 見ての通り私はあんまり腕っぷしには自信はないよ」

「人探しを、手伝って欲しいんだ」


 久藤の三白眼が細められる。普段飄々としているこの男からは信じられないほど、鋭い。

 まだ吸いさしの煙草を白い灰皿に押し付け、久藤は一つ大きな溜息を吐いた。


「人探し、ね」

「ああ、そうなんだ。急いでいる。探しているのは……」


「サワラケイ、だろ」


 マイルドセブンスーパーライトを新しく箱から取り出し、火を点ける。紫煙が、まっすぐに天井に吸い込まれていく。たっぷり十秒、久藤は煙草の味を楽しんでいた。


「早良珪、十七歳。高等部二年で血液型はO型。好物は麻婆豆腐で紅茶党。アウル能力の発現確認及び学園への編入は二〇〇三年。出身は静岡県熱海市。両親を含め親類縁者は無し。そして、二〇一二年五月、京都にてMIA(戦闘中行方不明者)扱い、と」

「久藤さん、アンタなんで……」


 俺の問いを、掌で制する。久藤は尻ポケットからゴツいブラックベリーの携帯を取り出すと誰かに電話を掛けはじめた。


「浅田、私だ。岸野は近くにいるか? ああ、違う違う。例のAだ、京都の。捜索を始めてくれ。何かあったらすぐに連絡を。分かっていると思うが、無理はするな。以上」


 声音にはいつもの軽さは微塵もない。まるで戦術を指揮する将校のような侵し難い威厳だ。電話を終えると久藤は俺に向き直り、もう一度溜息を吐いた。


「ワタセさん。私は君に謝らないといけないことがある」

「久藤さん、そんなことは後回しでいい。聞きたいことはいっぱいある。でも、今は、珪を……」

「心配しなさんな。サワラさんはもう一度アンタの目の前に現れるはずだ。確実にね」

「何でそんなことが分かるんだ!」

「分かるさ。それよりもまず、身体を温めたらどうだい」


 落ち着いた物腰のウェイターが中国茶を運んでくる。湯気の立つ茶碗に手を伸ばした。濃く入れられた烏龍茶が、肚の中から温めてくれる。


「さて、どこから話したものかね。なるべく手短にまとめたいが」

「まず一つ聞きたい。久藤さん、アンタ誰なんだ?」

「久藤清康、ただの学生だ。という説明じゃ納得してくれなさそうだね?」


 俺は無言で頷く。ずっと、何かが引っ掛かっていた。この久藤という男は、何もかもが洗練され過ぎている。如何にも駄目な人間を装っているが、戦闘の指揮も、情報の収集も、久遠ヶ原の一般的な学生の水準を大きく上回っていた。


「アンタは何で珪のことを知っているんだ」

「七不思議研の部長だから、とか」

「ふざけるな!」


 学生の個人情報は生徒会が厳重に管理している。一介の研究会の部長程度がおいそれと閲覧できるものじゃない。


「冗談だ、ワタセさん。君の想像している通り、私はアラクネー駆逐の依頼より前から、君の素性を知っていた。君の相棒についてもね。その事については、率直に詫びよう。この通りだ」


 そう言って久藤は円卓に手を付き、頭を下げる。


「その謝罪は受け容れられない。何について謝っているのか、はっきり言ってくれ」

「だろうね。だがすまない。職務上、(つまび)らかに出来ないこともある」

「何も明かさずに出来る謝罪があるっていうのは初耳だな」


 久藤が黙った。

 それが癖なのか、細く長い人差し指で円卓をトントンと叩いている。表情は読めない。悩んでいるようにも、この状況を愉しんでいるようにも見える。羽根を隠したルクレツィアと今の久藤を並べて見せてどちらが悪魔かを当てさせる賭けをすれば、それなりに儲けが出そうな気がする。

 いつまでも黙っていても話が進まないので、俺は爆弾を投げてみた。


「久藤さん、アンタ、自衛隊の関係者じゃないのか?」


 前々から抱いていた疑問だ。

 普段の様子はともかく、戦闘中の動きや指揮、それと日常の隠しきれない所作に、久遠ヶ原学園で受けたものとは違う訓練の跡が見えることがあった。


「……どうしてそう思う?」


 動じない。が、否定もしない。韜晦(とうかい)さえしてみせないところを見ると、当たらずとも遠からじと言ったところか。


「アンタの纏っている空気がさ、普通の学園生とは違う。どっちかと言うと、作戦の時に一緒になる陸自の隊員の方に近い」

「根拠薄弱だな。状況証拠ですらない」

「数字の読み方は? 二のことをフタなんて読むのは……」

「単なるミリタリーオタクかもしれない。或いは重度の歴史オタクかも。トラトラトラ、ニイタカヤマノボレ、天気晴朗ナレドモ浪高シ。おじいちゃんっ子で、その読み方が伝染(うつ)ったとか」


 最後は明らかに自分でも無理があると思ったらしく、苦笑交じりになっている。

 これ以上は押しても無駄だろう。もし久藤が自衛隊の関係者だったとしても、自分から素性を明らかにするはずもない。


「それで、アンタは何で俺や珪のことを知っている?」

「天使に誘拐(アブダクション)された撃退士、ってのはそれほど多くない。早良珪で三例目かな。国外ではもう少しあるんだろうが、この手の情報は出回るのが遅くてね。関心は抱くさ」

「アブダクション? ってことは、珪は……」


「ああ、早良珪は、生きている。君の見たのは幽霊なんかじゃない」



 雨音が激しくなった。

 店内の照明が一度消え、すぐに点く。瞬間的な停電だろう。ひょっとすると、島の外からの電線が落ちたのかもしれない。


「この学園は、独立色が強い。それ自体は学生にとって良いことなんだろうけどね」

「何が言いたい?」

「学園には秘密が多過ぎる、ということさ。制度上も日本政府の完全な管理下とは言い難い。学園でならそこら辺の学生でも知っていることが、外の世界じゃ軍事機密扱いされていたりする」

「それとこれと、何の関係がある」

「……仮に君の言うように私が自衛隊の関係者だったとしたら、この学園や撃退士について調査するために派遣されているんだろうからね。関係が無いとは言えないということさ。君とサワラさんについても、その一環ということになるだろうね」


 身体は冷えているのに、頭が熱くなっていくのが分かる。説明のしようもない怒りが、俺の中で渦巻いている。俺と珪のことを訳の分からないことに巻き込まれたことに対する怒りだ。


「学園の抱える撃退士の数が、ざっと六万。軍隊で言えばざっと四個から六個師団にも相当する。大した規模だと思わないかい? しかもそれが全員、オリンピック級のアスリートと同等の肉体的な強靭さを秘めていると来たもんだ。それだけの「戦力」が国内で、「自由」に存在している」

「天魔と戦う為の力だ」

「そんなことは私にも分かっているさ。だが、危険とまでは言わずとも、快く思わない人間もいる。少なくとも学園が何を考えているかを知りたい、という人間はたくさんいるんじゃないかな」

「その為の、七不思議研か」


 また、店の灯りが消えた。今度は、長い。暗闇の中で、久藤が続ける。


「……学園の七不思議を調べるというのは、隠れ蓑にはなかなか具合が良い。拠点としてのこの店と七不思議研という組織。実働部隊はいくつか紛れ込んでいるが、俺と岸野、浅田はチームだ。ルクレツィアは薄々感付いているみたいだがね」

「伊勢崎は?」

「イセザキは無関係だ。あれは良い娘だよ。ジャーナリスト志望だそうだ。純粋で、頭もいい」


 暗闇の中に、蛍の光のように灯が点った。久藤の煙草だ。

 暗闇の中に揺蕩(たゆた)う煙が、久藤自身のように話す。


「こんなことを話すのは、ワタセさんにも協力して貰いたいからだ。その為に、非礼も詫びた。サワラさんの事件を、私たちで解明したい」

「何のために」

「……第一には、君たちの為に。次に、私たちの為に。学園生徒会は私たちのことを知っていて泳がせている。彼女たちが知らなくて私たちだけが知っているカードを、一枚でも手に入れたい」


「断る、と言ったら?」


 沈黙。

 先に痺れを切らしたのは、久藤だった。


「……ワタセさんは賢い、と信じているよ、私は。一人で探し切れないからここに来たということを忘れてはいないだろうしね」


 椅子を蹴って立ち上がった。

 そのまま、雨の中に走り出る。背中に久藤の声が聞こえるが、何を言っているのかは分からない。知りたくもない。助けを求めた俺が、馬鹿だった。


 路地を抜け、商店街を走り、闇雲に珪を探す。防災無線が台風の情報をがなり立てているが、風の音が大き過ぎて聞こえない。雨の量が多過ぎて、側溝の蓋から水が溢れ出しはじめている。


 俺は走った。

 珪の立ち寄りそうなところ、雨風を避けられそうなところを片っ端から回っていく。雨は体温と体力を確実に奪っていった。寒気がする。自分でもはっきり分かるほど、熱が高くなっていた。

 少し、休んだ方が良い。そう自覚できる程に、体力を消耗している。



 その時不意に、目の前に人影が現れた。

 傘も差さずに立っているその影は、珪ではない。紅茶色の髪を、見間違うはずが無かった。


「……伊勢崎、お前なんでこんなところにいるんだ?」


 伊勢崎は黙ったまま困ったような笑顔を浮かべ、俺の手を握り締めた。柔らかい、女の手だ。そしてそのまま、強引に俺を引っ張っていく。


「おい、伊勢崎! 離せ!」

「嫌です」


 短く、きっぱりと伊勢崎が答える。そこからは、会話は無かった。

 俺も疲れていたのかもしれない。手を引かれるままに路地を進み、気が付けば全然知らない場所についていた。見慣れない小さなアパートが林立している。


「……ここ、どこだ? こんなところ、島にあったか?」

「こんなとこ、普段はこないでしょ? だってここ、女子寮ですもん」


 郵便受けの中を確認し、伊勢崎がオートロックの鍵を開ける。


「さ、渡瀬さん。さっさと入っちゃってください。誰かに見つかるとまずいですから」


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