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夏の嵐  作者: 蝉川夏哉
プロローグ
1/15

2012年5月 京都

 屋上から、夜明けの街に飛び降りた。



 八階建ての分譲マンション、下の地面はアスファルト。普通に考えれば、確実に死ぬ。

 落ちながら見る早朝の京都には街燈の煌めき一つない。朝の冷たく澄んだ空気だけが西大寺三条の交差点を満たしている。風圧がだんだん強くなった。地面が、近い。

 地球の重力に身を委ねながら、俺は小さく笑った。


 これは自殺ではない。戦術的に正しい奇襲だ。


 頬に当たる風圧を愉しみながら、背中から両手剣(グレートソード)を抜き放つ。学生服の裾が風にはためく音が耳に心地良い。

 眼前に迫る地面には多頭の犬、ケルベロスが群れていた。数は十二か十三か。一人でまともにやり合える数ではない。

 だが今の俺の目的は時間稼ぎだった。後続の撃退士(ブレイカー)が来るまでの僅かな時間、一人で凌ぎ切れればそれで構わない。

 地面が迫る。俺は犬の中でも一際大きい個体に目星を付けた。


 三つある頭の一つに剣撃を叩き込む。

 男子高校生の全体重に重力加速度を乗せた一撃は、相手の頭蓋ごとアスファルトの地面を割り砕く。交差点のアスファルトがその衝撃で陥没し、京福電鉄の軌条(レール)が歪む。

 衝撃を殺して着地しながら地面を蹴り、真横に飛んだ。今までいた場所がケルベロスの鋭い爪で薙ぎ払われる。その風圧だけで制服が裂けるが、気にはしない。気にしている余裕もない。

 やはりこの一番大きな奴が群れのボスらしい。こいつの唸り声に呼応して、他のケルベロスがこちらに注意を向ける。ここまでは、計算通りだ。



 古都の空は禍々しい色で覆われている。人類の敵である天使の創り出した結界だ。

 結界を形成する(コア)に向かっている仲間の本隊が破壊に失敗すれば、京都市の街は敵の支配する死の世界に変わる。

 遠くから避難民のざわめきが聞こえてきた。京都を棄てて脱出する住民たちが少し南に下った通りに溢れている。家財も持たずに着の身着のままで逃げる彼らをこの禽獣(きんじゅう)の群れから守るというのが、俺が今すべきことだ。


 ボスが低く唸る。手を出すな、という指示だろうか。

 異形の獣であっても、意外に群れの秩序というものはしっかりしている。ボスと対峙する俺の周りを十数頭のケルベロスが緩やかに円を描くように取り囲んだ。少しでも隙を見せれば後ろから爪と牙が襲って来るに違いない。速さは捨てて、こちらがどういう動きをしても対応出来るという構えだ。


 剣にアウルを纏わせ、敵の出方を見る。

 アウルというのは言ってしまえば生命のエネルギーで、これがないと天使や悪魔と戦うことは出来ない。アウルを巧く扱える者だけが訓練を受けて撃退士になる。

 その為の組織が俺も所属する“久遠ヶ原学園”だ。


 突進してくる相手を(かわ)しながら、浅く探りの斬撃を入れる。強い。

 犬に似た身体は厚い毛皮で覆われ、刃が通り難いのだ。両手剣(グレートソード)はシンプルに「斬る」というよりも「叩き斬り潰す」武器だが、相手の体格が大型のバイクくらいあるのでそれも難しい。


 ボスの攻撃を切り払い、息を整える。

 捨石になるつもりは無いが、無事では済みそうにない。

 撃退士(ブレイカー)は屋上から飛び降りるような芸当は出来ても、無敵でも不死でも何でもない。戦いには慣れていると言っても、これだけの数の相手を惹きつけておくことが出来る時間は限られている。

 犬たちが、じわじわと包囲を狭めてきた。


「さぁ来い、イヌ野郎……」


 意識を剣先に集中した。目の前のボスが低い唸り声を上げ、獣臭い息を吐く。向けられる敵意を肌で感じながら、慎重に摺足すりあしで距離を縮めていく。お互いに、機を見計らう。実力は相手の方が少し上。だがこちらもただではやられない。先に動いた方が深手を負う。交差点が緊張した空気に包まれる。


 その時、包囲を形成する(むれ)の一頭が情けない悲鳴を上げて仰け反った。

 見ると、背中に矢が刺さって倒れている。


 交差点の一角、レンタカーショップの角に久遠ヶ原学園の制服が見えた。

 待ちわびた援軍だ。


「渡瀬! 渡瀬開わたせ かいはまだ生きてるか?」

「みんながあんまり遅いんで、手柄、独り占めするところでしたよ」


 冗談で返しながら、小さく安堵の息を漏らす。

 俺と同じく久遠ヶ原学園の制服に身を包んだ撃退士(ブレイカー)が十三人。これで漸く五分五分以上だ。撃退士たちはそれぞれの得物を構え、ケルベロスとの交戦状態に入る。


「遅くなったね、(かい)

「美味しい所は残しておいたぜ、(けい)


 攻囲の輪から抜けて同じ学年の早良珪(さわら けい)が駆けつけてくる。死角を作らないように俺と背中を合わせ、細身の刺突剣(エストック)を油断なく構えた。

 色素の薄い長髪に優しげな瞳。十人の女子とすれ違えば九人が振り返り、残り一人は惚れている、というほどの美男子だが、不思議と嫌みがない。

 俺と(けい)は幼馴染みで、いいコンビで、親友だ。


(かい)、あまり無茶しないでくれよ」

「無茶? 奇襲だよ、奇襲。アウルのお陰であの高さから飛んでも平気だし」


 と、今しがた奇襲の為に飛び降りたマンションを指差す。珪は呆れた口調になって肩をすくめた。


「そんなことを言ってるんじゃないよ。一人で先行したことについて言っているんだ」

「そっちが遅かっただけだ、ろっ!」


 軽口を叩きながらも、ボスの爪を弾き返す。

 背中を珪に任せられる安心感が、さっきよりも俺の動きをよくしている。

 剣術、というよりは体力任せの連撃で翻弄しながら、相手の隙を伺う。基礎体力に優れた(体力バカの)撃退士の中でも、俺は特に運動神経に自信がある。複数の頭の攻撃を着実に捌きながら、一つ一つ戦闘不能に追い込んでいった。

 焦りは禁物だ。額に汗が伝う。今はこちらが有利だ。落ち着けば、勝てる。


 振り下ろされる前肢を紙一重で(かわ)し、一旦距離を取った。

 疲労した俺を嘲笑うかのように、ボスが鼻を鳴らす。舐められているのではない。挑発だ。

 良いだろう。こうなったら、覚悟を決めた。


「珪、アシスト頼む!」

「任せておけ!」


 珪が大ぶりのフェイントを掛け、俺が一足飛びにボスの懐に飛び込む。

 もう、こちらの安全には構っていられない。速攻あるのみだ。

 鋭い犬歯を受け流(パリィ)しながら、敵の首のつけ根に剣の柄を打ち付けた。ここに、多頭の犬(ケルベロス)の脳が収まっているのは座学で習っている。打撃での脳震盪(のうしんとう)を期待したが、そこまでは甘くない。

 両手剣と犬の牙が鍔迫り合いのように(きし)む。ここで退けば、腕の一本は喰い千切られるだろう。アウルを一点に集中し、力を篭めた。少しずつ、柄が肉に沈み込んでいく。

 手応え。

 そのまま力を加える。何かが砕ける感触があり、ケルベロスは泡を吹いて崩れ落ちた。




 ボスを失った群れは明らかに統制を欠いている。一度乱れてしまえば掃討は時間の問題だろう。汗を拭いながら、何気なく時計を見る。朝の四時五十九分。夜を徹しての戦いだった。

 もうすぐ古都の夜が明ける。まだ余力のある撃退士に残敵の駆逐を任せ、俺は珪と階段に腰を下ろした。そうするだけの働きはしたつもりだったし、誰も文句は言わない。一つ上の段に座るのは珪の方が俺より高いので、同じ段に座ると見上げることになってしまうからだ。

 両手剣を縮小し、ペンダントの中に収納した。心地よい疲労が身体の奥に溜まっているのを感じる。


「やったな」

「ああ、開。殊勲賞ものだね。……でも、無茶はもう止めてくれよ」


 ペットボトルのミネラルウォータを寄越しながら、珪が軽く(たしな)めて来る。

 まるで兄弟のような口調だ。それが少しも不快ではない。

 普段から独断専行(スタンドプレー)に走りがちな俺にとって、珪のお小言は聞き慣れたものだ。そうは言っても、誰かがやらねばならない役回りなのだ。一番行動の遅い撃退士に合わせて行動していたら、命が幾つあっても足りやしない。まして今回は大規模な作戦の一環なのだ。敵の強さも危険の度合いも、普段の比ではない。そのことを珪も分かっているから、あまり煩くは言ってこなかった。


「分かった、次から気を付ける」


 嘘だ。

 俺には俺の戦い方があって、それはいつも先陣を切ることだ。速戦速攻。(はや)きこと風の如し。兵、神速を尊ぶ。ブリッツ・クリーク。常に戦いの主導権(イニシアティブ)を握り、敵を叩く。

 そこだけは珪の助言でも曲げるわけにはいかない。


「で、珪。戦況はどうなんだ?」わざとらしく話題を変える俺に珪はやれやれと溜息を吐く。

「全体としては上手く行っているみたいだけど……さっき陸自が指揮所の撤収準備をしてるのを見た。どうやら、京都は放棄するらしいね」

「……マジかよ。学園の撃退士(ブレイカー)だけじゃなくて、陸自とかもいっぱい来てるんだろ?」

「それだけ天使側も本気だってことだよ。学園の総力を挙げても圧し切れなかった。それに天使や悪魔の相手は僕たち撃退士(ブレイカー)にしか出来ないからね」

「まぁ、そりゃそうなんだけどさ」




 人類が天使や悪魔と戦いはじめて三十年弱になる。

 黙示録に預言されているように、そこで世界が終ってしまえば色々な問題は永久に解決されて、めでたしめでたしとなったのかもしれないが、そういう訳にはいかなかった。やって来た天使や悪魔は昔から信じていたような超常的で霊的な存在ではなく、出来の良い紛い物(フェイク)だったからだ。

 彼らは炭水化物や糖分や蛋白質の代わりに生き物の生命エネルギーを食べて暮らしている。つまりは食物連鎖のヒエラルキーの天辺にいたホモ・サピエンスの上に天使と悪魔が乗っかる形になってしまった、というわけだ。


 効率よく人間や動植物から生命や感情のエネルギーを収奪する為に彼らは自分たちの陣地を作る。それが結界だ。これまでは地方の小都市が狙われていたが、今回は京都が狙われた。ここを落とされると日本の東西の物流は分断され、精神的な支柱も失う。作戦が大規模化するのは当然だった。


「そうは言っても京都だからね。いずれ学園を中心に奪還作戦が立てられるはずさ。今は一人でも多くの人を支配地域から避難させないといけない」

「だな。その為にも……」


 残ったケルベロスを何とかしよう。そう言いかけて、そこで止めた。

 いや、止めざるを得なかった。


 心臓が早鉦(はやがね)のように脈打つ。呼吸が浅く、早くなる。


 目が、合った。

 珪の背後に立ち、その男は俺の眼をじっと見つめている。


 天使だ。


 天使が、珪の後ろに立っていた。

 いつの間に近付かれたのか、全く気付かなかった。

 理知的な顔に柔らかな笑みを浮かべる筋骨逞しい美男子。その背中には巨大な翼がある。まるで教会のステンドグラスから抜け出てきたような、均整の取れた美の姿がそこにある。

 一目見た瞬間に、理解した。


 こいつには、勝てない。


 生物としての格が、全く違う。

 ティラノサウルスレックスに見つめられたネズミのような恐怖。天敵を前にした獲物の抱く感情。“窮鼠猫を噛む”という言葉が、猫への慢心を戒める言葉であって、鼠に勇を奮うように作られた言葉ではないということがすんなりと腑に落ちる。本当の恐怖を目の前にした時、鼠にはただ震えることしかできない。

 まるで殺意の籠っていない瞳に見つめられただけでこうなのだ。もし、戦ったら。


 せめて珪だけでも逃がさないといけない。そう思って震える喉に鞭を打つ。


「……け、珪、お前、う、後ろ」


 珪も異変に気付いたらしい。そして後ろを振り返ろうとした次の瞬間。


 視界から、珪の姿が消えた。


 間に遮るものなく、天使の穏やかな微笑みが俺の眼前にある。

 腕の一振りで珪が殴り飛ばされた、と気付くまでに数瞬の間が必要だった。腕を振る動きも予備動作も、一切見えなかった。原因と結果の間を繋ぐ過程が一切削ぎ落とされたような攻撃。それを魔法すら使わずにこの天使はやって見せたのだ。

 自慢ではないが俺は珪と組んでそれなりに実戦経験も積んでいる。それなのに、この天使の動きを全く目で追うことが出来なかった。


「……ぇあ、あ……」


 上手く言葉が出ない。自分が何を言いたいのかもわからない。

 実力に差があり過ぎる。今、しなければならないことを頭に思い描くことが出来ない。

 背中の両手剣(グレートソード)を構える?

 吹き飛ばされた珪の様子を見る?

 それとも、恥も外聞もなく大声を上げて逃げ出す?


 全ての選択肢が無駄に思えた。否、無駄に違いない。

 ほんの僅かにでも動けば、待っているのは、確実な死。屋上から飛び降りる時にさえ一切湧かなかった死への恐怖が奥歯を震わせる。

 天使はただ笑っているだけだ。それなのに、心を絶望が支配している。


「いい絶望だ」天使が嗤う。重々しい、それでいて嘲弄するような口調だった。

「君の絶望は実に素晴らしいよ、ホモ・サピエンスの少年」


 天使。

 人類の天敵。

 全ての物質を透過する能力を持つ、絶対の強者。

「ホモ・サピエンスの感情も色々と味わってきたが、最近どうも単調な気がしてね。舌が肥えてしまったのかもしれない」


 膝が震え、嫌な汗が背中を濡らす。

 耳に音声として天使の言葉は届いているのに、脳が理解を拒んでいる。この天使は何を言っているんだ。ひどく歪んだノイズにしか聞こえない。


「しかし、だ。少年。君は特別だ。君の絶望は実に甘露で、芳醇だ。賞讃に値する。私はこういう味わい深い感情を持ったホモ・サピエンスと出会えたことを感謝しているんだよ」


 まるでオペラ歌手の様に大げさな身振りを交えながら、天使は朗々とした声で俺を嘲る。


「今この場で君の絶望を余さず喰らい尽くすことには、抗い難い魅力を感じている。出来ることならそうしたい。だが、私の味覚への飽くなき探究心は、君の絶望を肥育することを求めているのだ」


 そう言いながら、天使はゆっくりとした動作で手を伸ばし、何かを掴み上げた。

 暗くてよく見えない。が、何か大きなものを持ち上げているのは分かる。

 目を凝らすことを意識が拒絶する。だが、見ない訳にはいかない。

 天使が、高々と、掲げるその手に、持っているのは、


「……う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 血まみれの、珪だった。


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