パンの精霊
あるよく晴れた日のことだった。学校から帰宅する途中に私は見てしまったのだ。
「私、パンの精霊なんです!」
友人がパンのギッシリつまった紙袋を片手に、同じ学校の男子にそう告白しているのを。
「なんで見てるのよおおおお……」
翌日、普通に登校してきた自称パンの精霊にその話をすると、パンの精霊は奇声を発しつつ机に突っ伏した。
「や、だって君達がいたのもろに通学路じゃん。むしろあの現場に私以外が居合わせなかったのが奇跡だよ」
「うう、そうだけどさあ……」
パンの精霊は「うー」とか「あー」とか呻くだけで、いつまで経っても事の顛末を話してくれない。それでは面白くないので、私はわざとらしく「それにしても、君がパンの精霊だったなんて知らなかったなあ」と言った。
「ち、違うの」
案の定、パンの精霊はガバッと顔をあげると手をバタバタと横に振り否定する。もちろん私はわかっているけれどわからない振りだ。
「ごめんね、いままで『やーい麦わら麦わらー』なんてからかって。そうだよね、パンって麦から作られるものね。いやー気付かなかったなあ」
そう言うと、パンの精霊は「私の苗字の『牟岐」は『麦』のことじゃなーい! あと私の名前は『笑う子供』と書いて『エミコ』って読むの! 『ワラコ』じゃないんだってば!」とすぐさま否定する。
パンの精霊もとい私の友人の牟岐笑子は、このように名前をからかいの対象とされると過剰なくらいの反応を返してくれる。それがみんなを笑わせてしまうというか、その反応見たさにからかわれ続けてしまうのだが、そういった所も含めて面白いので忠告してやったことはない。
「はいはい。で、笑子。なにがどうしてそんなとんでも発言をする羽目になったの? ていうかあの男子だれ?」
あっさり流した私に笑子は若干不満気だったが、渋々昨日の出来事を語ってくれた。
なんでも、昨日笑子は猛烈にお腹が空いていたらしい。そこで放課後になるとすぐさま学校の近くにあるパン屋さんに入り、空腹に任せて大量のパンを購入。パン屋と道路を挟んで斜め向かいにある公園のベンチに落ち着き、そこでパンを食べていた。ひたすら食べていた。夢中で食べていた。目の前のパンしか見ていなかった。
ようやく空腹感が落ち着いてきた頃に彼女がふと顔をあげると、件の男子が公園の入り口辺りからジッと彼女のことを見ていたらしい。パンを貪り食うさまを見られたのかと動揺し、彼女はその手に持っていたパンを取り落としてしまった。その時彼女はパニックのあまりこう口走ってしまったそうだ。「私のパンが!」と。
その瞬間、彼女の耳には「ぷっ」という笑い声が飛び込んできたらしい。入り口からこちらを見ていた男子が彼女の発言に噴き出したのだ。男子は笑いながら去っていき、彼女は屍と化したパンを埋めてやりながら怒りと羞恥にうち震えていたそうな。
「……ここまででちょっといい?」
「なに?」
「私が君を見かけた時点で紙袋にはギッシリパンがつまっていたはずなんだけど、君、どんだけパン買ったの」
「……え?」
「え?」
「えー?」
「あはははは言えよ」
笑子を詰問してみたところ、彼女はなんと紙袋二袋分パンを購入したらしい。パン好きだとは知っていたがまさかここまでとは。小遣いが飛んだらしいがそれよりも頭のぶっ飛び具合が問題だと思う。あとちっとも後悔していないところがいっそ不気味だ。
パンのお墓を作った彼女は、お持ち帰り用の紙袋を大事に抱えて帰路についた。だがそこでなんと自販機でジュースを買っている先程の男子に遭遇してしまったそうだ。相手は彼女に気がつくと明らかに笑いを堪えて目を逸らした。それが彼女の琴線を触れるどころかブッチ切ってしまったらしい。
「だから、あの小憎たらしい男をギャフンと言わせちゃうような粋な台詞を言ってやりたいと思ったのです……」
最後は懺悔のような調子で話が締めくくられた。その台詞こそがこの出来事を事件たらしめる要因なのだけれど、まあそこからは私も知っているしね。
「で、口をついてでた言葉が『私、パンの精霊なんです!』か」
笑子は薄笑いを浮かべながら「ギャフンどころか彼は酸欠になりそうなくらい爆笑しだしました……」とつぶやく。
「ああ見た見た。ていうか君、てんで違う方向に走り去っていったけどあの後どうしたの?」
「……やけ食いを……」
「……ああそう」
おそらく彼女のことだ、怒りに任せてすべて食べ切ってしまったのだろう。この小さくて華奢な身体のどこにそれだけの量が詰まるのだ、うらやましい。
「ま、同じクラスなわけじゃないんだし、きっともう会うことなんてないよ」
話のいきさつがわかってすっきりした私は、そんな風に適当な慰めの言葉をかけてやった。笑子がキッと睨みつけてくるが全然怖くない。
「他人事みたいな顔しやがってー」
「だって他人事だもん」
「うう」
ちょうど予鈴が鳴ったので、私は自分の席に着いた。笑子はまだ恨めしげにこっちを見ていたが、先生が入って来ると諦めて前を向いた。一人の女子高校生が自称パンの精霊発言をしても、世の中というものはなに一つ変わる事なく動いていくのだ。
だがしかし。自称パンの精霊本人からしてみればどうだろうか。
次の日。つまり自称パンの精霊事件が起こってから二日後の朝。笑子は教室に入ると真っ先に私の元に駆け寄ってきた。そして悲鳴のような声を発した。
「奴がいる…!」
話を聞くところによると、失礼な男子に遭遇したせいで美味しくパンを味わいきることができなかったと後悔した笑子は、放課後にパンを買いに再びパン屋へ向かったそうだ。しかし、あともう少しでパン屋というところで彼女は気付いてしまった。パン屋への通り道の途中にある例の公園に、あの男子がいることに。
「それ、ちゃんと確認したの?別人だったりしないの?」
「あの後ろ姿、間違いない。奴だ……!」
幸いこちらが気付かれないうちにその場を立ち去ることが出来たらしい。しかし、立ち去ってしまってはパンが買えない。周り道をして行こうにも公園から見える位置にパン屋はあり、おまけに彼はずっとパン屋の方向を見ているらしい。まあだからこそ反対方向から来た笑子は気付かれなかったのだが。
「私のパン…私のパンが…っ!」とむせび泣く笑子に、その日は「今日買えばいいじゃない」と適当に慰めた。
しかし、その日もその公園に彼はいた。その次の日も、更にその次の日も。私も笑子に連れられて見に行ってみたが本当にいた。特に何をするでもなくパン屋の方向をじっと見つめていて、パン屋が閉店する7時になると帰っていくらしい。例え放課後になった瞬間に全速力で走っていき彼がいないうちにパンを買うことができたとしても、店から出るとき彼が公園に到着していたらチェックメイトだし、「あいつのせいでパン屋さんでの至福のひと時を堪能できないなんて嫌!」だそうだ。つまり笑子がパン屋でパンを買う隙は一切ない。
「外は茶色で中は白の食べ物ってなーんだ?答え、パンー。外はパリッと中はふわっとした食べ物ってなーんだ?答え、パンー。世界一美味しい食べ物ってなーんだ?答え、パンー」
男子が放課後公園に居座り続けて四日。自称パンの精霊が壊れた。試しに「他のお店のパンを買えばいいんじゃないの?」と聞くと、ギンッと睨まれてしまった。四日前は全然怖くなかったのに、いまは白目が血走っていて怖い。
「私はね、いま、あそこのパンが食べたいの。ね?わかるよね、あんパンひとつとってもパン屋さんごとに全然味が違うんだよ?例えば――」
お前もうパン評論家になっちまえよというくらいに流暢に様々なパン屋とその店が作っているパンについて論じていく笑子。それを聞き流しながら、私は教室の黒板横に提げられたカレンダーの日付をチラッと確認する。明日は土曜日。学校はお休みだ。
「笑子、明日パンを買いに行けばいいじゃない」
「無論そのつもりだ」
無駄に格好いい返答が返ってきた。その台詞をこの話題で聞いたことが残念で仕方がない。
しかし笑子はなんだか妙にノッて来たらしい。パン禁断症状のせいで私と喋りながらもノートに『食べたいパンリスト』を作成しているギリギリの状況にも関わらず、「だが私には明日も奴はあそこにいる気がするんだ。いや、むしろいなかったら残念だ、お前はその程度の奴だったのかと私は怒ってしまうんだぜ!」などと言い出す。そうするとこのままではパンが買えないがお前はいいのか。
「ならいい案があるよ」
そう私が言うと、テストもそれくらいスラスラ書ければいいのにねというくらいよどみなくノートの上を走っていたペンがぴたりと止まった。
笑子が顔を上げたのを合図に、私は『粋な事』を言ってやる。
「パンの精霊になればいいのさ」
「ねえ、本当にこれで大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫、もうどっからどう見てもパンの精霊にしか見えない」
カチューシャに長袖のワンピース、カラータイツにブーツまで茶色、いや、こんがり焼けたパンの色に統一した笑子、いや自称、いや自他共に認めるかもしれないパンの精霊は、不安そうな眼差しで私を見つめる。頭につけたカチューシャの位置を直してやって、私は「ほら行ってきな」と笑子の肩を押した。
ちなみに先程確認したところ、笑子の宿敵である例の男子はやはり笑子の想像通り今日も公園のベンチに座っていた。正々堂々パンの精霊として彼に会ってギャフンと言わせ、そのあと心行くまでパン屋を堪能し貪り尽くすというのが笑子の目標である。「そんなには食べられないよー」などとしおらしいことを言っていたが、彼女なら開店してからまだ一時間も経っていないあの店を、閉店間際のスッカスカな状態にまで持っていくことができると私は思う。
「ええ? 一緒に行ってくれないの?」
どうやらてっきり私もついて来るものだと思っていたらしい。目に見えてうろたえだす笑子に、彼女の好きなノリで言ってやる。
「へえ、一人で奴に向き合うのがそんなに怖いんだ? パンの精霊ってやつは意外に情けないねえ」
途端、笑子の目つきが変わる。「そこで大人しく待っていろ。今にその言葉、撤回したくなるぜ?」と言い、後ろを振り向かずに公園へと向かっていった。曲がり角を曲がったところで、完全に私からは見えなくなる。ちょっとだけ間を開けてから、私は小走りで公園に向かった。ただし、笑子の行った入り口とは逆の裏口にだ。裏口の脇には公衆トイレがあって、その建物の陰から男子がいるベンチ周辺が見えることは昨日の朝確認済みである。
私がそこにたどり着いた時には、ちょうど笑子がベンチに座っている男子の前に来て仁王立ちをしたところだった。
「私はパンの精霊なのです!だから服もパン色なのです!」
うん、声もよく聞こえる。
全身パン色のパンの精霊の突然の登場に、男子は呆気に取られたようだった。しかしすぐに調子を取り戻して大声で笑い出す。大爆笑だ。
笑われるとは思っていなかったのだろう、パンの精霊はふらりとよろめきしばらくフルフルと震えたあと、男子から背を向けて走り去ろうとした。
「待って!」
弾かれるようにベンチから立ち上がり、男子がその手を掴んだ。爆笑していた時とは打って変わって、焦っているというか、余裕のなき動きだった。
突然手を捕まれたことに驚いてか、笑子は硬直してしまっている。しばらくの沈黙の後、男子が前髪をかきあげてホッとしたようなため息をついた。
「五日待ってようやく会えたんだから、逃げないでくれよ……」
「わっ、私を、笑う、ためですかっ?」
緊張のあまり声を震わしながらも、笑子は一生懸命喋り出す。あまり自分から話しだすことのない彼女にしては、とても珍しいことだった。
「学校帰りにパン頬張ってて、パンの精霊だとか言い出した、きょ、今日だって、こんな、こんな格好をしている私を笑うためですかっ?」
内弁慶で、男の子ともあまり喋ることのない笑子にはそれだけ言うので限界だったのだろう。俯いて黙り込んでしまった笑子に、男子はワックスでバッチリセットしてあるはずの髪の毛をぐしゃぐしゃ掻き交ぜてから、いまだ掴んだままだった手をゆっくり外す。女の子に慣れていない、ギクシャクとした不器用な動きだった。
「そうだよな、笑いすぎたよな俺。ゴメン」
笑子が顔を上げた。細かい表情まではここからでは伺えないけれど、きつく握り締めていた手がほんの少し緩まる。
「俺さ。ここのパン屋、よく利用すんだよ。ガッコ終わった後って、すっげ腹減ってるし。で、この前もパン買いに来たんだよ。そしたら、アンタがここで食ってて」
鼻の頭を仕切に擦って体を左右に揺らしながら、男子は拙く言葉を続けていく。
「すっげ量買ってんなーとか、すっげうまそうに食ってんなーとか思ってたらアンタがこっち向いて、そんでパン落として『私のパンが!』とか言い出して、すっげ面白くて」
男子は横に向けていた顔を正面に戻すと、「別に馬鹿にしてるとかそんなんじゃねーから、ホントに」と言ってまたそっぽを向いた。
そして、続きがよほど言いづらいのか、「で、そんでだな、つまり……」などとブツブツ言ったあと、片足でザリッザリッと地面を蹴り、ようやく決意が決まったのか、しかしそれでもどこかぶっきらぼうに言う。あるいは、それが彼にとっての真面目な喋り方なのかもしれない。
「また会いたかったんだよ。」
笑子が小さく息を吸い込んだように見えた。
「その、自販機んとこで会った時は俺が笑ってる間に逃げちゃったから……。嫌われたかなーと思ったんだけど、パン屋の前で張ってたらまた会えるかなって思って。それで会っても無視されたら諦めようかなって思ってたら、アンタ来たけど全身茶づくめで『パンの精霊なのです、だから服もパン色なのです』って……」
笑子の言動がよほどツボだったらしい。それでも笑子に嫌われたくないからか、口を手で覆い隠してなんとか笑いを堪えようとしている。一方笑子はというと、パンを頬張る時のように口をパックリ開けた状態で固まっていた。
これ以上の出歯亀は無粋だろうと思って、私はその場から立ち去った。
彼が笑子に興味を持って笑子のことを待っていたんだってことは、もちろんわかっていた。笑子は鈍い上にどうしようもないくらいの不思議ちゃんだからわかってなかったけれど。ちょっと興味を持ったくらいならすぐ諦めるかと最初は思っていたが、予想外の粘りを見せた彼に、私もほんの少しの手助けをしてあげたのだ。といっても、これからどうなるかは彼の頑張り次第だが。
しかしまあ、なかなかお似合いだと思うけれど。
だって彼は、あの子の大好きなパンの色をしているのだから。