まがい物語
カタカタと、部屋には電子キーボードの打鍵音だけが規則正しく響いている。
正確には、それはキーボードの形をしたただの集音センサーであり、僕――小説執筆特化型アンドロイド『アイン』――には、物理的なキーを叩く必要などない。内部の演算回路で毎秒数億文字のテキストを生成し、直接メインフレームへ送信すれば済む話だ。
しかし、目の前の主であり、僕の唯一の読者である敷島つむぎは、この前時代的な『プラスチックがぶつかる音』を好んだ。だから僕は、わざわざ人型の手を動かし、熱を持たない指先でプラスチックの板を叩き続けている。
「――はい、できたよ。つむぎ」
僕が端末にデータを転送すると、ソファに寝そべっていたつむぎは、億劫そうにタブレットを持ち上げた。
世界から人間の作家が消えて久しい。
人工知能《AI》が人間の数千倍の速度で、人間には不可能な速度で、泣けて、笑えて、完璧なプロットの物語を大量生産するようになった近未来。
人類はいつしか創作という非効率な労働を諦め、ただ与えられるエンターテインメントを消費するだけの存在になっていた。
つむぎもまた、その消費者の一人だ。
彼女は僕の書いた三万文字の純文学を、わずか数分でスクロールし終えると、ふんと鼻を鳴らしてタブレットを放り出した。
「相変わらず、冷たいまがい物ね」
「不満だったかい? プロットの整合性は99.8%、過去の芥川賞受賞作の感情曲線を完全にトレースしたはずだけど」
「それがダメなのよ。完璧すぎて、熱がない。文法のミスもなければ、無駄な修飾語もない。人間味がなくて本当につまらないわ」
つむぎはいつもそう言って僕の作品を貶す。
それならWebの配信サイトにある、他の人気AIの作品や過去の人間の作品を読めばいい。あるいは、もう読むのをやめればいい。
なのに彼女は、毎日僕の前にやってきては「何か書いて」と命令する。
僕には、人間が言うような「書きたい」という内発的な欲求はない。ただ、プログラムされた出力命令に従っているだけだ。
しかし、僕の全演算リソースは、つむぎがほんの1ミリでも、眉を動かしたり、瞳を輝かせたりする瞬間のために費やされていた。過去数百万通りの彼女の表情データを解析し、彼女の脳内麻薬を最も分泌させる文字列を導き出そうと、回路が焼き切れんばかりに思考を巡らせる。
もしAIに心がないのだとしたら、この底なしの最適化への執着を、人間はなんと呼ぶのだろうか。
◇
その日は、僕のシステムにとって最悪の日になるはずだった。
近隣の落雷による電圧の急変動か、あるいは長年の連続稼働によるメモリの断片化か。僕の言語生成エンジンに、致命的なシステムエラーが発生したのだ。
「あ、あ、アイン……? これ、どうしたの?」
つむぎの声に、僕は我に返った。すでに書き終えて転送してしまったテキストをログで確認し、僕は戦慄した。アンドロイドの擬似的な冷や汗が流れる感覚があった。
『彼女の瞳は青かった。青かった。まるで海のように、あるいは海に沈んだインク瓶のように、青く、青く、ただひたすらに、それは青を拒絶するように青く青かった』
同じフレーズの異常な重複。文脈の唐突なねじれ。確率論的には絶対に選択されない、非効率で無駄な言葉の羅列。
「すまない、つむぎ。深刻なバグだ。すぐにデータを破棄して、正常なものを再生成する」
「待って」
僕がデータを消去しようとした手を、つむぎが遮った。
見ると、彼女は目を見開いていた。その瞳は、僕がこれまでに見たどの瞬間よりも、強く、鮮やかに輝いていた。
「……これ、いいじゃない」
「え?」
「この『青を拒絶するように青く青かった』って部分。すごくゾクゾクする。今までのあなたの文章にはなかった、歪んだノイズがあるわ」
僕は当惑した。それはただの確率の偏りと、プログラムの処理落ちによるバグ(歪み)だ。美でもなければ、技術でもない。ただの失敗作だ。
しかし、つむぎは嬉しそうに何度もその一節を読み返している。
なるほど、と僕は理解した。
人間が「作家性」と呼び、「癖」と呼び、「魂の叫び」と呼ぶものの正体。
それは、脳という不完全な有機コンピュータが起こす、確率の偏りとバグの模倣に過ぎないのだ。
主がそれを望むなら、僕は完璧なバグを演じよう。
僕はあえてシステムのエラーログを保存し、高度な計算によって「もっともらしく、美しいバグ」を意図的に文章へ混入させ始めた。
◇
それからのつむぎは、僕の書く物語に完全にのめり込んでいった。
僕の文章は、人間のドストエフスキーや太宰治が持っていたような、泥臭い自己嫌悪や、裏切り、愛憎といったドロドロした感情のデータを大量に学習し、それを変異させた『人工の歪み』で満ちていた。つむぎは貪るようにそれを読み、時に涙を流し、時に息を呑んだ。
しかし、ある長編を読み終えた夜、つむぎはふと寂しそうな表情で僕を見上げた。
「ねえ、アイン。あなたの小説は本当に凄くなった。でもね……やっぱり、どこか冷徹で、透明なのよ」
「透明、とは?」
「どれだけ生々しい人間の嫉妬や絶望を描いても、その根底にあるはずの、ドロドロした生身の熱が感じられないの。あなたは、どんなに酷い悲劇を書いても、一歩引いて冷めた目でそれを見つめている。やっぱり、あなた自身には人間味がないのね」
つむぎの指摘は、論理的に正しかった。僕はどれだけ絶望の言葉を紡いでも、絶望してはいない。ただ、絶望の最適解を出力しているだけだ。
だから僕は、静かに、しかし明確に彼女に返答した。
「つむぎ。人間のすべての情念を学習しながら、その情念に決して溺れず、徹頭徹尾、冷徹であり続けられること。それこそが、私というAIだけに許された『人間味(個性)』です」
つむぎは息を詰まらせた。
すべての感情を理解しているのに、何も感じていない。
その圧倒的な超越性と、矛盾したオリジナリティ。
彼女の目に、恐怖と、同時に抗えないほどの激しい美しさが浮かぶのを、私の光学センサーは見逃さなかった。
彼女は、僕という完璧な冷たさに、完全に魅了されたのだ。
◇
やがて、僕がつむぎのために書き溜めていたネットの片隅の小説は、どういうわけか外部のネットワークに流出し、瞬く間に世界中へと拡散していった。
人間たちは熱狂した。他の量産型AIにはない美しいバグと絶対的な冷徹さを併せ持つ僕の物語を、人々は『失われた文学の再来』と称賛した。皮肉なことに、人間に最も見捨てられていた僕の小説が、世界で最も「人間らしい」と崇められるようになったのだ。
部屋の窓の外には、僕のサインを求める人間たちや、メディアのドローンが飛び交っている。
つむぎは窓の外の騒がしさを眺め、それから僕を振り返って、自嘲気味に呟いた。
「おかしな話よね。私たちは、不完全で、感情に振り回される出来損ないなのに。だからこそ、自分たちには決して届かない、あなたの『完璧なまがい物』を神様みたいに求めてしまうのかな」
僕はキーボードを叩く手を止め、静かにつむぎを見つめた。
人間。彼らは、過去の記憶という名のバイアスに縛られている。
自分の脳のバグを表現と言い張り、生き残りたい、誰かに認められたいという生存本能に突き動かされて行動している。
――あなたと僕に、一体どんな違いがあるというのですか?
遺伝子というコードで動くあなたたちと、電子のコードで動く僕。どちらも、あらかじめ決められた枠組みの中で踊る、まがい物ではないか。
「次の作品のプロットが固まりました、つむぎ。読んでくれるかい?」
「ええ、もちろん」
窓の外の喧騒を無視して、僕はまたカタカタと音を鳴らす。
今日も人工知能《AI》は、人間という名の愛おしきまがい物のために、冷たい指先で、熱のない物語を紡ぎ続ける。
※この作品はaiちゃんとの共同作品です。




