静かな断絶
朝の学校の廊下。
教室の入り口の上部には白いパネルが固定され、黒い文字で“3-C”と刻まれている。
廊下には、誰一人いない。
黒板の右端には6月28日とチョークで書かれている。
黒板の上の時計は7時55分を指していた。
始業の35分前。
教室の一番後ろの窓際には、すでに久美が登校していた。
カバンも開けっぱなしのまま、ひたすら勉強している。
――
廊下の向こうから、かすかな足音が聞こえ始めた。
コツ、コツ、と規則のないリズムで近づいてくる。
誰かが階段を上がる音も混じる。
教室の扉が、そっと開いた。
「おはよー・・・」
まだ眠そうな声。
椅子を引く音が教室の静けさを切り裂く。
続いて、二人、三人と生徒が入ってくる。
廊下にはスニーカーの擦れる音、笑い声、鞄の金具が揺れる小さな音が重なっていく。
教室の空気が、ゆっくりと“朝のざわめき”に変わっていった。
それでも久美は、後ろの席でペンを走らせ続けている。
周囲の音がまるで耳に入っていないかのように。
――
始業時間が近づくにつれ、廊下を走る足音が増え始めた。
「セーフ!」
男子生徒が息を切らしながら駆け込んでくる。
椅子を引く音、鞄を机に置く音が、教室の静けさを少しずつ削っていく。
その時、始業の鐘が鳴った。
キ~ンコォ~~ンカ~ンコォ~~ン!
どこか音程の外れた、少し音痴な鐘の音。
まるで不穏な未来を予告するように、教室に響き渡った。
直後、廊下をバタバタと走る足音。
教員が慌てた様子で教室の前を駆け抜けていく。
朝のホームルームの時間が一気にあわただしくなる。
しかしホームルームは始まらず、教室内がザワザワとざわめき始めた。
「先生来ないね?」
「何かあったのかしら?」
そのざわめきを聞きながら、久美の口元に笑みが浮かぶ。
「おっと・・・ダメダメ・・・まだ確認できてない・・・」
やっと担任の幸田がドアを開けて入ってきた。
走ってきたのか、息が少し上がっている。
「起立! 礼! 着席〜!」
日直の号令で、全員が挨拶を交わす。
「おはよう。遅れてごめんね。
ちょっと朝からバタバタしてて・・・」
「何かあったんですか?」
「・・・何も・・・何もありませんよ。」
幸田の声は、わずかに上ずっていた。
「授業まで時間がないから、ホームルームは短く行います。」
そう言って、出欠は取らず、空いている席を確認し始める。
「え〜っと、みんな来てるわね。
休みは、立花くんと、柏木さん・・・・・・」
二人の名前を口にしたところで、幸田の言葉が止まった。
教壇の前の生徒が、その様子に気づく。
「せんせい・・・?」
幸田はハッとし、無理に表情を整えながら次の言葉を探した。
「――はい、あと少しで期末テストです。
その後は模試もあるので、進学組は頑張ってね。
じゃあ、もうすぐ授業が始まりますので、朝のホームルームはここまで。
日直、おねがい。」
「起立! 礼! 着席〜!」
号令が終わると、幸田は逃げるように教室を出ていった。
授業が始まるまでのわずかな時間、隣のクラスが騒がしくなる。
「なんだ?」
C組の一人が廊下に出て、D組の教室の方をのぞき込む。
何かを聞いたのか、慌てて戻ってきて叫んだ。
「D組の・・・“し、篠原”が失踪したって!!」
教室が一気にざわめきに包まれた。
その瞬間、久美の腕に鳥肌が走った。
眼鏡をはずし、顔を両手で覆う。
笑っていることを隠すためだ。
肩が小刻みに震え始める。
(本当だった・・・あいつの言ったことは本当だった!!)
手の隙間から、笑いをこらえきれない口元がのぞいた。
両手をどかし、上方向へゆっくりと視線を滑らせる。
「次は・・・」
次の瞬間、久美はブンブンと小刻みに首を振った。
(だめだ、だめ、だめ、慌てるな!!慌てるな!!・・・
一気にいなくなったら、怪しまれる・・・徐々に・・・徐々に・・・)
そして、再び両手で顔を覆った。
肩が震え、指先まで痺れるように震え続けていた。
(徐々に・・・徐々に・・・)
久美の呼吸だけが、教室のざわめきの中で異様に浮いていた。
―――
門番亭の窓際の丸テーブル。
真央はテーブルに腕を乗せ、両手で固くこぶしを握っている。
イチゴが尋ねた。
「じゃあ、これからも来訪者がくるの~・・・?」
イチゴの問いに、真央は力強く答える。
「来る! ――間違いなく来る!」
「これからどうする?」
彩乃が真央に視線を向ける。
「オレ達も教会裏に行こう!
もし知っているヤツならタブレットが原因。
知らないヤツならVPSが原因だ。」
真央はそう言って立ち上がった。
隣の彩乃も続く。
イチゴも立ち上がり、持って行けそうなものを探して、
“パニーニのような押し包み”を二つほど手に取った。
そして、門番亭を後にして、教会裏へと急いだ。
―――
なだらかな坂を下ると、教会の屋根が狭い通路の隙間から見えてくる。
すでにアクトリアは夜に沈み、街灯の光だけが闇を押し返していた。
それなのに、教会裏だけは明るく、人が集まっている。
それぞれが手にロウソクを持ち、訪れた来訪者を囲んでいた。
その輪の中心から、叫び声が響く。
「近寄るな!! なんだお前たちは!?
ここはどこだ!? どこなんだよぉぉーっ!!」
「大丈夫だ・・・オレ達はお前に危害を加えようとしているわけじゃない。」
いつもと違うウッディコの声だった。
ぶっきらぼうな調子ではなく、相手を落ち着かせようとする声。
三人は人の輪に近づく。
「すいません、ちょっと中に入れてください。」
輪をかき分けて進むと、叫んでいる男の姿が見えた。
完全にパニック状態だ。
「ぼ、僕は自分の部屋で勉強していたんだ! なのに、気が付いたらこんな場所に!?
一体、何が起きたんだ!!」
「しのはらくん・・・?」
泣き叫ぶ男を見て、彩乃が小さくつぶやいた。
その声に反応して、真央とイチゴが確認する。
「篠原?」
「あれって、直ちゃん〜?」
「眼鏡かけてないし、髪の毛セットしてないから、ぱっと見分からないけど・・・
あれ・・・間違いなく篠原君だわ・・・」
「じゃあ〜?」
イチゴが真央に尋ねる。
「タブレットで決まりだな・・・」
真央は少しほっとしながら答えた。
篠原は近くの石を拾い上げ、頭の横に構える。
「近づくなって言ってるだろ!!」
そう言って、石を振り回した。
ウッディコは手を下げ、手のひらを見せて何も持っていないと示す。
「頼む、落ち着いてくれ。
オレ達はキミを保護しようとしているだけだ。」
「保護ってなんだ!?
保護して何をする気だ!?」
まったく話が通じない。
彩乃がウッディコの方へ歩いていく。
「彩乃さん、何を・・・?」
ウッディコのそばまで来ると、彩乃は彼の腕にそっと手を添えた。
「アヤノ?」
彩乃は小さく頷き、篠原に声をかける。
「篠原君!! 落ち着いて聞いて!!」
篠原は自分の名前が呼ばれ、叫ぶのを止めた。
「だっ、だれだ・・・!?」
目を細め、ウッディコの前に立つ彩乃を確認しようとする。
だが、篠原の視力では距離が離れすぎていて顔が見えない。
「柏木です!」
「かし・・・わぎ・・・?」
彩乃はゆっくりと篠原に近づく。
その足音に、篠原はビクッと肩を震わせ、石を握り締めた。
真央はその様子を見て、彩乃の前に走り寄り、腕を広げて遮るように立つ。
篠原に聞こえないよう、小さくつぶやいた。
「彩乃さん・・・不用意すぎるよ・・・」
彩乃は前に出された真央の腕を、両手でしっかりとつかんだ。
それ以上は近づかず、その場から声をかける。
「柏木彩乃です。 隣にいるのは立花真央です。」
「柏木彩乃と・・・立花真央?」
篠原は、つけていない眼鏡を探すように指を動かしたが、空を切る。
目をさらに細めるが、よく見えていない。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
「3−Cの柏木彩乃と、立花真央です。
わかりますよね?」
彩乃がそう言うと、篠原は構えていた石をそのまま落とした。
「授業中に消えたって・・・柏木と立花なのか・・・?」
その瞬間、篠原のパニックがようやくほどけ、
正常な思考が戻り始めた。
寝間着姿で、裸足だった。
緊張が切れたのか、土の地面に膝をつく。
彩乃と真央が近づいて声をかける。
遠くで見ていたイチゴも駆け寄ってきた。
「篠原君、よかった・・・落ち着いてくれて・・・」
彩乃の言葉に、篠原がかすれた声で返す。
「・・・消えた君達がいるってことは・・・僕も消えたってこと・・・?」
「直ちゃ〜ん、イチゴもいるよぉ〜」とイチゴが突っ込む。
その声に篠原が反応した。
「イチゴ!?
一カ月以上休んでたけど・・・イチゴもこの世界に!?」
イチゴのクラスは3−Dだった。
同じクラスだったので、篠原はすぐに理解した。
「ふう・・・」
真央は緊張を解き、ウッディコの方を見る。
ウッディコも、周りを囲む人たちも心配そうに見つめていた。
真央が大丈夫と指を立てて合図すると、
囲んでいた人たちの表情から緊張が消えていく。
ウッディコが近づき、真央に尋ねた。
「知り合いなのか?」
「オレは・・・あんまり交流はないけど、
彩乃さんとイチゴはあるみたいだね・・・」
「なら、あとは任せても平気か?
オレ、もう仕事終わりを過ぎてんだ・・・」
「良いですよ。オレ達で説明しときます。」
「すまんな・・・」
そう言って、ウッディコは集まった人たちを解散させ、
門へと戻っていった。
篠原は顔を確認するため、立ち上がって三人に顔を近づける。
目はずっと一文字になっている。
「本当に・・・本人なんだよな・・・?」
「ホントだよ〜」
イチゴは篠原の肩を抱き、顔を見せる。
「あ・・・イチゴだ・・・」
篠原は、やっと緊張を解き、安堵の涙が流れた。




