添付資料
白水修一が「小説を愛した男の物語」を書くに当たり参照した自作の随筆三作品。
作品①=随筆愛好会題名「春の花」
今年の春、生まれて初めてモッコウ(木香)バラというきれいな花に触れた。うす黄色味のたくさんの花びらに指で触ってみたのである。
親しみを感じさせる優しそうな小粒な花の群れに触ってみたくなったのである。群れ咲く花たちのなかに指を差し込み触れたとき、その優しい肌さわりに感動した。
大げさに言えば、その出来事は定年後のわたしの人生にもっとも優しい気持に導いてくれたものである。
抱擁するような暖かさを有する柔らかな魅力を秘めた感触を持つ、その花びらの群れに触れ、わたしには想いも掛けない新鮮な心情を得る出来事であった。
ビジネスマンとしての現役時代、心の動揺や揺らめきが激しい三十五年間の生き様を体験し過ごして来た。その後、突然に訪れた静謐な時間。
そして、十数年間も自由気侭な暮らしをしている。いまのような日常生活のなかで、心の襞が硬くなっていることに気付くことは難しい。
誰からも叱られないし、叱ったこともない。文句のひとつも言われない。関心を示してくれないという訳ではない。
心の内に入って来てくれないのである。機会あるたびに顔を合わせる人らは、だれも重たいというか深刻な事柄の話題に互いに触れようとしない。
この十数年間、親しげななかにあるのは、表面的な語らいだけである。否、語らいと呼べるものさえ無かった。単に傷つかない言辞を繫なげているだけではなかったか。
魂の叫びや歓喜。心底からの充足。心の充実感。
これらの事象が職業を持っていた時にはよく起きていた。それには夢中になれる課題があり続けたから。
また議論が伯仲することや、挙げ句の果てに口論になるという体験を積み重ねることにより、心に少なからずキズを負っていたからだったと思うのである。
そのように心に大なり小なりのストレスを抱える出来事が有ったからこそだと思う。
すなわち心の内に浮き沈みというか、喜怒哀楽のできごとを重ねることが、心に良い意味での襞を作っていたのではないか。すなわち、心の襞と称しているものは喜怒哀楽という感覚の感受性に他ならない。
「人はパンのみに生きるに有らざる」と欧米人は言う。このような欧米人のことわざが心に染みる暮らしを長年続けている。
だから昔は深く有ったはずである心の襞の溝。その溝が浅くなったようである。それゆえに、優しいとか柔らかいと感じる感覚も鈍って来ているのだと思う。
モッコウバラのとても柔らかい優しい感触の無数の花びらに触れたときに閃いたのである「わたしは真剣に生きているのだろうか」という想いが。その瞬間、虚しさに満たされた。
人が充実したままの生き方で一生を終えることの難しさ。年老いても、ときどき喜怒哀楽の事象を強く感じる暮らしも要るのだろう。
それでも横浜の春の訪れは素晴らしい。街の通りには色とりどりの並木が植えられ、美しい景観を呈している。
さらに連なる家々の垣根や庭には、春の訪れとともにきれいな花が咲き誇る。街中を散策することが実に楽しい。
冷たい空気が薄れ、白梅、紅梅が和む気候の到来を告げる。まだ肌寒いなかにも艶気を感じさせる桃や椿の花が春の彼岸の季節だと知らせる。
木蓮とレンギョウの花が初々しい薫りのよい白い花を開く。早咲きの彼岸桜や河津桜にはじまり、染井吉野桜、そして八重桜と桜の花はみんなの目を楽しませる。
桜の花は日本人の心である。黄色、水色、青紫色の三色スミレは春の花壇の女王である。
アメリカが我が国にプレゼントしたハナミズキは、アメリカ人の魂よりも日本人の侘と寂の心を理解している花である。
つつじの花は庭を飾るに相応しい美しさと優雅さを見せる。世界中で愛されるバラは日本でも花の王様のようであり、横浜でも庭々を飾る。
立てばしゃくやくという芍薬の花は、群れて咲けば豪華絢爛の様を示す。まだ肌寒い春の訪れから汗ばむ暑さが気になる季節の間、これらの花々は街を行き交う人々の目を潤し楽しませてくれる。
このように横浜の街のなかにおいて、春の季節に咲く花は素晴らしい。果たして来年の春は如何なる気持で暮らしているだろうか。心の中の襞、感受性を増すように、この一年、広く深く精進する暮らしに努めようと思う。
(2019年6月)
作品⓶=東京の歴史を巡る会の記念誌に寄せて
江戸東京の歴史を皆さんと訪ね歩き十七年が経ちました。当会を長く支援してくださっている方々へ感謝申し上げます。
巡る会を始めた契機は、四十五歳研修を受けた折に、木村尚三郎東大教授からの「会社の幹部として頑張っておられる皆さん、人生は七十を超えて生きる時代。
充実した真の人生を生き抜いていくには、四十代、五十代に仕事と関係ないところで、自分に合ったものは何かを見詰め直し、まとめてみることが肝要。そ
れが定年後生きていく上で役立つ。それに向かった基盤を積む時間を取ることも大切」という趣旨のアドバイス。
教授の仰せ通りと同感。自分に合う事柄はないだろうかと探している折、八重洲ブックセンターの書物の中から「東京都の歴史散歩」と邂逅。
読み進む内に、江戸時代や明治、昭和の東京の文化や歴史上の人物の足跡に触れたいとの志向が募りました。
独りで歩いてもつまらないと考え、或る宴会で「浅草界隈の古いものを見に行きます。希望される方は雷門に集合してください」と呼び掛けました。
参加されたのがAさん、Bさん、Ⅽさんでした。それから毎年一度、私が参考文献を頼りに巡るプランを練り、神田、浅草、日比谷、銀座、神楽坂、深川、渋谷、上野、向島など一日掛けて巡って来ました。
当初から長い期間、当会の巡る行動様式は、
①江戸東京の歴史的な史跡や建物、古い文化、歴史上の人物の足跡、また下街人情に触れること
②コース内に点在する美術館を巡り、日本画や西洋画の芸術品を鑑賞し、鋭い感性を磨き、自分と向かい合う時間を作ること。
あるいは江戸時代以降の名庭園を巡り、自然美を堪能し、仕事で疲れた気持ちを和らげること
③美味しいグルメな食事を味わいながら、共に歩いた仲間と楽しく懇談すること
以上の三点を行動の基本としておりました。
十七年も経過すると、東京の町々もすっかり様変わり。
最も数多く愛好した日本画の山種美術館も金融不況で山種ビルが無くなり、2フロアーの広々とした居心地の良い空間も今はなく、屏風六枚程もある東山魁夷が描いた大作海も見ることが叶わなくなりました。
この美術館や出光美術館は、集合場所として幾度も利用し、芸術観賞に浸ったもの。
逆にこの間六本木の町に、六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、新国立美術館などの新名所が次々と誕生。
その後、歴史的記念碑は整備され、銅像などの新たな設置も増えました。書店には、この種ガイドブックが急増し、今、東京散歩が流行しております。
案内した中で、最も人気が有ったのは、富岡八幡宮(大相撲発祥の地)から始まり、深川不動尊、芭蕉採茶庵跡(芭蕉が奥の細道へ旅立った場所)、芭蕉記念館、清澄庭園、深川江戸資料会館(江戸の町を実寸大再現)、隅田川、永代橋、清洲橋、赤穂浪士討ち入り跡、勝海舟誕生の地、最後にちゃんこ鍋料理。
このコースは色な面から江戸・明治の文化、歴史を彷彿させる館、資料、記念碑が豊富。また建物が沢山存在していることも特徴で、ご家族などとのお勧めコース。
品証時代、販社生抜き幹部には、ユニークな人材が多数。そのひとり名古屋所長Aさんは論語と歴史が好きなことで有名。
客との厳しいクレーム対応後、反省会の酒盛りをよく行ないました。Aさんは昼間無口だが、お酒の酔いがまわると鋭い舌鋒が止まらない方でした。
「もっと説得上手になれ」「君は将来どこかの市議会議員がいいところだな」とか、若手には「君は目が死んでいて駄目だな」などと辛辣でした。
そのAさんが私に執拗に薦めた本が、司馬遼太郎が幕末の長岡藩河井継之助の活躍を描いた峠でした。
それまで時代小説を小馬鹿にしており、遼太郎の書いた本は読んだことがありませんでした。
会う度に幾度も勧められるので、暇をみつけ読んでみました。峠に描かれている河井継之助と、小説の合間に登場する司馬氏の人物観・歴史観の記述が、私の知的レベルを共振させました。
直ぐに「龍馬がゆく・世に棲む日々・花神・燃えよ剣」などを次々と読み耽り、すっかり司馬遼太郎のファンとなりました。
登場する人物像が頭の中に出来上がり、その足跡を尋ねてみたい気持ちが、四十五歳前に強まって来ておりました。
勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎、伊藤博文、西郷隆盛、坂本龍馬などの歴史上の人物像は、これら小説から創られていったものでした。
心に渦巻いていた、彼らが活躍した足跡を辿ってみたいという沸沸とした気持と、東京都の歴史散歩の本との出会いとが重畳され、会を起こし、巡る行動計画を作るエネルギーの源泉でした。
作品③=色即是空について随筆
〈涙が流れ出す〉
静寂に包まれた七畳間。地方都市の或る間借り部屋。
壁は薄汚れ、まだら模様の斑点が心を暗くする眺めだった。昭和時代の大学四年生十二月の出来事。大晦日が迫り来る寒い夜。冬休み前に同居友人が帰郷。
私はひとり部屋に残されていた。ひとり人間の価値や人生について、将来の生き方に関し悩み不安を抱きどう生きるべきか、読書と思索に耽る暮らしを十日程続け悶々と生きていた。
街の灯かりも段々と消え薄暗い裸電球の下、炬燵での読書に疲れて立ち上がり思索を続けていた。その時、驚くことに突然涙が静かに流れ出た。
涙は止まることを知らず、次々両目から溢れ出て頬を濡らした。行き場を失った涙は換えられたことのない古畳の上に落下。
悲しい出来事が有った分けではなく、生き方について考察する書物を幾冊も読み、思考と思索を懸命に続けている最中だった。
静かに涙が頬を濡らし続け、涙も枯れるほどに時間が経過し段々と身体が温かくなってきた。その様な時、一瞬に閃きが起きた。
人間、悲しみも悲哀感も考え方一つで、楽しい事柄に変わるということを。自分が不幸と思う故に幸福感が得られないということを。
この様なひらめきと考え方が、ほんの一瞬の間に身体に湧いて出て来た。不思議で奇妙な体験であった。人間の幸福感は、考え方次第ということに気付いた瞬間であった。
体験を経て変化が生じた。幼い頃からの臆病さが消えた。肝が据わるというか、世の中怖いものが無い精神状態になった。
学校の泊り夜警員を友人の代理として、時々行っていたが、真夜中巡回の際、人体モデルのある理科室の廊下を、懐中電灯点けて歩くと恐怖感が追い駆けて来ていた。しかし体験後恐怖感を全く感じなくなった。
暗い廊下をゆったりと点検して歩ける人間へと変貌して居た。高度経済成長が始まり室見川上流の田圃の中に小学校が出来ていた。
田畑に囲まれ、深夜暗闇と静寂が学校を覆った。その暗闇が怖く、気弱な精神が私を支配し続けていた。
〈三年生からの間借り生活〉
三年次から、法学部生の友人と二人で間借り生活を送っていた。古い家が軒を連ね、館も全体が軋み階段はミシミシ音を立てて階段を上った。
部屋は修復の手が入らず、純白仕上げの壁は染みで汚れ、窓は隙間があり雪が降ると布団に積もった。机と本箱だけの殺風景な部屋だった。
生活も耐乏を極め食べることが精一杯だった。月に一度土曜日。街へ卓球に行き、赤ちょうちんでカップ酒を飲み、憂さを晴らす貧乏な暮らしだった。
ただ間借り部屋における学問への取り組みは凄かった。日曜日から金曜日までは、二人とも夜七時から十二時過ぎまで毎晩真剣に学問に取り組んだ。
涙を流す出来事が起きた十二月半ば同室の友人が帰省。私はひとり間借り部屋に残された。大晦日までひとり読書と思索に耽る生活を送っていた。
工学部生だったので冬休みが始まるまで時々講義があった。キャンパスで友人に会う以外誰も訪れて来ない部屋で孤独に耐え、ラーメンだけという食生活をしながら、
読書と思索に耽る生活を二週間続けていた状況の中、涙が突然自然に流れ出ると言う出来事が起きたのであった。
〈その時の背景〉
当時芥川龍之介、森鴎外、太宰治、ゲーテ、サルトル等多くの著作家が書いた小説や随筆を数多く読み漁っていた。
中でも記憶に残り影響を受けたのは、オスカー・ワイルド「獄中記」、ドフトエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、柴田翔「されど我らが日々」、椎名麟三「永遠なる序章」、
福田恒存「人間この劇的なるもの」「芸術とはなにか」等だった。またサルトル、ヘーゲル、パスカル、ニイチェ、キルケゴールなどの哲学書を、赤線を引きながら幾度も読んだ。
今思うとよくぞこの様な硬い観念的な、かつ目を通すだけでも心が暗くなる内容の書物を数多く精読していた。
読んでは人間と人生について考察し、自分の置かれている境遇について思索、ノートに要点を書き連ねる毎日であった。
この十二月同居友人の送別会を催しお金が底を突き、毎日食べることにも苦労。
友人宅を訪問し夕飯をご馳走になり飢えを凌いでいたが、大半は三度の食事を、母が送ってくれた農協ラーメンをポットで湯がき食べ、日々の空腹を満たす暮らしだった。
ラーメンの味は不味く咽喉を通すのが大変だった。最終講義の日、アルバイト代が手に入り、学生食堂にて友人と久し振りに白米のランチ定食を取った。
日頃は不味いと文句を言っていた白米御飯を見て先ず咽喉がゴロゴロと鳴った。生唾が自然と出て来て口中に広がった。
白米御飯を一口食べた時に感じた美味しさと言ったら何物にも変え難いものであった。あの驚きの感動体験は今でも鮮明に覚えている程の耐乏生活を経験している時でもあった。
〈色即是空の理解〉
この涙を流すという現象を体験した時に気付いた重要なことは、人間は己の意識の持ち方で、一つの事柄を、幸福とも不幸とも、喜びにも怒りにも、哀しみにも楽しみにも、如何様にも捉えることが出来るということだった。
あの時は突然に、何故か何処からともなく、その様な考えが突然ひらめき湧いて出て来た。色即是空・空即是色。この語句は、私が五十歳にして少しは理解した般若心経の本質な一説である。
色な解釈がなされているが、一つに「いま目に見えている現象は心の持ち方で見え方が変わるものである」という教えがある。
今から思えば、私が二十二歳の冬休みに体験した閃きは、色即是空・空即是色という有名な般若心経の概念を悟った内容と一様の出来事だと言うことに五十歳になって気付いた。
〈大肯定人生の起点筑豊の子供を守る会>
涙を流す出来事の三年前。私は大学二年生になって直ぐに人生に悩み迷い、縁有って聖書研究部へ入部。Ⅿ部長から「筑豊の子供を守る会」という社会改革運動をやってみないかと誘われ活動を始めた。
会は筑豊の閉山炭鉱の炭住街に建つ公民館を借り、夏休みと春休みを利用し、二週間合宿生活を市内の九州大、西南学院大、福岡女子大、福岡大、福岡女学院大などの大学のYM(W)CAに所属する有志学生四十名程が交替しながら行なっていた。
閉山炭住に住む子供たちに勉強を教え、共に遊びながら生活指導をして上げ、非行へ走らない様に守ってあげる内容であった。
公民館へ勉強しに来る子供たちの家庭を訪問し、親達と対話し交流も図った。毎回活動期を終え帰宅すると交わった子供たちから感謝の言葉が記してある多くの手紙を受け取った。
戦後日本の重工業復興に大きく寄与した石炭エネルギー。石炭が昭和三十年代から始まった石油へ転換するエネルギー政策により衰退。
筑豊炭田に在った246の炭鉱数は、一〇年後の昭和40年には50まで急激に減少し多くの炭鉱は閉山。戦後繁栄した筑豊は、4万人規模の失業者が狭い地域に溢れ、貧困と閉鎖された町へと変貌していた。
筑豊の子供を守る会員が交替で十名程のキャラバン隊を編成し活動した。どうしたら貧困と非行から少年少女を守れるかを真剣に討論し実践した。
会は八年近く継続されている伝統ある組織だった。東京、関西、福岡の三拠点のYM(W)CAに所属するキリスト教を信仰・研究する男女学生から構成される全国規模の組織体だった。
私たち九州グループは、夏休みと春休みに筑豊地域でキャラバン活動を行ない、合間に福岡にて問題解決に向けた研究会を開き、子供たちを如何に貧困と非行から守れるかを熱心に議論した。
今思えば当然のことだが、実態は一向に改善が進まないでいた。私が三年生の春季、福岡市の研究会にて、この活動では改革は難しい限界だという意見が主流を占める雰囲気だった。
五月に役員改選があり、友人の強い推薦により私が福岡地区委員長に任命された。私は張り切り、リーダーとしての使命感を持ち夏休みのキャラバン活動に一生懸命に取り組んだ。
二週間に及ぶキャラバン活動は活発裏に終わった。毎夜、反省会では激論が続いた。隊内は段々と沈痛な雰囲気が漂い始めていた。活動期間の中日、直方市柳屋旅館大広間。
全国からキャラバン活動のために、筑豊に集結している東京、関西、福岡の三地域の学生代表五十名ほどが会議に集合。使命感に燃える顔、悲壮感を漂わせる顔、不安そうな顔と幾つもの顔があった。
会議では筑豊の子供を守る会の活動を継続するか否かで激論が交わされて活動の終焉も致し方ないという方向性が示された。このメイン会議の司会を地元地区の委員長という理由から私が担当した。
東京や関西から参加した東京神学大、青山学院大、ICU、明治学院大、東京女子大、京都大、関西学院大などの学生達は、九州地区の学生と違い、一段高い知識と鋭い弁論術で捲くし立て議論をリードした。
今考えれば、神学、文学、法学、経済学、社会学等の文科系と呼ばれる学部の真摯な学生達が大半を超えるメンバーたちのフリー討議会の司会を工学部生である私が務めることは至難の技だった。
難解な意見を長々と、次から次に述べる会員たちの意見を、司会者として方向性を見極め意見集約する作業に四苦八苦し、額から脂汗を流し苦悩し苦心していた。
この時の司会役の一瞬の苦悩と苦痛の実体験が、私の魂へ心底から真剣に学問に取り組めと命じた。真の実力を養う必要があると心構えを変革してくれた契機の場であった。
〈自己確立への道〉
キャラバン合宿最後の夜。九州地域のS氏などの先輩OB達が、継続か否かを全体討議するため私たちの合宿所へ集った。夕食後に始まった全員会議は、延々と明け方まで討議が及び、最後は全員が疲れ果て、その場に男女入り乱れて雑魚寝して朝を迎えた。
導き出された結論は、これ以上活動を続けても我らが学生の力では現地の諸問題の改革は無理というもので解散やむなしというものだった。
私達学生は、自分の大学キャンパスへ戻り、一生懸命に学問に取り組み、自己確立を図り、優秀な社会人に成ること目指すべきだという結論で締め括られた。
それを基盤とし立派な社会人に成長した暁に改めて社会改革へ取り組んで行くべきだということを確認しあった。
皆が成人した後、筑豊出身の子らと結婚することが、ひとりでも多く筑豊の子供たちを救う道に繋がるという、会のOBであり東京から筑豊へ移り住んでおられた犬養牧師の持論も紹介された。
キリスト教の信仰と研究という連帯感で結ばれた若い学生仲間達。
キリスト教のヒューマニズムと奉仕の精神で以って、この活動に一生懸命に使命感に燃え、長い間改革に取り組んでいた私達は、皆が一様に挫折感と虚無感を味わった。
大きな挫折と信念に基づく活動が否定された現実に、私も自信消失した。そして挫折と自己否定を源泉とし、YMCAの読書研究会等を舞台に、各人が新たなる生きる道の模索と探究が始まったのである。
それからは尚一層真摯な態度で心底から学問へ取り組み始めた。
工学部生であった私の人生に取り、数多くの優秀かつ真面目な文化系の学生諸氏と自己形成期の三年間色な交流が出来たことは、振り返って見ると大いなる財産であった。
親から「勉強しなさい」と言われる状況と、この様に自らの意志で以って学問へ取組む心情とのエネルギー量の違いを、身を持って実感した。
真摯に人間や人生について思索を続け、自己変革を幾度も辿りながら、一年と三カ月後に涙が流れ出す出来事に結び付き、かつ閃きと気付いていなかった考え方が突然湧き出るという奇妙な体験に遭遇したのである。
<後書き>
芸術・文学懇談会の開催が決まり、本小説を書き始めて五か月。
出来上がってみると、当初にイメージした内容と大きく違ったものとなった。
理由は、芥川龍之介にしても太宰治にしても、さらに学生時代に学んだ文学全体から受けた良い面と悪い面の影響や、文学からの効能を、文章や小説を読むことによる大江健三郎が述べている力量が養われる効果を、作者自身が理解せずに来ていたことにある。
書くに従っていく内に、幾度も読み返すたびに、数々の気付きの現象が生じたために追記する作業を繰り返した。
結果的にこの様な短編小説の形式になった次第である。
私の場合、文学は趣味の域を超え、生きるいしずえの一つの能力に昇華していたと実感した。




