第2話 赤い傘の女
しとしとと降り続く雨は、熱帯夜のように、夜の街を薄く燻らせていた。
赤坂の居酒屋の暖簾をくぐると、大郷を呼び出した張本人である伊香は、掘り炬燵席でビールに口をつけようとしたところだった。
「先生、遅い。
今日は私の愚痴、たっぷり聞いてもらいますからね」
濡れ鼠で息を切らした大郷を見ても、伊香の声は刺々しい。今日は相当溜まっているらしい。
(めんどうだな……)
大郷は内心うんざりしつつ、伊香の対面に座った。
それから小一時間、伊香の言葉は止まらなかった。上司の理不尽な物言い、同僚の怠慢、取引先の無茶ぶり。
大郷は適当に相槌を挟みつつ、ウーロン茶を傾けながら時間をやり過ごす。
うんざりしつつ、料理の追加を頼もうと、廊下側を見遣った時、見覚えのある巨体が、厠から戻ってくるところが目に入った。
「あら、あんたたちもここに来てたの?」
正田のババァ――
大郷と伊香は、苦虫を噛み潰したような表情を一瞬浮かばせるが、持ち前の社会人スキルですぐ取り繕う。
正田は、大郷が以前勤めていた印刷会社の元上司であり、伊香にとっては現上司である。
少女趣味で散財好き、職場でも仕事をせずに部下への無茶ぶりや無駄話ばかりしている。そのくせ部下たちにはしっかり成果を求めてくる。
――要するに、とても厄介な人間だった。
以前、正田と居合わせた嘉本などは、アースクエイク(往年の名作格闘ゲーム「サムライスピリッツ」に登場するキャラクターだ。)と、非常に失礼な称号を献上したものだ。
もちろん裏で。
偶然同じ店に居合わせたらしい。
「……奇遇ですねぇ、こちらには良く来るんですかぁ?」
伊香が愛想笑いを浮かべる。
「そうなのよぉ。ほら家に近いし、美味しいでしょここ♡」
アースクエイクは片目を不気味に瞬かせながら、大郷の隣の席に腰を下ろす。
大郷と伊香は心の中で、「この店はもう使わないでおこう」とため息をついた。
「そういえば、あんたたち怪談が好きだったわよね。雨の日にぴったりな話をしてあげようかしら。」
話によれば、最近若者の間で、「赤い傘の女」という噂が流行っているらしい。
今日のような雨の日に、赤い傘を差した女がじっと立ち尽くしているのを見た――というのだ。
小中学生にも目撃談が増え、最近では保護者用連絡アプリに「不審者情報」として流れたらしい。
大人が見かけた例もあるようだが、声を掛けた人間はおらず、前髪で隠れてたらしい顔を近づいてまで見た者もいない。
「前の土砂降りの日、市道が冠水したでしょ。
ある学生がね、こんな日にもあの女は立ってるのかと面白半分で見に行ったらしいの。
そしたら……いたらしいわ」
水嵩のあがった道縁に、微動だにせず、ただ赤い傘を差していたという。
異様な佇まいに気圧され、一度は見て見ぬふりで通り過ぎた学生だったが、10分もしないうちにやはり心配になり引き返した。
その頃には、女はもう消えていたとの話だ。
話を聞き終え、伊香は、すぐにスマホを取り出して検索を始めた。
正田は話終えて満足し、酔いが大分回ったせいか、眠そう瞼を擦っている。
「赤い傘の女、と……
へえ、インプレ1000超えてますね」
言いつつ、大郷に見せるようスマホ画面を差し出してくる。
画面には現場らしい写真などが並んでおり、「赤い傘の女」のタグ付きで拡散されていた。
「少し見せてくれるか」
「……変な操作しないでくださいよ」
伊香からスマホを受け取った大郷は、タグで検出された書き込みを、順を追って眺める。
ふと、フリック操作の指が止まる。
「なにか気になることでもありました?」
「これ……赤い傘の女についての、おそらく最初の書き込みだ」
伊香が、目を丸くしつつ、テーブルにもたれかかるような体勢で画面を注視した。
「先月の書き込みですね…赤い傘の女を見た、なんか怖いんだけど、って書いてます」
大郷が鷹揚にうなずく。
「SNSには疎いんだが……この書き込みへのインプレッションは10件もない。
それなのに、翌日以降から複数人が赤い傘の女について書き込むようになり、一月も経たないうちに現状に至っている。
情報拡散が早すぎないか?」
「たしかに……
気にする人はいるでしょうけど、ローカルな心霊ネタなんてバズる内容じゃないですし」
「…ゴースト・トレインマン、かもな」
大郷がぽつりとつぶやいた。
「なんですそれ」
伊香が眉をひそめる。
「1970年代のニュージーランドで、鉄道線路沿いに白いローブと仮面を着けた怪人が、夜な夜な人々を驚かせるという事件があった。
当時は新聞にも取り上げられ、地元住民の不安と好奇心を大いに煽ったらしいが、結局は地元劇団員が幽霊を演じたもので、都市伝説を作ろうして行われたパフォーマンスだったらしい。」
「また、19世紀のロンドンには、夜な夜な白い作業服を着ていたハーマンスミスという男の姿が幽霊と誤認され、幽霊退治をしようとした住民によって通行人が撃ち殺されるという悲劇も起こっている」
酔いで回りにくくなった頭をなんとか動かしながら、伊香は話の流れを整理しようとする。
アースクエイクはすでに夢の中だ。
「つまり……これって」
「……人は好奇であれ、恐怖であれ、見たいものを見る。幽霊と思えば、ただの赤い傘を差した人物を不気味な存在に思ってしまう。
エクスペクタンス効果とも言うな」
詰まらなそうにスマホを返しながら、大郷は言った。
「まあ、あまり考えすぎないことだ」
店を出るころには雨は上がっていた。
2人は酔いつぶれたアースクエイクをタクシーに押し込み、そのテールランプが夜の住宅街に消えるのを見送る。
一応、伊香に送り届けるよう言ったが、真顔で「無理」と突っぱねられ、大郷はタクシー運転手に頭を下げる道を選んだのだ。
「……分かってしまったら存外つまらないもんですね」
伊香は、濡れたアスファルトを蹴るように歩き出した。
期待を裏切られると落胆する、落胆し興味を失ってしまうと、人はこうも無関心になるのだな、と大郷は思う。
雨の止んだ街。
喧騒は都会の孤独感を際立たせるようだった。
数日後、ニュースが入った。
雨の日に、食品配達業者の自動二輪が、件の道路で転倒事故を起こしたのだ。
幸いにして運転者は軽傷だったが、現場検証をする中で、運転者が「赤い傘の女」を見て運転を誤ったと証言した。
その報道の後、すぐに〇〇大学の演劇サークルに所属する学生から、件の赤い傘の女の騒動が自作自演であったことが告白された。
事故を知り、自責の念に駆られた学生たちが自首をしたのだという。
その後、事件はSNSとテレビ報道によって拡散され、サークルは炎上し、大学側が謝罪する事態にまで至った。
「知ってます?例の事件の後日談。
あの後、事件の日に赤い傘の女を演じた人物を特定しようとしたんですけど、誰も名乗り出なかったらしいです」
それは…そうだろう。
これ以上事件の加害者扱いが強まるのは誰でも避けたい。
「あとですね、あの後もまだ…たまに目撃例があるみたいです」
伊香は、昔欲しかった玩具が、数年後の店頭でセールされているのを見るかのような、戸惑う瞳のまま、ビール瓶を傾ける。
「だから言ったろ。虚構は時に現実を塗りつぶすこともある。あまり考えすぎないことだ」
大郷は冷たく、話題を切り上げた。
その夜、一人の学生が夜間授業の帰り道でふと振り返った。
街灯の下、雨に濡れた路面に――赤い何かが、静かに揺れた気がした。
了