第1話 灯りの灯る部屋
(登場人物)
・大郷:31歳男性。東京の出版社を辞め、現在は実家の手伝いと、趣味の物書きに勤しむ日々。趣味の文芸活動は家族以外には伝えていて、知っている者からは「先生」などと呼ばれている。
・嘉本:30歳男性。同じく東京在住。仕事の傍ら、趣味の怪談好きが高じて心霊スポット巡りやフィールドワーク等を行っている。
・伊香 澄佳:21歳女性。大郷の前職の後輩。とある事件をきっかけに、何かと声を掛けてくるようになった。
夜の居酒屋「酔ひ処やもめ」は、氷の当たる音と喧騒で週末の湿度を薄めていた。
カウンターの端で、大郷は串焼きを頬張り、嘉本はハイボールの中で氷を小さく鳴らす。
「大郷先生よ、
この前言ってた怪談会、行ってみないか?」
「平日じゃなかったか?」
大郷が淡々と返す。
大郷と嘉本は、高校時代からの付き合いだ。
生活圏が近く、三十路を超えた今も、折を見てはたまに飲みに来る。
「有休を取る」
「変わらんなぁ……だから出世しないんだよ」
「そりゃねえぜ、先生」
嘉本が笑った瞬間、暖簾が勢いよく跳ねた。
「先生!」
スーツ姿のOL 伊香が、ヒールの音を軽やかに響かせ、一直線にやってくる。
大郷を先生呼びする人間にろくな奴はいない。
伊香は、大郷が以前勤めていた職場の後輩だ。
当初は反目していた時期もあったが、ある事件をきっかけに、妙に頼られるようになった。
「先生、どうしても聞いてほしい話があるんです」
伊香は座るなり、大郷の肩に当然のように手を置いた。
「……なんでここが分かった」
「嘉本さんのインスタに“ここにいる”って」
「なんだガキンチョ……
相談なら俺様が乗ってやろうじゃないか?
ついでに道徳も教えてやろう。
男同士の差し飲みに、女が乗り込んでくるんじゃねえ、ってな」
「嘉本さんは信用できません。
三十超えて未婚の子供部屋おじなんて色々終わってます」
「……お前、俺が嫌いだろ」
「はい」
「即答かよ!」
伊香は満足げに頷くと、スマホを取り出して二人の前に突き出し、動画を再生し始めた。
画面には古びたアパートが映っている。
夜の闇の中、一室の窓が淡く光り、数秒後消えた。
「蛍光灯の光……じゃなさそうだな」
嘉本が身を乗り出す。
「前の住人がいなくなってからずっと空室。
なのに、毎晩、夜の二時にこうなるそうです。
知り合いがオーブだの、火の玉だのと怯えてて……」
「……前の住人?」
嘉本が声を低くする。
「半年前、足立区で女子大生が元彼に殺された事件、覚えてません?」
足立区女子大生殺人事件。
犯人は被害者の元交際相手だと報道されていた。
生前、女子大生は警察にストーカー被害を訴えており、事件後は警察の対応の不備が問題視され、ちょっとした社会問題になっていた。
今となっては新しい話題に埋もれ、世間の興味も薄れてしまっている。
大郷はスマホの画面を拡大し、再度動画を確認した。
白い霧のように窓辺に漂う光に照らされ、動画があらいせいか、奥で影のようなものが揺れているようにも見えた。
「……面倒くさいな」
「またそれ!」
伊香は笑って、大郷の袖を軽く引く。
「先生、気になるんでしょ?」
「……住人がいないなら、ブレーカーは落ちているはずだ。
この光は電灯じゃない。
確認には値するな」
「決まり!」
言うなり、伊香は勝手に会計ボタンを押した。
「おい、俺まだ唐揚げ——」
「嘉本さんは留守番でもいいですよ」
「チッ……分かった、行くよ!」
アパートは駅から十五分ほどの古い住宅街にあった。
三階建ての薄いベージュ色の建屋。
問題の部屋は二階の角部屋で、通りを挟んだ向かいには築浅のマンションがそびえている。
時刻は一時五十五分。
夜風は熱を含み、遠くでは首都高が低く唸っていた。
「ほら」
伊香が顎で示す。
「もうすぐ二時です」
スマホの時計が二時を指した瞬間、真っ暗だった窓辺に淡い光がふっと生まれる。
蛍光灯のように均一ではなく、まるで呼吸しているかのように強弱を繰り返す光。
カーテンが微かに膨らみ、その内側を何かが横切ったように見えた——
「……出たなあ」
嘉本が囁く。
「あの、今……何か動いてませんでした?」
伊香が小さく息を呑む。
次の瞬間、光はふっと消えた。
大郷は目ざとく向かいのマンションを見遣り、ある一室で何かが動いたのを見つける。
「あそこだな」
短く言い、大郷は困惑する二人を連れて通りを渡った。
インターホンを押すと、間をおいてドアが開く。
やつれた男が顔を出し、怪訝そうに三人を見た。
「……何か?」
「向かいのアパートの空き部屋に光を当ててますよね。理由を聞きたい」
「なっ……!
し、知りませんよ……何を唐突に」
男はそう言い、すぐに扉を閉めようとする——が、嘉本の足がドアの隙間にねじ込まれた。
「おっと、閉まらねえぜ? 話ぐらい聞かせてもらおうか」
「言うことを聞かないと警察呼びますよ!」
伊香も扉を抑えながら言い放つ。
お前が言うな、と嘉本は苦笑したが、警察と聞いて、男の目がわずかに怯んだのを、大郷は見逃さなかった。
数秒の逡巡の後、観念したのか男は扉を開け、三人を部屋に招き入れた。
室内には大きな鏡、照明スタンド、そして窓際に望遠鏡。
レンズの先はアパートの空室を向いている。
「うわ……本当に盗撮してる……」
伊香が眉をひそめる。
「あの部屋は誰も住んでいないはずだが、何を見ていた?」
嘉本が問う。
しばし沈黙の後、大郷がぽつりとこぼした。
「……事件の日も、見ていたんだな」
男は、視線を窓の外へ逸らし、絞り出すように語り出した。
――最初は好奇心だった。
天体観測と洒落こんで買った望遠鏡を、ふと真向いのアパートに取り回した時、件の部屋の窓から彼女の姿が見えた。
今時、カーテンを閉めずに生活するなんて不用心だなと思いつつ、男好きする容姿に目を奪われたのと、非日常染みた興味が後押しし、覗き見が習慣となってしまった。
邪な下心は否定できないし、犯罪行為なのは重々承知だったが、関東に引っ越して間もない男にとっては、自分以外の誰かが生活しているのを確認することは、心の安寧につながる行為だった。
だがある晩、事態は大きく変わった。
望遠鏡の先で、女子大生が暴漢に首を絞められていたのだ。
盗撮の負い目と“今から動いても間に合わない”という自己弁護が通報を止めた。女子大生の苦悶する数分に満たない時間が、男にとっては永遠のように感じられた。
そんな中、男は女と――目が合った、気がした。
その瞬間、女の焦点の定まらない瞳は、必死に何かを訴える色へと変わったように見えた。
助けて、と叫んでいるようだった。
だが、男の体は硬直し、視線だけが望遠鏡に縫い付けられたままだった。
心臓の鼓動が耳の奥で鈍く響き、喉はひどく乾いて声が出ない。
時間だけが濁った水の中をゆっくりと流れていく。
胸の奥で“動け”という叫びと“無理だ”という囁きがぶつかり合い、ただ指先が震えるだけだった。
やがて——頸の力が抜け、女の体がゆっくりと床へ崩れ落ちる。
最後に見たその瞳は、空洞のような、深い虚無を内包していた。
翌日事件は発覚し、犯人は逮捕された。
事件の発覚当初は騒いでいた世間も、すぐに興味を失ったように波を引いたが、男の中で事件が終わることはなかった。
何度もあの光景を夢に見るのだ。
次第に、夜ごと窓の外を覗くようになり、やがて、ふたたび覗き見が日課になった。
その行為が、「なに」を確かめるためなのか——自分でも、分からない。
ただ、望遠鏡の先の――空洞のような暗がりから、目を離すことができなかった。
「だから、光を当てるんです」
男はかすれた声で、つぶやいた。
まるで、自分の行為を正当化する呪文のように見えた。
「……幽霊じゃなかったんですね」
外に出ると、伊香が小声で言った。
「幽霊の定義にもよるな」
大郷は前を向いたまま答える。
「彼にとっては、あれも幽霊だったんだろう。
怨霊より、よっぽど質の悪い......な」
嘉本は珍しく笑わなかった。
「人間のほうがよっぽど怖ぇわな」
遠ざかるアパートの窓は黒く沈み、今は何も映していない。
だがその黒は、覗こうとする者の瞳にのみ、何かを映すのかもしれない。
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男は独りきりの部屋で、再び望遠鏡を覗いた。
——黒い窓辺には、こちらを見遣る何かの影が、在る気がした。
了